KemaAkeの全国城めぐり

安土城 あづちじょう
別名 なし
形態 山城
築城年 天正4年(1576年)
築城者 織田信長
主な城主 織田信長
所在地旧国名 近江
所在地 滋賀県蒲生郡安土町下豊浦
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR東海道本線(琵琶湖腺) 安土駅から南口まで徒歩25分
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆
概要 天正4年(1576年)に織田信長が、近江六角氏の本城であった観音寺城の支城があった安土山に、丹羽長秀を普請奉行として築城を開始した。安土山は岐阜と京都のほぼ中間点に位置し、どちらにも一日ほどで行くことができ、また琵琶湖に面し水運の便もよく、戦略的に重要な位置にある。天正7年(1579年)に天主や御殿などが完成し、一応の完成をみせる。しかしそのわずか3年後の天正10年(1582年)に本能寺の変により信長が横死。明智光秀がわずかな間支配している。光秀が山崎の戦いで敗れた後、原因不明の火災により天主や御殿などが焼失。その後も織田氏の居城として、信長の孫の秀信などが入城している。天正11年(1583年)に羽柴秀吉の養子、秀次の八幡山城築城にあたり廃城となった。
登城日 2008/05/08
2017/03/14
撮影カメラ RICOH Caplio R6
みどころ 城郭に用いられたものとしては最初期の野面積みの石垣や、復元された大手道など。また、安土城の天主を目撃した唯一の生き証人である総見寺の三重塔や山門など。他に建物はありませんが十分です。かつて、この場所にその後の城に見られない豪華絢爛な天主があり、信長、秀吉、家康、光秀、前田利家、柴田勝家といった有名武将たちが間違いなく居たというロマンだけでお腹いっぱいです。

登城記
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信長公の銅像

彦根城に続いてゴールデンウィークを利用しての登城です。10時ころ安土駅に到着。信長公のお膝元ということで、駅前には信長公の銅像がありました。観光案内所で地図をもらい安土山を目指します。
セミナリヨ跡

途中セミナリヨ跡に立ち寄ります。歴史の教科書に載っているアレです。石碑があるだけですが…
安土山遠景

安土山遠景です。写真左側の低い石垣の当たりが南口になります。南口は西枡形虎口と大手三門からなります。大手三門はその名前の通り、門が三つならんだ構造で、中央の門が一回り大きくなっています。城郭の門がこのような構造で作られることはありません。通常は門の数を減らし、虎口を設けて敵の進入を防ぐ構造にします。このことから大手三門は通常の門としではなく、天皇の行幸用の門ではないかと言われています。三門形式は京都御所と同じつくりであり、大手三門は真っ直ぐ大手道に続き、そのまま城の中核部に到達できることもこの説の信憑性を高めています。しかし、安土城はまだ謎が多く、行幸とは関係ないのでは?、門自体が存在しなかったのでは?といった説もあり、今後の調査が楽しみです。

築城時の石垣か?

南口を入って右側に続く石垣を撮影しました。南口の石垣は近年発掘の結果に基づき整備されたものですが、この写真の石垣は築城当時のものでしょうか?縄張り図によると伝前田利家邸跡の下にあるようですが…安土城では江戸時代に石垣の積みなおしが行われているので、その石垣の可能性もあり、はっきりとはわかりませんでした。でも、崩れっぷりが良い味をだしています。
伝前田利家邸跡

大手道の右側にある伝前田利家邸跡です。大手道に対して櫓門を設けていたようです。
伝羽柴秀吉邸跡

大手道の左側にある伝羽柴秀吉邸跡です。伝前田利家邸と同じく、大手道に対して櫓門を設けていたようです。羽柴秀吉邸と前田利家邸で大手道をがっちり守っていたようです。
大手道

大手道です。この大手道も通常の城郭には見られない構造です。これだけの広い道が、真っ直ぐ城の中心部まで続いているのは、防御には向きません。通常は細い道を折り曲げるところです。しかし、前記したとおり、天皇の行幸道ということであれば、この構造も納得がいきます。ただ、この階段はかなり急なので、天皇の乗った輿はひっくりかえんるんじゃないでしょうか。大手道は長い間、城内にある総見寺への参道となっていたためかなり改変が行われていたものを、近年復元整備したものです。
伝徳川家康邸跡

伝羽柴秀吉低跡から伝徳川家康邸跡を撮影しました。でも、徳川家康って信長の同盟者ですよね…なんで城の中に家があるんでしょう。信長に家臣扱いされてたとしたら気の毒です。でも準天下人と普通の大名ですから、しょうがないのかもしれませんね。現在は総見寺の仮本堂が建っています。
大手道の登り口を見下ろす

上から大手道の登り口を見下ろしてみました。かなりの高さがあります。
黒金門跡

伝織田信忠邸跡を通り、さらに登ると黒金門跡にたどり着きます。黒金門は安土城主郭部の表門で、石垣にはこれまでと異なり大きい石が使用され、堂々とした構えになっています。この先の山頂部の狭い範囲に本丸、二の丸、三ノ丸がひしめき合っており、ここを主郭部として狭義の安土城という場合もあります。
内側から見た黒金門跡

内側から見た黒金門跡です。
天守台石垣1

天主台石垣です。蔓草と苔で古城の趣満点です。
天守台石垣2

同じく天主台石垣です。
本丸跡

本丸跡です。かつはここに本丸御殿が建っていました。発掘調査からこの御殿が京都御所の清涼殿と非常に似た構造であることがわかりました。信長公記には、安土城の天主近くには「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、中に「皇居の間」が設けられていたことを記しており、この本丸御殿こそがその行幸御殿だったのではないかと言われています。しかし、前記の通り安土城には謎が多く、現在の二の丸に清涼殿に似た建物があったといった説もあります。
天主の礎石

ついに天主台に到達です。かつてはここに日本史上初の本格的な五重天主が建っていました。なお、他の城では天守と呼びますが、安土城では天主と呼びます。最上階の壁は青色で金色の柱、四重目は八角形で朱色の柱、その他の部分も金箔が施された瓦で飾られ、様々な装飾が施された豪華絢爛なもので、内部は一階から三階までが吹き抜けになっていたという説もあります。また、天主としては異例の御殿として利用できる造りになっていました。信長らしい奇抜なつくりで、その後の天守にはこのようなつくりのものはありません。後に続いた秀吉や家康には真似できなかったのか、あるいは派手すぎてしなかったのかは謎ですが、以後このようなこのような天主が造られることはありませんでした。完成後わずか3年しか存在しなかったこともよりいっそうこの天主に対しての憧れを抱かせます。

総見寺の石垣

天主台を後にし、総見寺方面に向かいます。総見寺は安土城築城の際に信長が建立した寺です。
総見寺三重塔

総見寺三重塔です。甲賀長寿寺から移築されたもので、享徳3年(1454年)に建立されました。築城から100年以上さかのぼるのでかなり古いです。
味のある顔をした瓦

総見寺三重塔の瓦のアップです。味のある顔をしています。
仁王門1

仁王門です。こちらは元亀2年(1571年)に建立されたもので、三重の塔と同じくどこかのお寺から安土城築城の際に移築されたものです。安土城廃城後も総見寺は存続し、18世紀末には22棟の建物があったようです。しかし安政元年(1854年)に本堂を含めほとんどの建物が焼失し、残ったのが三重塔と仁王門になります。これらの建物が在りし日の安土城を目撃した唯一の生き証人となるわけです。420年前に信長もこの門をくぐったのでしょう…
仁王門2

同じく仁王門です。
以上、安土城の登城記でした。安土城内には展示施設などはありませんが、安土城から歩いて20分ほどの観音寺山の麓に「安土城考古博物館」と「安土城天主信長の館」があります。安土城考古博物館には安土城の縄張り模型や、周辺の城に関する展示があります。「安土城天主信長の館」には天主四重、五重目が実物復元されており、一見の価値ありです。安土駅前には「安土町城郭資料館」があり、ここには20分の1の天主の模型が展示されています。この模型は輪切りになっており、内部も見ることができます。喫茶店が併設されていますので、お茶を飲みながらゆっくり見学できます。


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