KemaAkeの全国城めぐり
竹田城
たけだじょう
別名虎臥城 天守台から見た南千畳方面
形態山城
築城年永享3年(1431)
築城者山名宗全
主な城主太田垣氏、羽柴秀長、桑山重晴、赤松広秀
所在地旧国名但馬
所在地兵庫県朝来市和田山町竹田
アクセス JR播但線 竹田駅から徒歩30〜45分
城までの道順は城の地図の青線を参照してください。
急な登山道を登ります。体力に自信のない人はかなり時間がかかると思います。私もその一人です…
このページでご紹介している駅裏登山道は2014年1月時点で通行止めとなっています!ご注意ください。
アクセスのしやすさ☆☆☆
概要
-----------歴史------------
●太田垣氏時代
竹田城は永享3年(1431)に山名宗全が播磨赤松氏や丹波細川氏への押さえとして、播磨、丹後、但馬の交通の要衝であるこの地に築城をはじめ、13年後の嘉吉3年(1443)に、土塁をめぐらせた中世山城として完成した。 山名宗全は家臣の太田垣光景を城主とし、六代にわたって太田垣氏が城を収めた。
●近世城郭化
永禄12年(1569)から天正8年(1580)にかけての羽柴秀吉による但馬攻略戦により、但馬国は織田家に平定された。 竹田城も天正5年(1577)年に秀吉の弟、秀長による攻撃でわずか三日間で落城、太田垣氏による支配は終わった。
その後は秀長家臣の桑山重晴、続いて播磨赤松氏の赤松広秀が城主となる。このころから石垣を用いた近世城郭に改修される。
●関ヶ原の戦いと廃城
赤松広秀は関ヶ原の戦いで西軍に属したが、関ヶ原での西軍敗北の知らせを受け、竹田城に撤退する。 その後、亀井茲矩の誘いで東軍に寝返り、鳥取城攻めに加わってこれを落城させる。しかし、城下の大火の責めを負い家康の命によって慶長5年(1600)10月に切腹。竹田城も廃城となった。現在残る石垣は、廃城直前に完成したものである。
遺構 普請:なし
作事:堀、石垣
天守:天守台のみ現存
案内図など 城内案内図(1400x750)
登城日2010/03/20
感想など 廃城400年を経てなおほぼ完全な形で残る石垣群は圧巻です。 現在でも石垣が残る山城はありますが、竹田城は石垣の周りに樹木がないため、麓からその雄姿を仰ぎ見ることが出来ます。 多くの山城は長い年月の間に周りに鬱蒼と木々が茂っていますが、竹田城は山城本来の姿を留めているのではないでしょうか。
天守台から総石垣の曲輪群を一望すると尾根上に設けられた山城独特の縄張りを実感できます。 雲海に浮かぶ姿が有名な竹田城ですが、雲海なしでも十分な感動を味わえます。 城にあまり興味がない方でも、一見の価値ありです。

登城記
竹田駅前から見た竹田城
竹田駅前から見た竹田城です。
竹田城は竹田駅の裏(西側)に位置する標高353.7メートルの虎臥山の山頂に築かれています。 竹田駅の標高が約100メートルなので、約250メートルの高低差があり、駅前からはこのように仰ぎ見る形になります。
駅裏登山道の入り口
駅裏登山道の入り口です。
竹田城への登城ルートは三つありますが、今回は徒歩なので最短ルートとなる駅裏登山道から登城します。 大手門跡までの距離は約700メートルとのことですが、登山道なので平地の700メートルとは訳が違います。 竹田駅にある観光案内所と写真の駅裏登山道の入り口には無料で杖が貸し出されているので、借りることをおすすめします。 私は杖があることに気付かず杖なしで登山しましたがだいぶきつかったです。
登山道途中の石垣
登山道途中の石垣です。
登山道の途中では写真のような石垣をところどころで見ることができます。 この石垣が竹田城のものかは案内板等がなかったためわかりません。 ただ、この写真のすぐ手前に竹田城の家臣団の屋敷跡があり、これから登る登山道も当時の登城ルートと変わっていないようで、この石垣も当時のものと勝手に納得しています。
登山道の扉
登山道の扉です。
一見すると立ち入り禁止?と思ってしまいますが開けて大丈夫です。 ただし開放厳禁なので注意。ここから数100メートルはひたすら山登りです。 運動不足に加え、先日の姫路城登城での10キロ以上の歩行による疲労でかなりこたえました。 杖があればだいぶ楽だと思いますので、杖を借りることを強くおすすめします。
案内板と竹田城の石碑
案内板と竹田城の石碑です。
前の写真の扉から休み休み30分ほどかけて到着しました。 ここから天守台までは約260メートルありますがこの先は道も舗装されています。 なによりも城の主要部に入るため見事な石垣を見ることができ、今までの疲れを忘ることができます。
大手門跡
大手門跡です。
平城に比べると規模は小さいですが、枡形虎口となっています。
大手門跡から見た南千畳方面の石垣
大手門跡から見た南千畳方面の石垣です。
大手門の内側は北千畳と呼ばれる広い曲輪になっています。 竹田城の縄張りはおおよそYの形をしており、本丸が中央の交点に位置しています。 Yのそれぞれの辺の先端から他の辺の先端を望むことができ、どこからでも見事な石垣群を一望することができます。
北千畳から見た城下町
北千畳から見た城下町です。
かつても今と同じく竹田駅周辺に城下町が形成されていました。
三の丸への枡形虎口
三の丸への枡形虎口です。
奥には本丸の石垣と天守台が写っています。
石垣の矢穴
三の丸への枡形虎口の石垣にあった矢穴です。
矢穴とは大きな石を割るために開けた穴のことで、ここに楔を打ちこんで石を割りました。 この石は結局割られなかったようです。竹田城の石垣は野面積みの一種の穴太積みと呼ばれる技法で積まれています。 野面積みは自然石をほとんど加工しないで積む方法で、水はけがよいという利点があります。穴太積みは穴太衆と呼ばれる集団によって積まれた石垣の総称で、穴太衆は織田信長の安土城の石垣も築いています。
三の丸から見た本丸方面の石垣
三の丸から見た本丸方面の石垣です。
左が二の丸、一番高い石垣が天守台、その一段下が本丸になります。 これだけの石垣が山の上にそそり立っているのですから驚かされます。一部では日本のマチュピチュとも呼ばれているようですが、それもうなずけます。 ちなみに竹田城の良いところのひとつですが、石垣に安全柵等は一切ありません。ですので足元には注意してください。
弐の門跡
弐の門跡です。
弐の門は三の丸と二の丸をつないでいます。
二の丸から見た南千畳から天守台にかけての石垣
二の丸から見た南千畳から天守台にかけての石垣です。
左から南千畳、南二の丸、天守台となります。超広角対応デジタル一眼カメラは高くて買えないので2枚の写真を合成したものです。これで竹田城のスケールが少しはおわかりいただけるかと思います。
平殿からみた天守台と本丸
平殿からみた天守台と本丸です。
平殿は二の丸と本丸の北面下から西面下にかけて築かれた帯状の曲輪です。
本丸と天守台
本丸と天守台です。
写真のとおりこの天守台には梯子で登ります。10.7 x 12.7メートルの規模でややいびつな形となっています。備中松山城のような小さな天守が建っていたのでしょうか。
天守台から見た北千畳方面
天守台から見た北千畳方面です。
手前から二の丸、三の丸、北千畳となります。
天守台から見た南千畳方面
天守台から見た南千畳方面です。
手前から南二の丸枡形虎口、南二の丸、南千畳となります。 有名な雲海に浮かぶ竹田城の写真と同じアングルになります。 私も可能であれば雲海に浮かぶ竹田城を撮りたいのですが、いかんせん車がないためそんな早朝にここに来る手段がありません。残念。 ですが、霧がなくても素晴らしい眺めであることに変わりはありません。
平殿から見た天守台
平殿から見た天守台です。
左側の階段はかなりの急角度で、途中から半分ほどの幅になっています。
北千畳から見た二の丸方面
北千畳から見た二の丸方面です。
左から本丸および天守台、写真中央から右は二の丸の石垣となります。 右端には大手門跡とそこに続く道が写っています。
北千畳から見た天守台
北千畳から見た天守台です。
手前には二の丸が写っています。 北千畳は写真のように広大な空間で、南千畳と同じ高さに築かれています。
北千畳にあった瓦の破片
北千畳にあった瓦の破片です。
竹田城ではいたるところに写真のような薄い石が落ちています。 どうも瓦の破片のようです。400年以上前の瓦が何気なく落ちているのには驚かされます。
北千畳から見た大手門跡
北千畳から見た大手門跡です。
離れて見ると大手門の全体的な構造がわかり、かつてそこに建っていた建物の形を想像できます。渡り櫓門なら収まりがよさそうです。
平殿から見た花殿
平殿から見た花殿です。
花殿は平殿の西側下に位置しています。 花殿への道は他の道と比べると急です。そのため、築城前の地形はかなりの断崖で曲輪を築くため山を大きく削ってならしたのではないかと考えられています。
花殿の石垣
花殿の石垣です。
奥に見える山がこの場所が急峻な山の上であることを認識させてくれます。 本当にこんなところに良くこれだけの石垣を造ったものだと昔の人のパワーに感心します。
花殿から見た本丸
花殿から見た本丸です。


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