KemaAkeの全国城めぐり

北ノ庄城、福井城 きたのしょうじょう、ふくいじょう
別名 なし
形態 平城
築城年 天正3年(1575)
築城者 柴田勝家
主な城主 北ノ庄城: 柴田勝家
福井城 : 結城秀康、越前松平家
所在地旧国名 越前
所在地 北ノ庄城: 福井県福井市中央1-21-17
福井城 : 福井県福井市大手3
アクセス ●徒歩によるアクセス
北ノ庄城: JR北陸本線 福井駅から徒歩5分
福井城 : JR北陸本線 福井駅から徒歩5分
城までの道順は城の地図の青線を参照してください。
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
北ノ庄城: ☆☆☆☆☆
福井城 : ☆☆☆☆☆
概要 北ノ庄城:
北ノ庄城は織田信長の家臣、柴田勝家が築城した平城である。織田信長は天正元年(1573)に越前を支配する朝倉氏を滅ぼしたが、翌天正2年(1574)に越前で一向一揆が蜂起、柴田勝家を総大将とする7万の大軍でこれを平定する。この功績により柴田勝家は越前8郡を与えられる。柴田勝家は天正3年(1575)から自らの縄張りで、一乗谷城に変わる越前の中心として北ノ庄城の築城を開始する。しかし、本能寺の変での信長横死後、天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、柴田勝家は妻お市とともに北ノ庄城で自害する。このとき城に火が放たれ、柴田勝家が築いた建造物のことごとくが焼失した。

福井城:
福井城は徳川家康次男の結城秀康が、柴田勝家の北ノ庄城と同じ場所に築城した平城である。慶長5年(1600)に徳川家康から越前68万石を与えられた結城秀康は北ノ庄城に入城すると、翌慶長6年(1601)から柴田勝家時代の北ノ庄城を城域に含め築城を開始した。慶長9年(1604)に結城秀康が松平性を名乗ることを許されると、名実共に徳川一門の居城にふさわしい城となるよう、諸大名の手伝普請により、約6年をかけて五重の水堀に囲まれた巨大城郭が完成した。この築城で柴田勝家時代の縄張りや遺構は失われている。秀康築城時はまだ北ノ庄城と呼ばれていたが、福井藩三代藩主松平忠昌により福井城と改められる。その後明治維新まで越前松平家が城主を務めた。
城内案内図など 福井城 :城内案内図(830x580)
登城日 2010/04/29
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 北ノ庄城:
本丸付近が小さな公園として整備されており、発掘された柴田勝家時代の石垣、および結城秀康時代の石垣を同時に見ることができます。

福井城:
本丸の石垣と、内堀が残っています。本丸の石垣は徳川一門の城だけあって、大変立派です。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。各写真の下の赤○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示します。城までの道順は青線を参照してください。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。


福井城は北ノ庄城の城域を含んで築城されました。そのため現在、福井城跡と北ノ庄城跡は非常に近くにあり、今回は両城を合わせた登城記となります。

北ノ庄城址・柴田公園
城の地図:赤1

北ノ庄城址・柴田公園です。北ノ庄城の縄張りや遺構は、結城秀康による福井城築城により破壊され、その全貌は失われました。平成5年(1993)から行われた発掘調査により北ノ庄城の石垣などの遺構が見つかり、これらの遺構を展示するため、平成16年(2004)に北ノ庄城・柴田公園として整備されました。写真中央切妻屋根の建物は、柴田勝家を祀る柴田神社の拝殿です。
柴田勝家の銅像

柴田勝家の銅像です。公園内には武者姿の柴田勝家の銅像があります。このワイルドな感じが「鬼柴田」と呼ばれた勝家のイメージにぴったりです。
お市の方の銅像

お市の方の銅像です。柴田勝家の銅像の裏には妻であるお市の方の銅像があります。420年前、この場所で柴田勝家とお市の方は最後のときを迎えたわけです。
北ノ庄城の堀跡

北ノ庄城の堀跡です。福井城の層より下層から発掘された、幅が25メートル以上ある南北に延びる堀跡です。堀の規模から柴田勝家の北ノ庄城の堀と考えられており、写真に写っている石列は堀南面の石垣です。
北ノ庄城の石垣

北ノ庄城の石垣です。北ノ庄城址・柴田公園のあたりは、柴田勝家の北ノ庄城の天守閣があった場所と伝えられています。この写真の石列は、柴田勝家の北ノ庄城の石垣遺構で、本来高く積まれていたものが、結城秀康の福井城築城の際に破壊され、根石のみが残ったものと考えられています。もしかしたらこの石垣の上に柴田勝家が築いた9重の壮大な天守閣が建っていたのかもしれません。
再現された九十九橋

再現された九十九橋です。九十九橋は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋で、柴田勝家が半石半木の橋としたと伝えられています。明治42年(1874)に木造トラスの橋とされるまで、十回以上も半石半木の橋として架け替えが行われ、その珍しさから全国的にも知られていました。公園内に再現された九十九橋は、欄干部分に往時から残されていた石材を使っています。
福井城の石垣と北ノ庄城の堀跡

福井城の石垣と北ノ庄城の堀跡です。石垣は福井城のもので、このあたりは福井城三の丸、日向門のあった場所になります。写真中央、鉄板の辺りがさらにくぼんでいますが、これは発掘調査から想定復元された北ノ庄城の堀跡です。このように北ノ庄城址・柴田公園は柴田勝家時代と結城秀康時代の異なる遺構の重なり具合を見ることができるように整備されています。
福井城日向門の礎石

福井城日向門の礎石です。発掘調査で確認された礎石の痕跡を位置表示しています。写真手前の石列と奥の石垣はかつては土居で、日向門の枡形を構成していました。現在、写真奥の石垣の上には柴田勝家の銅像が建っています。
福井城石垣の刻印

発掘された石垣には刻印を見ることができます。
展示資料館から見た北ノ庄城址・柴田公園

展示資料館から見た北ノ庄城址・柴田公園です。北ノ庄城址・柴田公園には展示資料館が併設されており、北ノ庄城や福井城に関する資料が展示されています。明治7年(1874)に発掘された、北ノ庄城のものと思われる石造りの鬼瓦も展示されています。

北ノ庄城址・柴田公園をあとにし10分ほど歩くと福井城跡があります。福井駅からは歩いて5分かからない距離です。現在は本丸の石垣と内堀を残すのみとなっていますが、広大な堀と高石垣からは、かつての威容をしのぶことができます。

福井城瓦御門跡と御本城橋
城の地図:赤2

福井城瓦御門跡と御本城橋です。瓦御門は福井城本丸の正面入り口で、外側の高麗門と内側の渡櫓門で枡形を構成していました。渡櫓門は幅約28メートル、奥行き約7メートルと大きく、本丸御殿に通じる福井城の正門にふさわしいものでした。奥のビルは福井県庁です。福井城本丸跡には福井県庁や、福井県警があり福井県の行政の中心となっています。
結城秀康の石像

結城秀康の石像です。瓦御門跡を入ると結城秀康の石像があります。結城秀康は徳川家康の次男ですが、家康から嫌われ、羽柴秀吉の養子(実際には人質)に差し出され、さらに関東の大名、結城家の養子に差し出されるなど、不遇な境遇を送っていました。しかし、関ヶ原の戦い後50万石以上の大幅な加増を受け、越前68万石の領主となり、福井城築城と北ノ庄の城下町の大改造を行い、現在の福井の街の原型を築きました。慶長9年(1604)には松平姓を名乗ることを許されましたが、生涯結城姓を通したとも言われています。父、家康への複雑な思いがあったのかもしれません。

福井城瓦御門跡の石垣

福井城瓦御門跡の石垣です。瓦御門の石垣は外側が打ち込み剥ぎ、内側は写真のような切り込み剥ぎになっています。まるでレンガ積みのように規則正しい切り込み剥ぎが見事です。
福井城天守台

福井城天守台です。福井城の天守台は二段になっており高さは約9メートルあります。一段目は天守台というより、天守曲輪のようになっており、その上に天守台と控天守台があります。
福井城天守台の階段

福井城天守台の階段です。階段の端には写真のように手すりの跡と思われる窪みが残っています。
福井城天守台と控天守台

福井城天守台と控天守台。天守台一段目の上は写真のようになっており、左側の石垣が天守台、右側の石垣が控天守台です。福井城天守閣は四層五階で高さは約28メートルあり、最上階には回縁を設けていました。しかし寛文9年(1669)に焼失し、以後再建されることはありませんでした。
福井城天守閣の礎石

福井城天守閣の礎石です。天守台の上には、天守閣の礎石が残っています。
福井城天守台から見た控天守台

福井城天守台から見た控天守台です。控天守台の中央が崩れていますが、これは昭和23年(1948)の福井地震の際に崩壊したものです。
福井城天守台にある福の井

福井城天守台にある福の井です。この古い井戸は、福井城築城前からここにあり、名井として知られていました。寛永元年(1624)この福の井にちなんで、北ノ庄から福井に地名が改められたと伝えられています。現地にある福の井の案内碑には「寛永元年(紀元2284年)」と記載されています。なぜ未来?と思いましたが、どうやら皇紀のようで、調べたところ皇紀2284年は西暦1624年となっており、変なところに驚いてしましました。
北西から見た福井城本丸跡

北西から見た福井城本丸跡です。写真中央は天守台です。写真のように本丸の石垣はほぼ完全な形で残されています。
福井城御廊下橋

福井城御廊下橋です。御廊下橋は藩主が政庁であった本丸と、住居であった西三の丸の御座所を往復するための専用の橋で、屋根付の珍しい橋でした。平成20年(2008)に復元されました。
福井城山里口門跡

福井城山里口門跡です。御廊下橋を渡ると、山里口門跡があります。写真のように通路が屈曲しており枡形らしさを感じることができます。福井城の他の門では、枡形を形成する石垣の一部が破壊されているため枡形らしさを感じることができるのはこの門だけでした。
南東から見た福井城本丸跡

南東から見た福井城本丸跡です。写真中央は巽櫓の石垣です。福井城本丸には中央に御殿、北西隅に天守閣、北東、南西、南東の隅にそれぞれ二重の櫓がありました。寛文9年(1669)に天守閣が焼失すると、南東隅の巽櫓、南西隅の坤(ひつじさる)櫓が三重に改築され、城の象徴となりました。福井城は本丸を中心に同心円状に二の丸、三の丸を配置した輪郭式の城郭でした。
地図が表示されない場合は、F5キーでページを更新してください。


より大きな地図で 北ノ庄城、福井城 を表示


TOP 北陸の城 次の城へ