KemaAkeの全国城めぐり

春日山城 かすがやまじょう
別名 蜂ヶ峰城
形態 山城
築城年 南北朝時代
築城者 上杉氏
主な城主 長尾氏、上杉氏、堀氏
所在地旧国名 越後
所在地 新潟県上越市中屋敷
アクセス ●バスによるアクセス(2010/05/01現在)
JR信越本線 高田駅
頚城バス 本町六丁目(高田駅最寄バス停)から春日山・佐内線(7系統)に約15分乗車し、春日山下で下車。春日山下から徒歩5分で大手道入り口に到着。
城までの道順は城の地図の青線を参照してください。また、本町六丁目の位置も載せましたのでマップを縮小してご確認ください。

その他、春日山荘、春日山下南、中屋敷、大豆、林泉寺入口、ものがたり館入り口の各バス停からもアクセス可能です。
また、春日山城周辺のバスは三つの系統で運行されており、高田駅以外にも、直江津駅、春日山駅からもバスが出ています。
バス時刻表などは以下リンクの“一般路線バス”の部分をご覧ください。
頸城自動車株式会社
アクセスレベル ●バスでのアクセスレベル
☆☆☆☆
概要 春日山城は南北朝時代に越後国守護の上杉氏が築城したとされる山城である。永正4年(1507)に長尾為景が上杉定実を擁立して越後守護上杉房能を追放すると、長尾為景が春日山城に入り、既存の城の大改修を行った。その後、為景の子、晴景、景虎が城主となる。景虎はこの城を拠点に天文20年(1551)に越後を統一する。そして春日山城を拠点に、甲斐武田氏や相模北条氏と闘いを繰り広げる。永禄4年(1561)には関東管領上杉憲政から家督を譲られ、関東管領上杉政虎と名乗り、後には法号謙信を名乗る。天正7年(1579)に謙信が死去すると、御館の乱を制した謙信の養子、上杉景勝が入城する。慶長3年(1598)に景勝は会津に転封となり、堀秀治が入城する。秀治が慶長11年(1606)に急死すると、子の忠俊が城主となる。しかし忠俊は山城の春日山城では政務を取るのに不便とし、福島城の築城に取り掛かる。そして、慶長12年(1607)に福島城が完成すると、春日山城は廃城となった。
城内案内図など 城内案内図(1200x720)
登城日 2010/05/01
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 大井戸や土塁、空堀などが残ります。本丸から見る頚城平野と妙高山は絶景です。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の赤○、青○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示し、青はその写真の撮影場所を示します。

大手道入口
城の地図:赤1

大手道入口です。この道は、江戸時代に書かれた春日山城の古地図にで大手道と記載されており、少なくとも江戸時代には大手道と考えられていたようです。ここでは春日山城の案内図が配布されており、これを頼りに登城します。
大手道

大手道です。大手道はところどころ切り通しになっており、復元整備がされています。
番所跡から見た本丸
城の地図:青1

番所跡から見た本丸です。写真中央の盛土が番所跡、その背後の山の山頂が本丸になります。ここは大手道の中ほど、本丸を始めて目前にする地点で、番所跡と伝えられています。盛土は木戸が作られていた土塁の跡で、門があったと考えられています。番所跡の周りには田んぼが広がっています。
南三の丸屋敷跡の土塁

南三の丸屋敷跡の土塁です。番所跡からさらに大手道を進むと、南三の丸屋敷跡があります。ここは「ジョウ(城)の畑」と呼ばれ、古くから城内と意識されていました。土塁や堀で区画された曲輪が連なり、春日山城の最も重要な屋敷が集まっていたようです。曲輪の形は自然の地形を最大限に利用しており、古い時代の形を示しています。
南三の丸屋敷跡周辺

南三の丸屋敷跡周辺です。現在このあたりは小規模な段々畑となっていますが、かつてはこのあたり一帯に屋敷があったそうです。
柿崎景家屋敷跡

柿崎景家屋敷跡です。上杉謙信の重臣、柿崎景家の屋敷跡と伝えられる、春日山城で最も大きな曲輪のひとつです。曲輪の一部には城内で唯一ハンノキが自生しており、植性から水分を多く含む土地であったことが伺えます。このことから、池あるいは水堀があったのではないかと考えられています。
御成街道

御成街道です。上杉景勝屋敷跡、本丸などの曲輪の下に帯状に続いており、関白近衛前嗣が通ったことからこの名前で呼ばれています。謙信は二度の上洛を通じて前嗣と親交を暖めました。二人は年も近く、酒好きということで気が合ったようで、血書の起請文を交わして盟約を結んでいます。謙信が後奈良天皇、正親町天皇に拝謁できたのも前嗣の力添えによるものでした。前嗣は永禄3年(1560)に謙信を頼って、越後府中に下向し、三年ほど滞在しています。その間、前嗣は謙信の関東平定軍とともに関東に赴き、謙信の帰国後も、危険を覚悟の上、関東に残り情勢を逐次報告するなど公家らしからぬ行動力のある人物でした。

上杉景勝屋敷跡

上杉景勝屋敷跡です。上杉景勝は謙信の養子で、謙信死後、同じく謙信の養子、上杉景虎との「御館の乱」に勝利し、謙信の後継者となりました。その後、全国屈指の大大名の一人として、豊臣政権化では五大老の一人になっています。景勝屋敷跡とその周辺の屋敷跡は総じて大規模で、尾根を巧みに利用して、段を削出し、数段で一つの屋敷を形成しています。
井戸曲輪

井戸曲輪です。廃城後400年を経てなお、水を満々とたたえています。城の古地図にもここだけに井戸があることが示されており、古くから注目されていたようです。数十年前に井戸さらいを行い、滑車や柄杓などが見つかっています。
本丸

本丸です。本丸周辺は実城(みじょう)とも呼ばれ、謙信、景勝は実城様と呼ばれていました。標高180メートルに位置し、南隣には天守台があります。中世山城ということで、近世城郭の広大な本丸と比較すると、かなり狭い印象を受けます。本当にここに謙信が住んでいたのかと思うほどです。
天守台から見た二の丸

天守台から見た二の丸です。天守台とありますが、時代的にも、場所的にも、江戸時代に見られるような立派な建物が建っていたとは考えにくいです。
天守台から見た日本海、頚城平野、妙高山

天守台から見た日本海、頚城平野、妙高山です。天守台からは、日本海から妙高山にかけての大パノラマを楽しむことができます。
二の丸

二の丸です。実城の曲輪群の東裾を取り巻くように設けられ、実城とともに春日山城の中心地区を形成しています。城の古地図には「御二階櫓」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸と呼ばれる小さな井戸跡が残っています。
二の丸から見た本丸

二の丸から見た本丸です。二の丸と本丸の距離は近いのですが、高低差がかなりあり、崖の上の本丸といった感じです。
毘沙門堂

毘沙門堂です。昭和6年(1930)に建てられたもので、場所は謙信時代とは異なっています。内部には謙信が信仰した毘沙門天の像(青銅製、約50センチ)が安置されています。
直江屋敷跡

直江屋敷跡です。直江氏は上杉家の重臣で、謙信時代には景綱、景勝時代には子の兼続が活躍しています。関ヶ原の戦いの際、兼続が徳川家康に送った書状(直江状)は日本屈指の快文書として有名です。屋敷跡は三段になっており、当時のものと思われる坂道がそれらの段をつないでいます。
縦堀

縦堀です。山城には、尾根を分断した堀切と、沢を造って曲輪を独立させる縦堀が多用されました。この縦堀は、山裾の対馬谷から二の丸の直下にまで延び、三の丸や二の丸の防備のために掘られたものと考えられています。現在は草木が生い茂っていますが、当時は岩盤が露出し、滑りやすくなっていました。
三の丸屋敷跡

三の丸屋敷跡です。米蔵跡と景虎屋敷跡を総称して、三の丸屋敷跡と呼ばれています。春日山城では最も良好な状態の土塁が残されています。
上杉景虎屋敷跡

上杉景虎屋敷跡です。上杉景虎は相模の大名、北条氏康の七男で、永禄12年(1569)の越相同盟の際、謙信の養子となりました。謙信も自分の初名を与え、姪を娶らせるなど、景虎を後継者と考えていたとも言われています。謙信死後、上杉景勝との跡目争い「御館の乱」では、越後国外の人間ということもあってか、武将たちの支援を得られず、敗北、自害しています。
上杉謙信の銅像
城の地図:赤2

上杉謙信の銅像です。春日山神社の境内にあります。春日山城の土塁跡に建っているため、かなり高い位置にあります。この写真もズームで撮影しました。銅像の周りには、土産店や食堂などがあり、春日山城でもっともにぎわっている場所です。
春日山神社

春日山神社です。明治34年(1901)に謙信を祭神として創建されました。
林泉寺惣門
城の地図:赤3

林泉寺惣門です。林泉寺は春日山城の程近くにある、上杉家の菩提寺です。謙信はこの寺の六世天室光育大和尚に学問を学び、さらに七世益翁宗謙大和尚に禅の教えを学びました。上杉家が会津に転封となると、変わって越後の領主となった堀家、高田城主松平家、榊原家の菩提寺となり、厚く保護されました。この惣門は、春日山城の搦手門を移築したものといわれています。
林泉寺山門

林泉寺山門です。謙信が建立した山門は、江戸末に焼失。現在の山門は大正時代に再建されたものです。この山門には謙信が 書いた「春日山」「第一義」の大額が掲げられています。
監物堀と虎口
城の地図:赤4

監物堀と虎口です。監物堀は春日山城の東裾野に築かれた層構の堀で、上杉家の後に越後領主となった堀家が築きました。現在、その一部が復元され春日山城史跡広場として整備されています。この虎口が城の最も北端の入り口になります。
監物堀

監物堀です。堀氏の時代になっても石垣は用いられず、土塁のみで堀を形成しています。このあたりからだと、手前の山に邪魔され、春日山城の本丸がどこにあるかわかりません。広場が広大なことも相まって、約2キロメートル四方に広がる春日山城のスケールを実感できます。
春日山城の模型

春日山城の模型です。春日山城史跡広場の中央にポツンとあります。中央上で段々になっているのが、春日山城の中心地区で、模型手前で中央の谷を横切るように掘られているのが監物堀です。
番小屋

番小屋です。春日山城史跡広場の北側のやや高い場所は、東城砦で、発掘の結果掘っ立て柱の跡が見つかりました。番小屋は見つかった柱の跡から当時の建物を想定復元したものになります。
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