KemaAkeの全国城めぐり
新宮城
しんぐうじょう
別名なし 本丸から見た水ノ手
形態平山城
築城年慶長6年(1601)
築城者浅野忠吉
主な城主浅野氏、水野氏
所在地旧国名紀伊
所在地和歌山県新宮市丹鶴
アクセス JR紀勢本線、新宮駅
↓徒歩(約15分)
丹鶴城公園入口
アクセスのしやすさ☆☆☆☆☆
概要 -----------歴史------------
●浅野忠吉による築城
関ヶ原合戦の後、浅野幸長は紀伊一国の国主として和歌山城主となった。その家臣、浅野忠吉は新宮領を与えられ、慶長6年(1601)から新宮城の築城を開始した。 元和5年(1615)の一国一城令により一旦廃城となるが、元和4年(1618)に幕府から特別に許可され、築城を再開した。
●水野重仲による完成
元和5年(1619)に浅野氏が安芸広島に転封となり、変わって紀伊には徳川家康の十男・頼宣が入国した。 新宮城には付家老として水野重仲が入り、浅野忠吉による築城工事を継続し、寛永10年(1633)に城は完成した。 以後明治維新まで、紀州藩新宮領支配の中心として機能した。
●明治時代以降
明治維新後は民有地となり、城内には旅館などが建てられた。
昭和50年代半ばに市有地となり、以降丹鶴城公園として整備される。
平成15年(2003)、新宮城跡附水野家墓所として国指定史跡となる。

---------構造・特徴--------
独立丘陵上の最高所に本丸を置き、そこから西方に鐘ノ丸、鐘の丸の北西に松ノ丸を段々上に置く連郭式の縄張りとなっている。 本丸の北には独立した形で出丸が築かれている。 丘陵の北側麓、熊野川の川岸には水ノ手が置かれ、船着場と一万俵余りの炭が収納できる大規模な隅納屋が設けられ、熊野川流域の備長炭を集積し江戸などに出荷していた。 丘陵の西側麓には、二の丸が置かれ松の丸と大手道で接続されていた。
遺構 普請:石垣
作事:なし
天守:なし
案内図など 案内図(800x700)
登城日2013/4/30
感想など 新宮駅から商店街を通り徒歩15分ほどで丹鶴城公園の入り口に到着します。入り口は普通の公園のようですが、しばらく階段を登ると石垣が見えてきます。 城の規模はそこまで大きくはありませんが、要所要所に見られる切込ハギの石垣は見事です。支城でこのレベル…近畿地方の築城技術の高さ、そして徳川御三家の力を感じずにはいられません。
ただ、城跡はきれいに整備されているのですが、要所要所の解説がなく、まともな解説は公園入口のもののみで、資料不足の感は否めません。見どころが多いのに実にもったいないです。これからの充実を期待します。 そのため、今回の登城記はいつにも増して私の主観や偏った知識で書いていますが、ご容赦ください。
また、このあたりは日本でも有数の雨が多い地域。登城した日も天気が不安定で、城に着いてからしばらくは雨が本降りでした。鐘ノ丸に東屋がひとつありますが、それ以外に屋根のある場所はないのでご注意ください。
登城記 各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 松ノ丸虎口
松の丸虎口へ続く階段
松の丸虎口1
松の丸虎口2
松の丸虎口3
丹鶴城公園の入り口から舗装された通路を進むと右側に石造りの階段が現れます。 現在は南から続く舗装された通路からUターンしてこの階段が続いていますが、古絵図を見るとかつてはこの階段のほぼ正面、西に向かって通路が続き、麓の二の丸へ接続していたようです。 二の丸に接続する通路ということで、新宮城の大手道に当たる通路でしょう。
この階段の先に外枡形を持った虎口があります。 門の名称や建物については解説がないためわかりませんが、虎口周囲の石垣は大きな石材を使用した切込ハギで積まれており、多分に"見せる事"を意識しているように感じました。 丹鶴城公園の入り口にあった古絵図を見ると、高麗門ないし四脚門のような小さな門が描かれていますが、この古絵図も本丸部分の建物を省略するなどあまり詳細なものではないようです。
2. 鐘ノ丸虎口
鐘の丸虎口1
鐘の丸虎口2
鐘の丸虎口3
鐘の丸虎口4
松ノ丸に入ると正面石垣のほぼ中央に鐘ノ丸虎口が開かれています。枡形はなく石垣をL時状に切欠いて階段を設けた虎口となっています。 この当たりの石垣も門の周辺は切込ハギで、少し離れると加工度合いの下がった石材が積まれています。 それでも私の地元である小田原城の石垣よりもはるかに加工度合いの高い手間のかかったものには違いありません。
古絵図を見るとこの門にも高麗門ないし四脚門のような小さな門が描かれています。
鐘ノ丸は城内最大の曲輪のようで、現在は池が整備され金魚が泳いでいます。本丸へはこの池に掛けられた石橋を渡って向かいます。この池は旅館時代のものでしょうか。
なお松ノ丸の北側には水ノ手に続く通路がありますが、このときは途中で落石があったため立入禁止となっていました。実に残念です。
3. 本丸周辺と出丸
本丸南東端の通路
天守台付近の石垣
本丸虎口への階段
本丸虎口1 撮影対象1
本丸虎口2
本丸虎口3
本丸搦手口1
本丸搦手口2
出丸
本丸から見た熊野川と出丸
城内の最高所には本丸が設けられています。本丸は南面中央に大手虎口、北面に搦手と思われる虎口が設けられています。 他に南東端にも鐘ノ丸に通じる通路がありますが、古絵図には描かれていません。作りも現代的で、おそらく旅館時代に造られたものだと思います。 驚いたことに、古絵図にはこの通路部分に"天守"の文字が描かれており、どうやら天守台ないし天守曲輪だったようです。通路にするためか、石垣等かなり改変されているようで、それらしさを感じることはできません。 しかし、完成形に至った見事な算木積みを見ると、この上に天守が建っていたのも納得できます。
本丸の大手虎口は今までにも増して大きな石材を使用した切込ハギとなっており、さすがといったところです。外枡形を設け、動線もコの字状になっており守りを固めています。 古絵図によるとここにも櫓門は設けられていなかったようです。
本丸搦手口は本丸北面の石垣を切欠いて階段を設けた虎口となっています。古絵図には描かれておらず、正直良くわからない虎口です。現在はフェンスで塞がれており、ここからは通路も整備されていません。
出丸は本丸の北側に独立して設けられた小さな曲輪で、通路が整備されていないため行くことはできませんでした。熊野川を見渡すには調度良い場所のようです。
ここまで城内各所の石垣を見て来ましたが、城の規模に対して石垣が非常に立派で、ほとんどが切込ハギあるいは加工度合いの高い打込ハギで積まれています。さぞや手間のかかったことでしょう。
4. 水ノ手
本丸から見た水ノ手 撮影対象2
熊野川と水ノ手
水ノ手の石垣
水ノ手全景
新宮は熊野川上流で伐採された木材の集積地となっており、元和2年(1616)の江戸城天守普請の用材も熊野で切り出されています。 また、新宮城主はこの木材を使用した新宮炭(備長炭)の専売を行ない、廻船で江戸へ運び大きな利益を上げていました。 これらを物語るのがこの水ノ手で、新宮城の大きな特徴のひとつとなっています。
平成6年(1994)に熊野川沿いに防災道路計画が持ち上がり、それに伴い水ノ手の本格的な発掘調査が行われました。 その結果"炭納屋"と想定される多くの建物跡が見つかりました。城内の港近くまで炭納屋が建てられていたのは予想外で、近世城郭の機能としては異質の経済的側面の強い遺構が確認されました。 そのため、道路計画は中止され整備が行われました。
松ノ丸からの通路は立入禁止となっていたため、熊野川沿いから行けないものかと試しましたが、こちらも立入禁止でした。 歩道もひび割れるなどかなり荒れており、水害にでも合った後のようでした。 仕方がないのでギリギリのところから写真を撮りましたが、やはり全景を収めたくなり熊野大橋の真ん中までいって望遠レンズで無理やり撮影しました。
5. 熊野大橋から見た新宮城
熊野大橋から見た新宮城1 撮影場所1
熊野大橋から見た新宮城2
熊野川に架かる熊野大橋から見た新宮城の全景です。山上の本丸と水ノ手を見ることができます。 山から出ている鉄橋はJR紀勢本線のもので、本丸の真下をトンネルで貫いています。
もし建物がいくつか残っていれば、旅館になったり、天守台が改変されたり、真下にトンネルが掘られるような災難もなく、名城と呼ばれていたのではないかと思います。

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