KemaAkeの全国城めぐり
KemaAkeの全国城めぐり
安土城
あづちじょう
別名なし 大手道その一
形態平山城
築城年天正4年(1576年)
築城者織田信長
主な城主織田信長
所在地旧国名近江
所在地滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
アクセス JR東海道本線(琵琶湖腺)、安土駅
↓徒歩(約20分)
大手三門跡
アクセスのしやすさ☆☆☆☆
概要
---------構造・特徴--------
標高199メートル、麓からの比高100メートルほどの安土山山頂に本丸を置く平山城である。 安土山は岐阜と京都のほぼ中間に位置し、どちらにも一日ほどで行くことができる。かつては琵琶湖に面し水運の便もよく、戦略的に重要な位置にあった。
織田信長はここに日本初となる総石垣造りの本格的な近世城郭を築き、日本初の大型の天主(天守)を築いた。 その姿は現存するどの天守とも一線を画した豪華絢爛なものであったとされる。 また、山麓から安土山中腹までを貫く巨大な大手道、麓の大手三門、堂塔伽藍などその後の城郭にはない特徴も多く備えていた。
これらから安土城は単なる防御施設ではない巨大モニュメントで、「権力の象徴」「見せる城」の原点であったともいえる。

-----------歴史------------
天正4年(1576年)、織田信長が近江六角氏の本城であった観音寺城の支城があった安土山に、丹羽長秀を普請奉行として築城を開始。
天正7年(1579年)、天主や御殿などが完成。信長が岐阜から移り織田政権の中心となる。
天正10年(1582年)、本能寺の変により信長が横死。明智秀満が城主となる。明智光秀が山崎の戦いで敗れた後、原因不明の火災により天主や御殿など主に本丸周辺が焼失する。
その後もしばらくは織田氏の居城として、信長の孫の秀信(三法師)などが入城したが、天正11年(1583年)に羽柴秀吉の養子、秀次が八幡山城を築城すると廃城となった。
遺構 普請:石垣、曲輪
作事:三重塔、仁王門
天守:現存せず
案内図など 案内図(3000x2000)
登城日2017/3/14
過去の登城記2008/5/8
感想など
9年ぶり、二回目の安土城への登城です。 あのころはまだコンデジで写真を撮っていましたが、今はそこそこのデジイチを持ち、 お城の知識もそれなりに増え、気合十分、意気揚々と登城しました。

前回登城時は入城は無料でしたが、現在は安土山を所有しているハ見寺が大手口で大人700円、子供200円の入城料を徴収しています。 これにともない百々橋口からの出入りはできなくなっています。 入城料の徴収は安土城の歴史的価値、保全を考えれば致し方ないと思います。 実際、前回登城時より通路の整備等が進んでいました。
登城して改めて思うことは、やはり「安土城は特別」で「別格」の城です。
この後に続く権力の象徴としての「見せる城」のルーツであり、「安土桃山時代」の語源にもなった日本史において大きな意味を持つ城ですが、 あの信長の夢の跡というのがこの城を他とは異なる特別なものにしていると感じます。 私は信長びいきではありませんが、安土城の木立の中を歩いていると荘厳な空気すら感じます。 四百年以上の時を経て、信長、秀吉、光秀、勝家、利家、家康といった錚々たる武将たちと同じ場所に自分が立っていると思うと感慨深いです。 築城後程なく姿を消した幻の城というのも、この感慨に拍車をかけます。
ずいぶんと感情的になってしまいましたがとにかく「安土城は特別」な城で、私の好きな城の上位に食い込む名城です。 史跡としての整備もこれからますます進むと思われるので城ファンならずとも必見の城です。

登城記
1. 安土駅から安土城址入口
撮影場所1 安土駅
安土駅
安土山遠景
安土山遠景
安土城址の石碑
安土城址入口
撮影場所2 ガイダンス施設内部
ガイダンス施設内部
安土駅は2017年3月現在、新駅舎を建設中です。完成は2018年3月です。 前回登城時は駅前に信長の銅像がありましたが、新駅舎の工事中は別の場所に保管され、完成後に戻されるとのことでした。
注意点として2017年3月現在、安土駅にはコインロッカーがありません。 駅前のお店でコインロッカーや手荷物預かりを行っていますが、コインロッカーは数が少なく、手荷物預かりは営業時間がよくわからず、正直なところ使いにくいです。 安土駅で手荷物を預けるのなら、地下道で線路の反対側に行き「安土城郭資料館」に預けるのが現状では一番便利かと思います。 後述しますが、なによりこの「安土城郭資料館」には安土城天主の大型模型があります。
安土駅から安土城址入口までは徒歩約20分です。最初は住宅地、しばらくすると田んぼが広がる中を進みます。 正面にはひときわ目立つ洋風の大きな建物が二つ見えてきますが、これは「滋賀県立安土城考古博物館」で、その隣には「安土城天主 信長の館」があります。 背後の大きな山は観音寺城跡になります。 そして左側には小高い丘といった趣の安土山が見えてきます。
安土城址入口付近の道路は歩道がないうえに交通量が思いの外多いので注意してください。 入り口の右側には安土城ガイダンス施設があり、自動販売機、トイレ、そして7分の1スケールで復元された天主の五・六階部分の模型が展示されています。 これは「安土城天主 信長の館」にあるものの縮小版と思われます。 なお安土城の有料エリアにはトイレや自動販売機はないのでここで登城の準備をしっかり済ませてください。
2. 大手口
大手口全景
大手口全景
大手三門の案内板
大手三門の案内板
撮影場所3 東虎口
東虎口
東虎口の鏡石
東虎口の鏡石
西虎口1と西虎口2
西虎口1と西虎口2
西虎口付近の竈跡
西虎口付近の竈跡
安土城の大手口は安土山の南側に開かれており、現在の安土城のシンボルである大手道に続いています。 しかし大手口と言いながら、その正面には信長の時代から現在に至るまで田んぼが広がっています。 通常は大手口の前には城下町が広がっているものですが、安土城の場合それは西側の百々橋口にあります。 当時の記録では信長家臣は百々橋口から總見寺境内を通り、本丸へ至ったとあります。
大手口の構造は大小四つの門が東西横一列に並ぶ特異な造りで、他の城に例がありません。 これは安土城への天皇行幸を計画していたとも言われる信長が、京都御所の内裏と同じ三門の形式にしたとも考えられています。
四つの門は西から西虎口1、西虎口2、推定大手門、東虎口と呼ばれています。 西虎口1は枡形虎口で、内部の郭から竈跡が発見されており、日常用であったと考えられています。 西虎口2は平入り虎口で、渡櫓門ないし楼門であったと考えられています。 大手口の中心となる推定大手門は大規模な平入り虎口で、大規模な渡櫓門ないし楼門であったと考えられています。 東虎口は平入り虎口で、薬医門または唐門であったと考えられています。
これらのことからここは大手口と言うより、行幸や公の行事の時に使用する「行幸口」と言ったほうが実態に合っており、 安土城の本当の大手口は百々橋口だったというのが定説になりつつあります。 あまりにも立派なその造りから違和感なく大手口と呼ばれてきましたが、安土城にはこのような「新説」ないし「真説」がたくさんあります。 これひとつを上げても、安土城がその後の近世城郭とは異なる設計思想を持った城であることが伺えます。
3. 大手道
撮影場所5 大手道その一
大手道その一
大手道その二
大手道その二
撮影場所6 大手道から大手口方面を見る
大手道から大手口方面を見る
転用された石仏
転用された石仏
大手口の先には現在、安土山入山のための料金所があり、その向こうに大手道が安土山中腹まで続いています。 発掘調査前は幅3メートルほどで、周囲には木々が生い茂り總見寺への参道の雰囲気が強かったそうです。 しかし、その後の発掘・整備の結果、他の城に類を見ない幅6メートル、長さ180メートルに渡ってほぼ一直線に続く壮大な道が蘇りました。
この道も大手道と呼ばれていますが、京都御所に似た三門構造の大手口から続く上、城に似つかわしくないその造りから天皇行幸のための特別な道だったとも考えられています。
しかし、これについても左右に多くの櫓門などの建物が立ち並び、そこから見下される形になるこの道は天皇が通る道としてはふさわしくないとの説もあります。 なにより180メートルに渡ってほぼ一直線に続いたその道は、突然左に折れ曲がりジグザクで急な階段となります。これでは天皇の乗った輿が通るのは大変でしょう。 そうすると大手口とこの大手道は奇をてらうのが好きな信長のお遊びだったのかも…とも思えてきます。
いろいろな説がある大手道ですが、確実に言えるのはここから見上げる天主はさぞや壮麗で、後にも先にもない素晴らしい光景だったことでしょう。
ちなみにこの大手道には石仏などがところどころに転用石として使用されています。 少し前までは神仏を恐れない信長ならでとも言われていましたが、最近は後北条氏などの城にも多くの転用石が確認されており、この時代にあっては一般的なことだったことが広まりつつあります。 時代は変わったなと感じます。
4. 伝前田利家邸跡
伝前田利家邸跡の案内板
伝前田利家邸跡の案内板
撮影場所7 伝前田利家邸跡その一
伝前田利家邸跡その一
伝前田利家邸跡その二
伝前田利家邸跡その二
伝前田利家邸跡その三
伝前田利家邸跡その三
大手道に入ってすぐ、右側には伝前田利家邸跡があります。この伝前田利家邸も大手口や大手道と同様にあまり根拠のない呼称のようです。 大手道をはさんで向かい側の伝羽柴秀吉邸跡とともに大手道に入ってすぐの関門のようになっています。
上下三段の郭で構成されていますが、現在入ることが出来るのは入口の内枡形付近のです。 かつてはこの枡形を囲むように、大手道に面して隅櫓と櫓門が建てられていたようです。木桶と呼ばれる排水施設も発見されています。 屋敷は厩、台所、遠侍、奥座敷といった建物で構成されており、類例の少ない16世紀末の武家屋敷の遺構を知ることが出来る貴重な遺構です。
5. 伝羽柴秀吉邸跡
撮影場所8 下段櫓門跡
下段櫓門跡
上段の石垣その一
上段の石垣その一
上段の石垣その二
上段の石垣その二
上段から見た下段
上段から見た下段
撮影場所9 上段全景
上段全景
伝羽柴秀吉邸復元図
伝羽柴秀吉邸復元図
伝前田利家邸と大手道を挟んで向かい合うように広大な伝羽柴秀吉邸跡があります。 こちらも安土城の他の場所と同様に、あまり歴史的に根拠のない呼称のようで、本当に羽柴秀吉の屋敷であったかは不明です。
大手道に面したこの屋敷は、上下二段に別れた比較的大きな郭で構成されており、上段、下段のそれぞれに大手道に面して門が建てられていました。
下段の門は、一階を門、二階を渡櫓とする櫓門で、近世の城郭に多く見られるものですが、ここの櫓門はその最古の例として貴重です。 下段には馬六頭を飼うことができる厩と遠侍がひとつになった大きな建物がありました。 下段から上段へは連絡通路が設けられ、大手道に出ずに直接行き来することができました。
上段は、この屋敷の主人が生活する場所で、大手道に面した門は薬医門あるいは棟門であったようです。 門の脇には二重の櫓が建ち、その横に台所、奥に主殿がありました。主殿は式台、遠侍などが一体化しており、その広さは366平方メートルあります。 この屋敷も伝前田利家邸跡と同様に、16世紀末の武家屋敷の遺構を今に残す貴重なものです。
安土城はこの他に、伝徳川家康邸跡、武井夕庵邸跡などがありますが、これらが本当に彼らの屋敷地であったかは不明で、だいぶ疑わしいです。 形式上とはいえ、信長の同盟者であった徳川家康の屋敷がなぜ安土城内にあるのか、柴田勝家や明智光秀といった重臣の屋敷はなぜないのか、と疑問は尽きません。 こららのことから大手道周辺のこれらの屋敷地は、安土城の官庁街的なものだったとする説もあります。
6. 伝織田信忠邸跡周辺
撮影場所10 伝武井夕庵邸跡
伝武井夕庵邸跡
伝武井夕庵邸跡から見た大手道
伝武井夕庵邸跡から見た大手道
伝織田信忠邸跡その一
伝織田信忠邸跡その一
撮影場所11 伝織田信忠邸跡その二
伝織田信忠邸跡その二
ほぼ直線状に続いていた大手道が左に折れ曲がり、ジグザグ状になったところで、ここまで見てきた石垣よりもさらに古そうな苔むした石垣が目に入ります。 この石垣は伝武井夕庵邸跡の背後の石垣です。
武井夕庵は信長の美濃攻略のころからの右筆で、信長が本能寺の変で横死するまで、側近くに仕えた人物です。あの信長に数々の諫言をしたとも言われています。 この屋敷は安土城主郭部から見て、伝織田信忠邸の次に近い位置にあり、信長の夕庵に対する信頼を示しているとも言われます。 ですが、ここもあくまで伝承なので、実際にはなにがあったのかはわかっていません。

伝織田信忠邸は、大手道と總見寺から続く通路の合流点にあり、ここを超えると安土城主郭部の入口である黒金門はすぐです。 ここは安土城の要所で、まとまった広さもあるため信長嫡男(安土城完成時はすでに織田家当主でしたが…)が住むのにふさわしい場所に思えます。 しかし発掘調査ではこのあたりからは信長時代の遺構は発見されず、この平坦地が江戸時代以降に造成されたものである可能性が出てきました。 まだ不明な点が多く、安土城の全容解明の難しさを示す場所と言えそうです。
7. 黒金門跡周辺
撮影場所12 黒金門跡正面
黒金門跡正面
黒金門跡の置石
黒金門跡の置石
黒金門跡外枡形
黒金門跡外枡形
黒金門跡から二の丸下帯曲輪を見る
黒金門跡から二の丸下帯曲輪を見る
撮影場所13 宇陀藩織田家墓所その一
宇陀藩織田家墓所その一
宇陀藩織田家墓所その二
宇陀藩織田家墓所その二
伝織田信忠邸跡を過ぎると、大手道ほどではありませんが、比較的直線で緩やかな階段が続き、その先に主郭部大手門にあたる黒金門跡があります。 周囲の石垣の石材は、これまでの石塁や曲輪のものに比べると格段に大きく、ここから先が安土城の中枢であることを示すかのような威圧感があり、見せる石垣として築かれていることが伺えます。 発掘調査では多量の焼けた瓦が見つかり、なかには菊紋・桐紋などの金箔瓦も含まれていました。 その構造は外枡形虎口となっており、この後の近世城郭と同様に外側に小型の棟門、内側は大型の渡櫓門を設けていたと考えられています。

この枡形の中にはぽつんと置石があります。大きさはそれほどではありませんが、他の場所にはない石で存在感があります。これこそが蛇石(じゃいし)とも言われています。 蛇石とは1万人の人足が3日をかけて安土山に運び上げたと言われる巨石で、運搬中の事故で150人が下敷きになって死亡した、羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益といった織田家重臣が指揮をして運んだ、といった伝説が残されています。 たださすがにこの置石では一人が下敷きになるのがせいぜいなので、蛇石ではないようです。

黒金門跡の内側は二の丸下帯曲輪で、このあたりまで来ると大手道とは異なり、周囲に高石垣が林立する閉鎖的な空間となります。 かつてはこの石垣上に建物や塀が延々と続いていたのですから、その圧迫感はかなりのものだったと思います。

二の丸下帯曲輪の北西隅には江戸時代に建立された宇陀藩織田家墓所があります。宇陀藩は信長の次男、信雄が藩祖で、信長の血を引く大名として江戸時代に存続した唯一の藩です。 ここには信雄から続く四代までの墓があります。江戸時代になっても安土城は織田家にとっては特別な場所だったということでしょう。
8. 二の丸下帯曲輪周辺
二の丸下帯曲輪
二の丸下帯曲輪
二の丸石垣の隅
二の丸石垣の隅
撮影場所14 仏足石
仏足石
三の御門跡
三の御門跡
二の丸下帯曲輪は二の丸の西と南を囲んでおり、狭い範囲に二の御門、三の御門が連続して建てられていました。 これらの門の周辺には三棟の二重櫓が建てられ、この厳重な守りはここが安土城の主要部、強いては織田政権の中枢であることを示すかのようです。
復元整備された石垣が多い安土城ですが、二の丸石垣は信長築城時のもので、当時の様子を今に伝える貴重なものです。 特に南西隅の石垣は、未熟ながらも算木積みを意識した積み方となっており、どことなく岡山城本丸の石垣に似た印象を受けます。 三の御門跡の手前には、黒金門と同様に目立つ置石があります。近づいてみるとお釈迦様の足型が刻まれた「仏足石」であることがわかります。 これは昭和初期の発掘調査で崩落した石垣の中から発見されたものです。巨大な転用石というわけです。
9. 二の丸跡
二の丸入口
二の丸入口
撮影場所15 二の丸 二の丸
二の丸から見た三の御門跡
二の丸から見た三の御門跡
信長廟
信長廟
信長廟の瓦
信長廟の瓦
信長廟の自然石
信長廟の自然石
撮影場所16 天主台から見た信長廟
天主台から見た信長廟
撮影場所17 伝蛇石
伝蛇石
三の御門跡の石段を登るとそこは二の丸跡です。二の丸に入るとまず正面の巨大な置石が目に付きます。 この巨石は直径2.9メートル、厚さ75センチメートルほどで、昭和15年(1940)に実施された発掘調査で、天守台から引きずり落とされたもので「蛇石」と呼ばれてきました。 あの伝説の蛇石というわけですが、これも1万人が3日かけて引き上げるほどのものとは到底思えません。 記録によれば蛇石は山上まで運び上げたとされているので、本物の蛇石は未だに安土城のどこか、あるいは天主台の中に埋もれているのかもしれません。

蛇石のあるあたりは当時「御白州」と呼ばれ、白砂が撒かれ、これより先の天主を含めた一連の建物群の玄関になっていたと考えられています。 蛇石背後の一段高い石垣の上が二の丸の中心で、ここには「御座敷」「御幸の御間」と呼ばれる建物がありました。 当時はここへ登るための石段はなく、御白州から階(きざはし)と呼ばれる階段を含めた渡り廊下で接続されていたようです。 この渡り廊下は安土城主郭部の多門櫓、天主、御殿群と接続しており、天主を含めた安土城主郭部全体が巨大な御殿として機能していたことが伺えます。

現在、二の丸には羽柴秀吉が天正11年(1583)に築造した「信長廟」があり、「信長の骨片、佩用の太刀、烏帽子、直垂を収め、一個の石をもって墓とした」と記録が残されています。 中央の石積みにこれらが収められ、「一個の石」はその上に載せられた自然石を指しているものと思われます。 ただこの霊廟は当時の常識に照らすと非常に奇妙なものなのです。 当時、高貴な人物の墓は、宇陀藩織田家墓所にも見られる五輪塔とするのが常識で、自然石を墓とするのは大変な非礼にあたり、ましてや右大臣にもなった信長に対して、自然石を墓とするなどとんでもないことなのです。 このことからこの自然石は信長を偲ぶ上で、特別なものである可能性が高いです。 そうなるとこれは、信長が總見寺で自分の御神体として拝ませた「盆山」としか考えられないとされ、現在はこれが定説になっています。
天主台から信長廟を見てみると、中央の石積みに少し穴が空いていることが確認できました。あの穴の中になにが眠っているのか、興味は尽きません。
10. 本丸跡
撮影場所18 本丸跡
本丸跡
本丸取付台への階段
本丸取付台への階段
北東出入口その一
北東出入口その一
撮影場所19 北東出入口その二
北東出入口その二
撮影場所20 南東出入口方面を見る
南東出入口方面を見る
撮影場所21 多門櫓跡への階段
多門櫓跡への階段
多門櫓跡
多門櫓跡
本丸南面石垣
本丸南面石垣
三の御門跡の石段を登り、左に進むと二の丸跡より一段低い曲輪に出ます。天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、本丸御殿の跡と伝えられてきました。 東西約50メートル、南北約34メートルの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸取付台・三の丸の各石垣で囲まれており、窮屈な印象を受けます。

ここでは昭和16年(1941)と平成11年(1999)の発掘調査の結果、119個の建物礎石が発見されました。 礎石の配列状況から、ここには天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似た構造で、安土城で最も格式の高い御殿があったと考えれています。 「信長公記」には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、中には「皇居の間」があり、その御殿がここであるという説です。

しかしこれには先述した二の丸跡に御幸の御間があったとする異説もあります。 その根拠は信長廟の位置で、ここに安土城で最も格式の高い御殿があったのならば、秀吉は信長廟をここに築造したはずであるというものです。 確かに曲輪の高さを考えても、天主台をのぞいてこのあたりで最も高い曲輪は二の丸跡であり信憑性があるように思いますが、いかがでしょうか。

また、ここまで二の丸跡、本丸跡とご説明をしてきましたが、このような細かい分け方をせず、三の御門より奥の曲輪群をすべて本丸とする説もあります。 二の丸跡に本丸表御殿(御幸の御間、御座敷)、本丸跡に南殿、三の丸跡に江雲寺御殿があり、天主を含めた四棟を廊下や多門櫓で連結し、本丸全体が広大な御殿群であったとしています。 この説では本丸表御殿は公式な御殿、周囲を石垣に囲まれた静かな南殿は信長の住居、見晴らしの良い江雲寺御殿は会所として使われていたとされています。

本丸からは三の御門の他に、伝台所曲輪へ続く北東出入口、伝堀邸跡方面へ続く南東出入口がありますが、いずれも現在は立ち入り禁止となっています。 また、伝本丸取付台の北には八角平へ続く出入口がありますが、ここも立ち入り禁止となっています。 十数年前までは八角平へ入ることが出来たそうです。 入城料も徴収し整備を本格化している安土城だけに、今後の立ち入り禁止解除に期待しています。
11. 天主台
天主台その一
天主台その一
撮影場所22 天主台その二
天主台その二
天守台入口の石段
天守台入口の石段
天主台入口の石敷
天主台入口の石敷
撮影場所23 天主台礎石
天主台礎石
西の湖方面を見る
西の湖方面を見る
安土の市街地方面を見る
安土の市街地方面を見る
天主台案内板
天主台案内板
安土城の天主台は本丸の北東に位置しており、不等辺七角形の日本城郭史唯一の平面をしています。 不等辺多角形の天守台を持つ城は他に岡山城がありますが、こちらは長方形の一変のみが変形した五角形となっており、 全体的に見るとほぼ長方形に見えるため、そこまで複雑な印象は受けません。 しかし、安土城の場合はほぼ正方形の枠内に収まる巨大な不等辺七角形の平面となっており、非常に複雑な印象を受けます。
普請次第では正方形に近い天守台に出来たであろうものを、あえて不等辺七角形にしたとしか思えず、このあたりも信長なりの美的感覚があったのではないかと勘ぐってしまいます。 天守焼失後、長い年月を経て天守台は一部が崩落し、高さ、広さともに小さくなっていますが、特徴的な多角形の姿を残しています。

天守台入口には越前で産出される笏谷石の石敷きがあります。 戦国期に笏谷石は朝倉家がほぼ独占的に使用しており、これを天主入口に使用しているのは信長が朝倉家を滅ぼしたことの視覚的アピールだったのかもしれません。

天守台は穴蔵のある古い形式で、穴蔵部分には東西10列、南北10列の礎石が残されています。ここで特徴的なのは中央に礎石が残されていないことです。 一説では中央に礎石がないのは、天主中心の地下一階から四階までが吹き抜けで、そこに宝塔を収めていたためであるとも言われています。 この吹き抜けはポルトガルの宣教師から聞いた大聖堂の話に着想を得たのでは…といった説もありました。
しかし、この吹き抜け説には建築学的にも異論が多く、現在にいたるまで日本建築ではそのような吹き抜けは現存しない、稀であれば記録に残るはずだが記録が存在しない、 ということで最近は吹き抜けはなかったとする説が有力なようです。 また発掘調査の結果中央部には掘立柱の痕跡が見られ、このことから礎石のない中央部には掘立の通し柱を設け、構造的強度を高めていたとされています。
子供のころはこの吹き抜け再現CGを見て心が踊ったものですが現実は常識的な範囲に収まるのかもしれません。

本能寺の変直後に謎の失火で焼失した安土城天主は、五重六階、地下一階の構造で三重目に大入母屋を設け、その上に二重の望楼が乗っていました。 特徴的なのはその平面形で一重目、二重目は天守台の不等辺七角形と同じ七角形、三重目でこの歪みを吸収して長方形としています。 四重目は八角形で高欄付き回縁、最上階は正方形で高欄付き回縁を設けていました。 平面形も特徴的ですが、意匠もこの後の天守には見られない特徴的なもので、四重目、五重目の軒先には寺社に見られる風鐸を吊るし、 最上階は柱を金色、壁を群青色とした真壁造りでした。群青色の塗料は当時大変貴重なもので、信長の財力を示していました。 また最上階の屋根は赤瓦で拭かれ、北京の紫金城のような色合いだったようです。

内部はこの後の天守のような飾り気のないものではなく、殿舎として使用できるよういくつもの部屋に別れ、信長の座所や茶室があり、 壁や襖は狩野永徳を始めとした一流の画家たちの絵画で彩られていました。
このような豪華絢爛な天守は後にも先にも安土城のみ(強いて言えば豊臣大阪城くらいか)で、後世の外観のみをシンボルとした大型櫓としての天守ではない、 立体御殿としての安土城天主を想像することができます。安土城以降このような立体御殿が造られなくなった理由はわかりませんが、このことも安土城が幻の城と呼ばれる所以だと思います。
12. ハ見寺跡
撮影場所24 ハ見寺跡への石段
ハ見寺跡への石段
ハ見寺跡石垣
ハ見寺跡石垣
ハ見寺本堂跡
ハ見寺本堂跡
ハ見寺跡から西の湖を見る
ハ見寺跡から西の湖を見る
撮影場所25 總見寺三重塔
總見寺三重塔
總見寺庫裏跡と三重塔
總見寺庫裏跡と三重塔
三重塔を仁王門方面から見る
三重塔を仁王門方面から見る
仁王門を内側から見る
仁王門を内側から見る
撮影場所26 仁王門を正面から見る
仁王門を正面から見る
仁王門
仁王門
仁王門吽形
仁王門吽形
仁王門阿形
仁王門阿形
總見寺は安土城主郭部の西方に位置しており、城内にあるものとしては全国でも稀な規模を持つ本格的な寺院でした。 また安土城の真の大手口である百々橋口から主郭部へ向かうためには必ずこの寺院内を通る必要があり、大手筋を守るための軍事的な機能も大きかったと考えられています。 總見寺は本能寺の変後の安土城炎上の際にも類焼を免れ、その後は豊臣秀吉や徳川幕府の庇護を受けました。しかし幕末の嘉永7年(1854)に失火により仁王門と三重塔以外の建物が焼失しました。 発掘調査の結果から当初は本堂、三重塔、鐘楼、鎮守社、拝殿、仁王門、表門、裏門が所狭しと立ち並んでいたことがわかっています。

安土築城時から残る三重塔と仁王門はいずれも甲賀から移築された建物で、安土築城よりも古い建物であり、どちらも重要文化財に指定されています。 總見寺周辺の石垣は安土城内でも高度な算木積みを志向しているようで、一見すると江戸時代以降の石垣にも見えます。 徳川幕府の庇護もあり、幕末までここに伽藍が林立していたとのことなので、もしかしたら近世に入ってから改修が行われているのかもしれません。

信長公記等の記録から、總見寺は安土築城に際して信長が建立したのは明白で、その建立の意図として菩提寺や祈願寺とする説があります。 しかし、ここはあの信長の城ということで、当時のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスによるとこの總見寺は信長自身を祭神とした寺であるとの記録があります。 信長の誕生日を聖なる日として参拝を命じ、金運上昇、子孫繁栄といったご利益があるとされていたそうです。 このあたりは永楽銭を旗印にし、経済センスに優れた、いかにも現実的な信長の考えそうなことだとは思います。
信長の御神体とされた「盆山」はこの寺にあり、盆山を拝むと同時にその背後にある天主を拝むような形になっていたとも言われます。 生きながらに自分を神とするなど信長は何を考えているんだとも言われますが、旧来の既得権益層であり、政治に介入していた宗教勢力と徹底抗戦していた信長にとって、 總見寺の建立はこらら宗教勢力も自分の支配下に起き、統制管理することの意思表明であったのかもしれません。

信長や数多の武将たちが仁王門を潜り、三重塔の袂を通ったことは間違いなく、安土城炎上もこの建物たちは目撃しているわけです。 まさに安土城の数少ない生き証人です。
13. 安土城郭資料館
撮影場所27 天主模型その一
天主模型その一
天主模型その二
天主模型その二
天主模型その三
天主模型その三
天主模型その四
天主模型その四
安土駅南側、線路を潜る地下道を抜けると目の前に和風の立派な建物があります。これが安土城郭資料館で、喫茶店も併設されています。
ここには実物の20分の1の大きな安土城天主の模型が展示されています。前述した吹き抜け案を採用したものです。 この模型は内部まで精巧に再現されており、その内部を見るために縦に二つに割れるようになっており、安土城天主のイメージをつかむことができます。 こうやってみるとやはり吹き抜け案はかっこいいと感じます。現実的にこれが木造で可能なのかとも言われていますが、 考えてみれば東大寺大仏殿などはかなり広大な木造大空間であり、可能であったのかもしれません。
他には狩野永徳が描いた安土城屏風を想像した陶板壁画もあります。この屏風は信長直々の監修のもと、安土城と城下の様子を細かく書き込んだ大作でした。 その出来栄えは評判となり、正親町天皇がこれを所望しましたが信長はこれを断っています。 ところが信長は宣教師ヴァリニャーノにあっさりとこの屏風を贈り、ヴァリニャーノを通してローマ教皇グレゴリオ3世に献上されました。 このあたりは世界を意識した信長らしさといったところでしょうか。
残念ながらこの屏風は現在行方不明で、もし発見されれば安土城に関する多くの謎が一挙に解決に導く、超一級史料となることは間違いないようです。 そのためか何度かバチカンでの捜索プロジェクトが行われていますが、発見に至っていません。実に残念です。

安土城関連施設としてはこの他に「安土城天主 信長の館」があります。 こちらには原寸大の安土城天主四重目、五重目が再現されており必見です。 歴史ドラマの撮影などにも数多く利用されているようです。 しかしこちらでは館内で撮影した写真のSNSなどへの掲載は禁止とのことで、残念ながら写真は掲載できませんでした。 前回登城の時は、特に制限はなかったのですが…写真を見ていただければその凄さが一目でわかるのですが、ちょっと時代と逆行しているような気もします。

城の地図
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