KemaAkeの全国城めぐり
KemaAkeの全国城めぐり
七尾城
ななおじょう
別名なし 桜馬場跡北面石垣1
形態山城
築城年と築城者正長年間(1428〜1429)ごろ 能登畠山氏
主な城主能登畠山氏
住所と所在地旧国名石川県七尾市古屋敷町
アクセス JR七尾線、七尾駅
七尾駅前バス停
↓七尾市循環バス まりん号 逆回り(約13分)
城史資料館前バス停
↓徒歩(約1分)
七尾城史資料館

城史資料館から七尾城主要部までの道順は城の地図をご確認ください。
七尾市循環バスの情報はこちら
概要
七尾湾を一望できる石動山系の標高約300メートルの山に築かれた山城。 城地は南北約2.5キロメートル、東西約0.8キロメートルの範囲におよび、山麓から山上まで尾根筋にいくつもの曲輪を配置し、山城としては全国屈指の規模を誇る。
尾根筋を堀切で分断した中世的な縄張りではあるが、織豊期以前の古い石垣と以後の石垣が残る。
-----------歴史------------
●室町時代
七尾城は能登国守護畠山畠山満慶(みつのり)によって正長年間(1428〜1429)ごろに築城されたとされる。 五代慶致(よしむね)のころには麓にあった守護所が七尾城に移された。当初は小さな砦であったが順次拡充が行われ八代義続、九代義綱の時代には能登で戦乱が続いていたため、最大の縄張りとなった。
●安土桃山時代
天正4年(1576)に越後の上杉謙信が能登へ侵攻し七尾城を包囲する。 一年間持ちこたえたが、翌天正5年(1577)重臣の遊佐続光が上杉方に内応、これがきっかけとなり開城した。 畠山氏に変わって上杉家臣の鰺坂長実が城代となるが、天正9年(1581)には織田氏が能登を領有、前田利家が城主となる。 しかし利家は政治を行うのに不便な山城を嫌い、麓の小丸山城に移った。そのため七尾城は利家の子、利政が城主となったが天正17年(1589)に廃城となった。
遺構 普請:曲輪、空堀、土塁、石垣
作事:現存せず
天守:なし
城内案内図など 七尾城史資料館からの案内図(3849x3866) 現地案内板より
主要部復元鳥瞰図(1800x1000) 現地案内板より
登城日2019年11月10日
おすすめ度☆☆☆☆☆
過去の登城記2011年11月13日
感想など
・アクセス
JR七尾駅からは1時間に一本程度、七尾市コミュニティバス、まりん号が出発しているのでこれを利用すれば城の入り口である城史資料館までは15分程度で到着します。 歩くこともできますが45分程かかると思います。ただ城史資料館からは本格的な登山となるので無理せずバスを利用することをおすすめします。
私の場合、行きは城史資料館までバスを利用し、帰りは時間の都合があり七尾駅までひたすら歩きましたがなかなかに疲れました。 これはテンションが上がって当初予定していなかった城山展望台まで足を伸ばしてしまった私も悪いのですが…

・感想
8年前ぶり二度目の登城です。前回登城時より私の体重も大幅に減り、いくつもの城をめぐってきたため山登りは前回ほどのキツさは感じませんでした。 とはいえ本格的な山城です。靴だけはちゃんとしたトレッキングシューズで挑みました。 そして日本屈指の山城ということで非常に広大で、前回疲れて回りきれなかったところも回ったためかなりの時間がかかりました。
主要部各所に見られる杉林の中の苔むした石垣はとても美しく、城ファンでなくても必見です。 同時に中世城郭らしい巨大な堀切や急峻な登城道などは城ファンでも満足できるはずです。 そして本丸からの景色は上杉謙信が漢詩を読むほどの絶景で登山としても楽しめる城だと思います。 また折を見て再登城したい城の一つです。

登城記
1. 七尾城史資料館周辺
撮影場所1 七尾城史資料館
七尾城史資料館
懐古館
懐古館
七尾城史資料館入口
七尾城史資料館入口
登城道入口
登城道入口
徒歩での七尾城の玄関となるのが七尾城史資料館で、昭和38年(1963)に七尾城主畠山氏の子孫である畠山一清によって建てられた中世の城をイメージした近代建築です。 この畠山一清氏はポンプで有名な東証一部上場企業、荏原製作所の創業者です。
館内には七尾城や城下からの出土品、武器や武具、城主直筆の書翰などが展示されており、往時の七尾城を再現した映像が公開されています。 なお日本百名城スタンプは資料館入口にあります。 敷地内には「懐古館」という江戸時代後期の肝煎(きもいり=庄屋)の家も残されており、こちらも内部を見学することができます。
祠のある七尾城資料館入口手前の分岐(3枚目写真)を右に進むと、道路の右側に登城道入口(4枚目写真)があります。 この登城道入口が少しわかりにくいので注意してください。
2. 大手道〜長坂
撮影場所2 大手道
大手道
立石のお地蔵さん
立石のお地蔵さん
登城道1
登城道1
登城道2
登城道2
登城道3
登城道3
撮影場所3 登城道分岐
登城道分岐
小田吉之丈顕彰碑
小田吉之丈顕彰碑
撮影場所4 長坂
長坂
大手道は城下から本丸へいたる主要な道路でした。 発掘調査では幅約3メートル、路面に小砂利が敷き詰められ、両側には石組みの側溝があったことが確認されています。 大手道をまたぐ真新しいコンクリートの橋は能越自動車道です。
能越自動車道をくぐると登城道の目印の一つである小さなお地蔵さんがあります。立石のお地蔵さんと呼ばれ、拝むと虫歯が治るとのことです。
お地蔵さんを過ぎると民家の間や裏の細道を縫うように進みます。本当に入っていいのか少し戸惑いますが、案内板が充実しているため安心して進むことができます。
登城道分岐(6枚目写真)を右に進むとすぐに小田吉之丈顕彰碑がありここから本格的な山道となります。
長坂(ながさか)にはかつて門があり、畠山氏の通用門とも家臣の出入り口ともいわれ、この先は遠来の人の通行は禁じられていました。 長坂より上には蔵屋敷や時鐘跡、沓掛場などの曲輪が設けられ、城内とみなされていたと思われます。
3. 時鐘跡
時鐘跡1
時鐘跡1
時鐘跡2
時鐘跡2
時鐘跡は朝夕、城内を始め城下に鐘で時刻を知らせたところです。案内板の裏、土塁の上になんらかの建物があったと思われます。 なお、登城道入口から大手道を経てここまで、写真を撮りつつ徒歩約30分ほどでした。
4. 七曲り
撮影場所5 七曲り1
七曲り1
七曲り2
七曲り2
古くは急カーブの連続を「七曲り」と形容していましたが、七尾城では「七曲り半くぼ」と呼ばれていました。 かつてはここに楼門があったといいます。
この辺りの登城道は尾根筋を通り左右はすぐに深い谷となっています。
5. 安寧時跡
撮影場所6 本丸方面と安寧時跡分岐
本丸方面と安寧時跡分岐
撮影場所7 安寧時跡1
安寧時跡1
安寧時跡2
安寧時跡2
安寧時跡からの眺望
安寧時跡からの眺望
本丸方面と安寧時跡分岐(1枚目写真)を左に進むと寺屋敷、調度丸方面を経由する本丸への最短ルートです。 右に進むと安寧時跡、三の丸、二の丸を経由するルートで、こちらが大手道に当たります。
安寧寺跡には畠山氏の墓碑や七尾城攻防戦で滅んだ武士たちの慰霊碑があります。 元禄時代頃の絵図には「安寧寺」とあることから、遅くとも江戸時代には安寧寺があったようです。 かつてはお堂などが建てられていたためか、これまでの番所や時鐘跡と比べて大きな曲輪になっており、登山を初めてから初の曲輪らしい曲輪になります。 登城を初めてから最初の見晴らしの良い場所となっており七尾市街を望むことができます。
6. 三の丸〜二の丸
登城道4
登城道4
撮影場所8 三の丸1
三の丸1
三の丸2
三の丸2
三の丸石積み
三の丸石積み
撮影場所9 大堀切
大堀切
大堀切から三の丸を見上げる
大堀切から三の丸を見上げる
撮影場所10 二の丸
二の丸
温井屋敷の石垣
温井屋敷の石垣
安寧寺跡の東南に位置する三の丸は、南北110メートル、東西25メートルの広さで七尾城最大規模の曲輪で、包みこむように袴腰(帯曲輪)で補強されています。 二の丸との間は幅約40メートル、高さ約26メートルにもおよぶ大堀切で仕切られ、本丸を中心とした主郭とは別の曲輪郡を構成しています。 三の丸にはなんらかの建物の礎石、あるいは石塁の跡が残されています。 安寧寺跡と三の丸の比高は大きく、階段は一段の高さが30センチメートル以上はある非常に急なものです。全国の城でも屈指の急な階段だと思います。
三の丸の南側に位置する二の丸は、本丸に次ぐ第二の拠点で、周囲をたくさんの小曲輪に囲まれています。大堀切を昇り降りするための階段は相変わらず急で、安寧寺跡から二の丸まではなかなかに疲れます。
7. 九尺石
九尺石1
九尺石1
撮影場所11 九尺石2
九尺石2
九尺石は七尾城で最大の巨石で城の鎮護のかなめ石とされていました。大きさがそのまま名前となっています。
温井屋敷と呼ばれている曲輪の虎口の一部で、かつてはここに大手道が通っていたという説もあります。であれば九尺石も虎口の鏡石としての位置づけができます。 残念ながら案内板等にもこの説は記載されておらず、現在では虎口らしさは感じられません。
8. 桜馬場跡周辺
遊佐屋敷跡方面を見る
遊佐屋敷跡方面を見る
撮影場所12 桜馬場跡北面石垣1
桜馬場跡北面石垣1
桜馬場跡北面石垣2
桜馬場跡北面石垣2
桜馬場跡北面石垣3
桜馬場跡北面石垣3
桜馬場は軍馬の調練や検分を行うための曲輪です。東西45メートル、南北25メートルの広さがあります。 調度丸跡から見た桜馬場跡北面の石垣(2枚目写真)は城内屈指の見どころです。
七尾城では高さ約2〜3メートルの野面積みの石垣を数段重ねて用いており、ここではその様子がよくわかります。 石垣自体は昭和になってから積み替えられたものですが、杉木立の中の石垣は幻想的で、古城の雰囲気満点です。 城が現役の頃はこのような木立はなく、麓からも石垣群を望むことができたでしょう。
なお、桜馬場跡の南側には一段高い西の丸がありますがここは道が整備されておらず入ることはできませんでした。
9. 調度丸跡周辺
調度丸跡
調度丸跡
桜馬場跡を見下ろす
調度丸跡を見下ろす
撮影場所13 調度丸虎口
調度丸虎口
本丸を見上げる
本丸を見上げる
調度丸は弓矢などの武具(調度)を整えた場所で、多数の出土品が発見されています。
調度丸に入ると前項の桜馬場跡の石垣に目を奪われますが、寺屋敷方面から続く登城道から見る石垣(3枚目写真)もなかなか見応えがあります。
10. 遊佐屋敷跡
撮影場所14 遊佐屋敷跡
遊佐屋敷跡
遊佐屋敷跡石塁1
遊佐屋敷跡石塁1
遊佐屋敷跡石塁2
遊佐屋敷跡石塁2
遊佐屋敷跡石塁3
遊佐屋敷跡石塁3
遊佐屋敷は本丸のすぐ西下に位置する曲輪です。東西25メートル、南北40メートルの広さがあります。 七尾城の中心部にあることから守護代の地位にあった遊佐氏の屋敷跡と伝えら得ています。
桜馬場の一部を石塁で間仕切りしたようになっており、曲輪の真ん中にこのように整った石塁がある城はあまりないような気がします。
11. 本丸跡周辺
本丸跡への石段
本丸跡への石段
撮影場所15 本丸前面の石垣1
本丸前面の石垣1
本丸前面の石垣2
本丸前面の石垣2
本丸前面の石垣3
本丸前面の石垣3
本丸跡
本丸跡
撮影場所16 天守台
天守台
本丸からの眺望
本丸からの眺望
本丸外枡形石垣
本丸外枡形石垣
本丸は東西50メートル、南北40メートルの広さがあり、二の丸までを一連の曲輪として七尾城の主郭を構成しています。
本丸北面の石垣は高さ約4メートルほどの三段の野面積みで高石垣を積む技術がなかった時代の様子を残しています。 石材は丸みがあり角石も全く加工されておらず近世の石垣と比べてやわらかい感じです。
本丸の南隅は高さ約3メートルほどの土塁で一段高くなっており天守台と呼ばれています。天守台は標高約300メートルで城内で最も高い場所です。 かつて七尾城を攻略した上杉謙信はここで漢詩を読んだと伝えられ、現在は城山神社がまつられています。
本丸は北面の視界がひらけており、七尾市街、七尾湾、能登島を見渡すことができ、謙信が漢詩を読んだのも納得の眺めとなっています。
12. 寺屋敷跡
寺屋敷跡
寺屋敷跡
撮影場所17 大塚
大塚
三の丸から調度丸へ至る途中の脇道の先には寺屋敷跡があります。目立たない場所にあるため訪れる人も少ないようです。 説明板には「墓守を兼ねた僧兵が居住した地」とのみ記載されており巨大な土まんじゅう「大塚」に目をひかれます。
この大塚、2021年に七尾市教育委員会が発行した史跡七尾城跡整備基本計画書(案)によれば、 "形状は多角錐で、平面は六角形ないしは八角形を呈し、底部長辺約12m、高さ約3mを測る。 この遺構の性格については、発掘調査が行われていないため推論の域にとどまるが、七尾城に伴う寺院や庭園などの関連遺構の可能性が考えられる。" とあります。
確かに日本庭園に見られる築山にも見えますが、「大塚」の名前の通り古墳のようにも見えます。 本来は庭園の築山だったものが寺屋敷という曲輪名にともない、墓を意味する「大塚」と呼ばれるようになったのでは?などといろいろと考えてしまう興味深い遺構です。
13. 長屋敷の大堀切
撮影場所18 長屋敷の大堀切1
長屋敷の大堀切1
長屋敷の大堀切2
長屋敷の大堀切2
本丸の東側には長屋敷跡があり、本丸との間には深さ約25メートルの大堀切を設け本丸の守りを固めています。 現在、長屋敷跡には歩道が整備されておらず立ち入ることはできません。 駐車場が本丸と長屋敷とを結ぶ曲輪とされていますが、破壊されたため当時のルートは確認されていません。 江戸時代終わり頃の古絵図には大堀切に関東橋と呼ばれる橋が描かれており、廃城後にも関わらずなんらかの往来があったことが推測できます。
14. 城山展望台
撮影場所19 城山展望台
城山展望台
七尾市街方面の眺望
七尾市街方面の眺望
本丸跡方面の眺望
本丸跡方面の眺望
本丸跡を望む
本丸跡を望む
厳密には七尾城内ではないのですが駐車場からさらに足を伸ばして城山展望台に向かいました。 七尾城駐車場からは20分ほど車道を歩きましたが七尾城を歩きまわった後だったのでなかなか大変でした。
城山展望台は七尾城本丸よりさらに高い場所にあり標高約370メートルとなります。 展望台からは石川県の地形がわかるほどに遠景を見渡すことができ、なにより七尾城の本丸を見降ろすことができます。 山城を見降ろすというのもなかなか珍しい体験ではないでしょうか。

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