KemaAkeの全国城めぐり

赤穂城 あこうじょう
別名 加里屋城、大鷹城
形態 平城
築城年 慶安元年(1648)
築城者 浅野長直
主な城主 浅野氏、永井氏、森氏
所在地旧国名 播磨
所在地 兵庫県赤穂市上仮屋
アクセス JR赤穂線、播州赤穂駅
↓徒歩(約15分)
三の丸大手門
アクセスのしやすさ ☆☆☆☆☆
概要 「忠臣蔵」で有名な浅野家の居城。また江戸時代以降に本格築城された数少ない城の一つ。山鹿流軍学に基いて築かれた「折れ」を多用した縄張りが最大の特徴。
年表
●江戸時代以前
現在の城地に1466年(文正元年)-1483年(文明15年)頃、岡光広が加里屋城を築城した。
慶長5年(1600)、姫路藩主池田輝政の弟・池田長政が赤穂領主となり赤穂城の前身である大鷹城を築城した。
●江戸時代
正保2年(1645)、池田氏3代輝興が発狂により改易される。同年、浅野長直が5万3千石で入城する。
慶安元年(1648)、に近世城郭建設のため、幕府に築城計画を提出する。異例の即日許可となり、築城を開始する。
寛文元年(1661)、赤穂城が完成する。
元禄14年(1701)、浅野家3代長矩による江戸城中での刃傷事件により浅野氏が改易となる。
元禄15年(1702)、永井直敬が3万3千石で入城する。
宝永3年(1706)、 直敬が転封される。変わって森長直が2万石で入場する。以後、明治維新まで森氏が城主を務める。
●明治時代以降
明治6年(1873)、 廃城令により廃城となり、城内の建物が順次破却される。
昭和30年(1955)、三の丸大手門、大手隅櫓を再建。
昭和46年(1971)、国の史跡に指定される。
平成8年(1996)、大手門枡形、本丸門および枡形、本丸厩口門を再建。
遺構 普請:石垣、堀
作事:なし
天守:天守台のみ残る
登城日 2012/8/15

感想など
JR赤穂駅の南出口正面の通りを約15分ほど歩くと、三の丸大手門に突き当たります。 城までの通りは綺麗に整備され、通りに面した建物は、城下町らしく和風に統一されています。
江戸時代以降に本格築城された数少ない城のひとつであり、当時流行していた山鹿流軍学に基いて縄張りされた城でもあります。 山鹿流軍学とは山鹿素行によって提唱された江戸流軍学のひとつで、他に荻生但微などの儒学を本業とする学者によって多くの江戸流軍学が提唱されました(実戦には役立たない机上の空論といった批判もあります)。 その縄張りの特徴は、鈍角、鋭角に関わらず多くの折れを用いていることが上げられます。 折れを多用することで、敵兵に対して横矢を多く掛けられるため防御力が上がるという理屈のようです。 堀をぐるっと一周するとその様子がよく分かります。
本丸、二の丸、三の丸は総石垣で築かれ、5万3千石の藩にしてはかなり立派な城となっています。 そのためか、案の定赤穂藩は財政難に陥り、天守建造計画も中断され天守を持たない城となりました。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 大手門と大手隅櫓
大手門と大手隅櫓
城の地図:撮影対象1
高麗門
擬宝珠
櫓門礎石
三の丸北東に位置する大手門は赤穂城の正門にあたり、脇に二重櫓を設けた厳重な造りとなっています。 内枡形を形成し、その大きさは長編約20メートル、短編約12メートルです。 現在の高麗門、土塀、隅櫓はすべて昭和30年(1955)に再建されたものです。 枡形の石垣は明治時代に大きく改変されましたが、平成15年(2003)に石垣の修復および周辺整備が行われました。
2. 大手門番所
大手門番所と大手隅櫓
番所の瓦
大手門枡形の先には休憩所があります。かつてこの場所には、ほぼ同規模の大手門番所があり、それを模して建てられました。 当時番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門を警護していました。 番所の瓦には浅野家の家紋である「丸に違い鷹の羽」が施されています。
3. 大石邸長屋門
大石邸長屋門
城の地図:撮影対象3
大石邸長屋門の扉
この門は浅野家の筆頭家老、大石内蔵助の一家三代が住んでいた屋敷の正面長屋門で、赤穂城唯一の現存建築物です。 現在、屋敷の敷地には大石内蔵助以下赤穂四十七士を祀った大石神社が建てられています。 かつての赤穂城三の丸にはこのような家臣の屋敷が立ち並んでいました。
4. 二の丸外堀
二の丸門跡から見た二の丸外堀
二の丸外堀と二の丸北隅櫓台
赤穂城は昭和に入ると、徐々に復元整備が行われ現在では内堀が完全に、二の丸外堀と三の丸外堀が半分ほど復元されています。 内堀は昭和28年(1953)に復元されており、堀の復元事業としては最初期のものではないでしょうか。
5. 本丸門
本丸門
城の地図:撮影対象4
本丸門枡形から見た櫓門
本丸門櫓門の鯱
本丸門枡形
本丸門は本丸北面に位置する本丸の正門です。内枡形を形成しています。 高麗門から櫓門はクランク状になっており、大手門に比べると簡単な動線で本丸に入ることができます。
現在の高麗門、土塀、櫓門はいずれも平成4年(1992)に文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として国・兵庫県の補助を受け、平成8年(1996)に復元が完了しました。 復元に当たっては明治時代の古写真を参考にし、石垣には赤穂産の花崗岩、木材は国産材を使用し昔どおりの伝統工法を用いています。
6. 本丸
天守台から見た本丸
本丸の土塁
本丸には中央に本丸御殿、東南に天守台、南に庭園がありました。 現在は本丸御殿建物跡を床高だけ高くしたコンクリート盤が造られ、部屋割りがわかるよう整備されています。 実際にその場に立ってみると、各部屋があまり広くないことに気づきます。
本丸御殿に面した庭園には大池泉と呼ばれる池が復元されています。池底には瓦や石を幾何学的に整った形で敷き詰め、周囲には立石が据え付けられ、小さいながらも大名庭園の体裁を整えています。
7. 天守台
大池泉と天守台
天守台
城の地図:撮影対象5
本丸の東南には独立して天守台が築かれています。 5重天守の造営が計画されていましたが、他の部分に資金を使い尽くしたのか、幕府に憚ったのか、ついに天守が上げられることはありませんでした。 確かに五重天守を上げるにふさわしい規模です。
近年では赤穂義士祭が行われる12月14日までの数日間「光の天守閣」と銘打って、天守台の上に天守の形をした足場を造り、足場に電飾を設置し、イルミネーションが行われています。
8. 内堀
厩口門
城の地図:撮影対象6
内堀と東横矢枡形
内堀と刎橋門跡
内堀と南横矢枡形
本丸を囲む内堀は昭和28年(1953)に復元されました。堀幅はあまり広くはありませんが、総石垣かつ赤穂城最大の特徴である多くの折れが設けられており、見応えがあります。
本丸には内堀に面して4箇所の櫓台が築かれました。 しかし実際に櫓が築かれたのは本丸門と厩口門に対して横矢を掛けることができる東北隅櫓台のみで、他の3箇所は横矢枡形として使用されました。 これは財政難のためか、計画通りなのかはわかりませんが、天守台に匹敵する規模の南横矢枡形に多重櫓を築けば、天守代用となったことでしょう。
9. 水手門跡と米蔵
水手門跡と米蔵
城の地図:撮影対象7
米蔵
かつての赤穂城は瀬戸内海に面した海城でもありました。 東に熊見川、南はヨシ原が広がる干潟に面しており、満潮時には海水が石垣にまで迫っていました。 そのため二の丸南面に面したここに船を直接付けることができる水手門が築かれました。 物資を運んできた船を止めるための「雁木」や、船を波から守るための「突堤」などの海城独特の施設が復元されています。
また水手門近くには米蔵が外観復元されています。
10. 三の丸外堀
三の丸外堀
城の地図:撮影対象8
三の丸の突出部
三の丸外堀を埋め立てた道路を歩いていると、直線上に続く石垣に突然小さな三角形の突出部が出現します。 このような折れは同じ平城である名古屋城や広島城では見ることができず、江戸流軍学に基いて少しでも防御力を上げようとした赤穂城の特徴と言えそうです。
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