KemaAkeの全国城めぐり

唐津城 からつじょう
別名 舞鶴城
形態 平山城
築城年 慶長7年(1602)
築城者 寺沢広高
主な城主 寺沢氏、土井氏、水野氏、小笠原氏
所在地旧国名 肥前
所在地 佐賀県唐津市東城内8-1
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR唐津線、同筑肥線、唐津駅下車徒歩25分。
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆
概要 ●江戸時代
豊臣秀吉の家臣であり、この地に封ぜられた寺沢広高が築城を行う。
広高は関ヶ原の戦いで東軍につき、その戦功により4万石を加増され、12万3千石の外様大名となり、本格的な築城を行った。
築城は慶長7年(1602)に始まり、慶長13年(1608)に完成した。築城にあたっては松浦川の流れを変え、城地である満鳥山を東唐津と切り離す工事を行った。また、秀吉の死後廃城となっていた肥前名護屋城の遺材を使用している。
正保4年(1647)に寺沢氏が改易となると、その後は譜代大名である大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏が城主を務め、明治維新をむかえる。
●明治時代以降
明治4年(1871)、廃藩置県により廃城となり払い下げにより建物が解体された。明治10年(1877)には舞鶴公園として整備解放された。
●戦後
昭和41年(1966)には五重五階の模擬天守が築かれ、門や櫓が再建された。平成元年(1989)には肥後掘と石垣、平成4年(1992)には三の丸辰己櫓が復元された。
遺構 普請:石垣、堀
作事:なし
天守:昭和41年築、鉄筋コンクリート造の模擬天守
登城日 2011/08/10

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。

1. 二ノ門掘
二ノ門掘
城の地図:撮影対象1
二ノ門掘は二の丸を守る掘です。寺沢広高が流れを変えた松浦川の旧川筋を利用して築かれたといわれています。
掘の北東には海に向かって北ノ門が開いていました。海に近いせいか掘からは磯の香りがします。

2. 二の丸石垣
二の丸石垣
城の地図:撮影対象2
二ノ門掘の内側は二の丸になり、二の丸内の一段高い曲輪には二の丸御殿がありました。現在でもその曲輪を形成する石垣の一部を見ることができます。
この石垣の目の前には松浦川に面して船手門がありましたが、現在では埋め立てられ川岸は遠くなり、その川幅も細くなっています。
残念なことに、二の丸御殿跡には現在早稲田佐賀中学校・高等学校が建てられ、立ち入ることはできません。

3. 本丸へ続く石段
本丸へ続く石段
二の丸から坂口門を経て、この石段を登ると本丸に到達します。
石段の脇には本丸の高石垣があり、城に来たことを実感させてくれます。唐津城は建物こそ残っていませんが、主要部の石垣は旧態を留めており見事です。
本丸までは有料の直通エレベーターもありますが、そんなにキツくはないので石垣を眺めながらの石段での登城をオススメします。

4. 一の門
一の門1
一の門2
城の地図:撮影対象3
一の門は本丸一の曲輪の南東に位置しています。解説板がなかったので、詳細はわかりませんが、造りと規模から本丸の大手に当たる門のようです。昭和41年(1966)に天守と一緒に再建されました。

5. 本丸から見た天守
本丸、ニの曲輪から見た天守
城の地図:撮影対象4
本丸、一の曲輪から見た天守
唐津城の天守は模擬天守で、昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート製で築かれたました。立派な天守台は築かれましたが、江戸時代を通して、天守が建てられた記録はありません。
外観は望楼型で、一重目の唐破風の出窓や石落し、二重目の大入母屋を見るとどことなく姫路城大天守を彷彿とさせる造りになっています。
私が登城したときは石垣の修復工事中で、天守の続櫓などが壊されていました。工事完了は2016年(平成28年)を予定しているそうで、今後どのように整備されるか気になるところです。

6. 天守最上階からの眺め
天守最上階から見た西〜東方面
天守最上階から見た東〜南西方面
最上階の廻縁からは唐津市街と唐津湾を一望することができます。真夏の登城でしたがここは海風が絶えず吹き、涼しかったです。
1枚目の三つの島は左から大島(現在は地続き)鳥島、高島で、右端の大きな川が松浦川です。
2枚目の左側、半島状の陸地(東唐津)の奥にある広大な緑地は虹の松原です。これは寺沢広高が新田開発の一貫として、防風・防砂林として植樹を行ったもので、その広さは230ヘクタールと広大です。中央は唐津市街で、右端のグランドが二の丸御殿跡になります。

8. 西から見た本丸
海岸から見た本丸
城の地図:撮影場所1
海岸から天守
西から見た本丸です。1枚目の砂浜の奥には石垣が残り、かつてはこの石垣が直接海に面していました。このように直接海に面している城は海城と呼ばれ、他には萩城などがあります。
9. 海岸沿いの石垣
海岸沿いの石垣1
城の地図:撮影対象5
海岸沿いの石垣2
1枚目の石垣手前の砂浜も江戸時代にはなく、石垣が海に直接面していました。2枚目のように今でも一部で海に面した石垣を見ることができます。
10. 東から見た本丸
東から見た本丸
城の地図:撮影場所2
東から見た本丸です。手前は海のように見えますが、松浦川の河口で、写真右側の唐津湾に注いでいます。唐津城の他の場所と同様に、かつては石垣が松浦川に直接面していました。
ただこの河口は寺沢広高が松浦川の流れを変え、人口的に作ったもので、一種の掘とも言えます。
11. 南から見た本丸
東から見た本丸
城の地図:撮影場所3
南から見た本丸です。唐津城は北を海、東と南を広大な川に囲まれ、西側のみが陸とつながる半島状の小高い丘に築かれています。このような海城は近代になって強力な軍艦が現れるまでは、堅固この上ない縄張りだったのではないでしょうか。
12. 三の丸辰巳櫓
三の丸辰巳櫓1
城の地図:撮影対象6
三の丸辰巳櫓2
三の丸辰巳櫓は三の丸の南東隅に建てられた櫓です。江戸時代初期の正保城絵図にも描かれており、築城当時から築かれていたと考えられています。明治の廃城時に解体されましたが、平成4年(1992)に石垣と合わせて復元されました。内側のみ下見板張りとなっているのが特徴でしょうか。
13. 肥後掘
肥後掘
城の地図:撮影対象7
肥後掘は三の丸と外曲輪の間の掘で、長さ300メートル、幅20メートルから25メートルの規模がありました。現在は唐津市役所の南側の一部が復元されています。
余談ですが、写真奥の白いビルが昭和バス大手口バスセンターで、肥前名護屋城行きのバスはこのビルから出ています。


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