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甲府駅北口から続く武田通りをひたすらまっすぐ25分ほど歩くと武田神社の正面入り口に突き当たります。バスに乗っても良かったのですが、待つのがイヤだったので歩きました。武田通りの歩道にはところどころに板垣信方や武田信繁の屋敷跡を示す案内板が建っており次は誰が出てくるのかとわくわくしながら進みました。途中には「武田」の標識がある交差点もあり、さすがは甲斐武田氏の本拠地!とニヤニヤしていましました。また、武田通りは躑躅ヶ崎館に向かってゆるやかな上り坂になっており、盆地の端部に向かって進んでいることがわかります。
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武田神社の拝殿です。武田信玄はここに武田晴信命(たけだはるのぶのみこと)として祀られています。大正4年(1915年)に大正天皇の即位に際し、信玄に従三位が追贈され、これを機に山梨県民はその徳を慕い、官民が協力して社殿を造営し、大正8年(1919年)4月12日に鎮座祭が行われました。横には宝物殿があり、武田家にまつわる貴重な資料が展示されています。
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武田信玄が使用したと伝わる井戸です。拝殿の近くにあります。
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主郭と西曲輪の間の空堀です。躑躅ヶ崎館の堀は南側と西側が水堀で、その他は空堀になっています。かつてはこのようなうっそうとした木々はなく見通しが良かったことでしょう。
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主郭の北西の角にある天守台と思われる部分です。“思われる”としたのは城内地図から位置を特定しただけで、案内板等がなかったため確認が取れていないからです。大きな石が転がっていますが石垣の跡でしょうか?なお、現在主郭は大部分が武田神社の敷地で立ち入り禁止となっており、天主台に近づくことはできません。そのためこの写真も西曲輪から空堀越しに撮影しました。
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西曲輪南側虎口の石垣です。ここが西曲輪南側虎口跡であることは間違いないのですが、案内板等がなかったため石垣がいつごろのものかはわかりません。もしかしたら最近のものかもしれません。
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主郭東側虎口からみた空堀です。武田氏の時代はここが大手門だったらしく、他の空堀に比べ大規模なものになっています。
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躑躅ヶ崎館の北にあり詰城の役割を果たした要害山城です。躑躅ヶ崎館と同じ時期に武田信虎により築城されました。わかりにくいですが写真中央の丸っこい山が要害山城になります。大永元年(1521年)に駿河今川家の福島正成の軍勢が甲斐に侵攻した際、信虎は妻の大井夫人をこの城に非難させ、そのとき大井夫人が武田信玄を生んだと伝えられています。
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最後に南側の水堀です。赤い橋は武田神社の正門の橋です。写真でわかるように、水堀も決して幅が広いわけではありません。あくまで躑躅ヶ崎館は館であり、万が一のときは要害山城に篭るため、大軍に攻撃されればひとたまりもなかったでしょう。しかし、甲斐の国そのものが四方を山に囲まれた自然の城塞であり、精強を誇った武田軍にはここまで攻め込まれることをほとんど想定していなかったのではないでしょうか。
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大規模な石垣や建物など派手なものはありませんが、土塁や水堀に中世の居館の様子を伺うことができる城でした。ただ、武田神社がメインで城はおまけといった感じで、城跡としての案内板等が少なかったのが残念です。甲府市には城跡としての整備に力を入れていただけるとうれしいです。でも、このまま自然に任せるのも悪くないかもしれません…ちなみにこの日は時間が無かったため、要害山城には登城できませんでした。次回は要害山城にも登城したいと思っています。
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