感想など
・アクセス
箕輪城の最寄り駅はいずれもかなり遠く駅から歩いて向かうのは難しいです。最もわかりやすく簡単なのは高崎駅西口からのバス利用です。
箕輪城の周辺には多くのバス停がありますが、今回は箕郷田町バス停で下車しました。
箕郷田町バス停は100名城スタンプが設置してある高崎市箕郷支所にも寄り道しやすく、
ここを通る「群馬バス 高崎駅-箕郷-伊香保温泉 伊香保案内所行」は高崎駅西口から乗換なし、運行本数も1時間に一本と充実しています。
箕郷田町から井伊氏時代の大手門である虎韜門跡までは緩やかな上り坂を20分ほど歩くと到着します。
・感想
武田信玄の侵攻を何度も防いだ難攻不落の名城として名高く、小さい頃は信長の野望で上野にやたら大きな城があるなと思っており、読み方も難しく印象に残っていた城です。
同じく中世城郭として有名な鉢形城や山中城と比べると整備は進んでいませんが、かえって古城の趣を感じます。
整備が進んでいないため空堀は長い年月を経てかなり埋まっていますが、それでもその幅と高さは相当なものです。本丸を囲む空堀は特にそれが顕著です。
井伊直政によって少し近世城郭としての整備が行われており、家康の関東入り直後の石垣を見ることができるのも興味深いです。
時期的には石垣山一夜城より新しいものですが、石の加工はされておらず技術的には未熟な印象を受けます。
この城からはまだ秀吉存命中で権力を握っておらず、西日本ほどの築城技術を持たないこの時期の家康の立場を垣間見たような気がします。
登城記
1. 虎韜門跡〜鍛冶曲輪
虎韜門跡
虎韜門跡石垣
白川口埋門跡
大堀切
大堀切
鍛冶曲輪
鍛冶曲輪石垣
鍛冶曲輪石垣
虎韜門は井伊氏の大改修で大手口となりましたが長野氏時代は搦手口であったと考えられています。
井伊氏時代のものであろう石垣の一部が残っています。
虎韜門の近くには群馬県の城郭では珍しい埋門形式の白川口埋門跡もありいかにも搦手らしいです。
白川口埋門は城外西部に抜ける唯一の門で鷹留城との連絡のために少数の兵が使用していたものと思われます。
搦手ということで緊急時の脱出口としても使用されたのではないでしょうか。
大堀切は箕輪城の特徴である一城別格を構成するため城を南北に分断する巨大な空堀で、現在は幅30メートル、深さ9メートルの規模があります。
2001年の発掘調査の結果、本来の大堀切は現在よりも7メートル以上深かったことがわかりました。
また、堀底付近からは堀を遮る高さ2.5メートルの石垣が検出され、敵兵を堀底で自由に動けないようにした畝堀のようになっていたこともわかりました。
鍛冶場のあった鍛冶曲輪には丸い河原石ををそのまま用いた野面積みの石垣が残っています。
2. 三の丸
三の丸石垣
三の丸石垣
三の丸石垣
三の丸石垣
三の丸虎口
三の丸
鍛冶曲輪の先、登城道は三の丸へ続きますが、その行く手を遮るように三の丸石垣が築かれています。
大手筋を固めるこの石垣は井伊氏時代に築かれたもので、河原石を用いた野面積みとなっています。
関ヶ原の戦い以前の関東地方の城郭としては有数の規模です。
一部の積石はかなり大きく鏡石を意識したのかもしれません。
発掘調査ではこの石垣の背後に高さ1.3メートルほどの人頭大の河原石を階段状に積んだ古い石垣が見つかっています。
同様の特徴を持つ石垣は
鉢形城でも確認されており、北条氏時代に技術が共有されたものと考えられています。
3. 本丸〜御前曲輪〜二の丸
箕輪城中心部となる本丸と御前曲輪は 幅30メートルから40メートル、深さ10メートルの空堀で囲まれ、堀底に下りることができます。
箕輪城のように戦国時代の空堀が当時のままに残っているのは全国的にも珍しく、堀底から見上げるととその規模と迫力に驚かされます。
現在でも相当な規模ですが、発掘調査から当時はさらに6メートル以上深い部分もあったことがわかっています。
三の丸から蔵屋敷を経て本丸に至る木橋も復元されています。
発掘調査によって本丸西虎口と蔵屋敷の間の空堀の底から、16世紀末に使われていた木橋の橋脚の礎石が二つ確認されました。
礎石が全て残っていないため完全な復元ではありませんが、高崎城の本丸にかかる橋の絵図を参考にして復元されました。
御前曲輪と本丸は南北に隣接し、御前曲輪は本丸の詰丸となっていました。
御前曲輪には代々の城主の位牌が納めた持仏堂があり、落城時には城主長野業盛をはじめ一族と生き残った城兵全員がここで自刃しました。
発掘調査により西虎口門跡の礎石や雨落溝が良好な状態で確認され、昭和2年(1927)に見つかった井戸の底からは長野氏累代の墓石が多数掘り出されました。
本丸のと御前曲輪の東側には目隠しのための土塁が続いており、この構造から御前曲輪も本丸の一部であったと考えることができます。
二の丸は本丸の南側に位置し、東は搦手、西は白川口と大手方面、南は木俣方面へ続いています。
敵を引き付けて殲滅する迎撃の中枢であり、木柵や櫓台などの遺構が発掘されています。
4. 郭馬出と木俣