感想など
中津城へのアクセスはJR中津駅から徒歩20分ほどです。
小倉城から連続での城めぐりということで疲れていたのかもしれませんが、妙に遠く感じました。
小倉方面から電車に乗ると、中津駅手前の中津川のあたりで、車窓左側に天守を見ることができます。
堀や石垣の多くは市街化により失われ、残るのは本丸周囲のみとなっていますが、水城の名残か、堀には海水が引き込まれているようで潮の香りがします。
現存する石垣は場所によってはほとんどの城で失われている間詰石が非常に良い状態で残っているのに驚きました。
付近の神籠石式山城から運び出した石材を用いた中津川沿いの石垣も見どころで、城ファンなら他の城の石垣との違和感を覚えると思います。
天守は昭和の築城ブームの頃に建造されたもので、典型的な昭和鉄筋コンクリート天守です。
大規模なリニューアルも行われていないようでだいぶ年季が入っていますが、職員の方が展示品のガラスケースを丁寧に掃除していたのが印象的でした。
登城記
1. 本丸南堀
本丸南入口
本丸南堀、西側石垣
本丸南堀、東側石垣
増築された石垣
中津駅から案内板に従って進むと大きな鳥居の向こうに天守が見えてきます。この鳥居は本丸内にある中津大神宮の大鳥居です。
中津大神宮の参道を造る際、本丸南堀は東西二つに分割され、さらに東側石垣の上半分は撤去、下半分は埋めらました。
東側の石垣は平成20年(2008)に掘り起こされ、撤去された上半分の石垣も復元されました。
これにより数十年ぶりに本丸南堀が全面的に姿を表しました。
本丸南堀の石垣は黒田孝高築城時のもので、九州最古級の野面積みによる近世城郭の石垣です。
南入口に立ち石垣を見通すと全体的に非常にゆるやかではありますが、弧を描いていることがわかります。(写真ではほとんどわかりませんが…)
これは「輪取り」と呼ばれる技法で、力を内側に集中させることで石垣の崩壊を防ぐ造りです。
南入口に面した石垣の断面からは、築城当時に本丸内側に面して築かれた古い石垣が見つかっています。
その様子から本丸南堀の石垣は石類のようになっており、内側に向かって徐々に拡幅されたいったことがわかりました。
拡幅されていくうちに内側の石垣は土塁の中に埋もれていったようです。ここからは排水口も見つかっています。
2. 本丸
三斎池
天守から見た本丸
城井神社
扇城神社
中津城の本丸は大まかに中津川を斜辺とした直角三角形となっており、他の豊臣系城郭と同様に下ノ段と上ノ段に分かれていました。
現在下ノ段の大部分は駐車場になっており、他には中津神社があります。上ノ段は復興天守の他に、中津大神宮、奥平神社、金刀比羅宮、城井神社、扇城神社があります。
お城の中に神社がある例は多いですが、一つの曲輪の中に大小これだけの神社が集まっているのは珍しいのではないでしょうか。
・三斎池
下ノ段には三斎池と呼ばれる貯水池があります。藩主として
小倉城を居城としていた細川忠興は、元和6年(1620)に隠居すると中津城を居城としました。
このとき黒田氏の後を引き継いで中津城や城下町の整備を行い、城内の用水不足を補うため城内への水道工事を行いました。
その水道の水ををたたえたのが三斎池で、鑑賞や防火用水として使用されました。
三斎とは細川忠興の隠居後の号に由来します。
・城井神社と扇城神社
城井神社は豊臣秀吉による九州平定前にこのあたりの領主であった城井谷城主、宇都宮鎮房を祀った神社です。
秀吉は宇都宮鎮房に四国今治12万石への転封を命じましたが鎮房はこれを断り黒田孝高、長政親子と豊前で戦いを繰り広げました。
黒田長政を敗退させるなどその戦いぶりに手を焼いた秀吉と孝高は一計を案じ、所領安堵を餌に鎮房を中津城に招きます。
しかしこれは二人の罠で酒宴の席で鎮房は謀殺されました。
江戸時代の中津城主小笠原長信は宝永2年(1705)に宇都宮鎮房の慰霊のためこの神社を建立しました。
城井神社のとなりには小さな扇城神社があり、これは宇都宮鎮房の家臣を祀ったものです。
3. 天守周辺
天守と小天守
天守南面
天守北面その一
天守北面その二
黒田孝高石像
北東から見た天守
天守東面
南東から見た天守
細川、黒田氏それぞれの石垣
祇園車の車輪
天守から見た中津駅方面
天守から見た周防灘方面
・天守
現在の中津城天守は藤岡通夫教授の設計により、昭和39年(1964)に鉄筋コンクリートで建設されました。
藤岡道夫教授はこのころに建造された鉄筋コンクリート製天守の設計を数多く手がけており、
熊本城や
和歌山城、
小倉城なども藤岡通夫氏による設計です。
黒田孝高による築城から江戸時代にいたるまで、中津城に天守があったかは不明なため模擬天守ということになります。通説では財政難でかつ必要性もなかったため天守は建てられなかったとされています。
模擬天守は本丸北東隅に石垣を積み増して建てられたようで、石垣をよく見ると一定の高さから上の積み方が違うことがわかります。
外観は萩城天守を参考とした古式な望楼型ですが、萩城は白漆喰総塗籠の「白い城」であるのに対し、中津城は下見板張りの「黒い城」となっています。
特徴は一階が大きく外側に張り出しているところで、これも萩城天守のものを踏襲しています。
内部は奥平歴史資料館として、奥平家歴代当主の甲冑や武具などが展示されています。
天守南に位置する二重櫓も同時に復興されたもので、この場所にはかつて本丸東南隅櫓があり、古写真にもその姿が残されています。この古写真によると現在の天守方面に向かって多門櫓が続いていたようです。
・細川、黒田氏それぞれの石垣
天守のすぐ東側、堀越に石垣を観察すると石垣の継ぎ目を見ることができます。
この継ぎ目より左側が細川氏の新しい石垣で、丸みを帯びた自然石が使用されています。
右側は黒田氏の古い石垣で、四角く加工された石材が使用されています。
通常は時代が下るにつれて石材の加工度が高くなるのですが、ここではそれが逆転しています。
これは黒田氏が築城に当たり、中津川の川上にある古代の神護石列石の遺跡から加工された石材を運び出し石垣として使用したためです。
このあたりは使えるものはなんでも使うという黒田孝高の思想が現れているように思います。
・祇園車の車輪
天守脇の堀にはよく見ると木製の輪がいくつか埋まっています。
これは中津祇園祭で使われる祇園車での車輪です。
祇園祭が終わると祇園車は分解され、車輪は中津城の堀の泥の中に埋められます。
これは車輪の風化と虫食いを防ぐためで、祭の間近になると泥の中から掘り出す「輪堀り」という作業が行われます。
木材を水中に入れると腐るイメージがありますが、木材の保存には酸素にさらされない水中が適しているようです。
4. 水門跡周辺
水門跡その一
水門跡の立石
水門跡その二
水門跡付近の間詰石
水門は本丸南西隅に位置する門で、現在も中津城への出入口の一つになっています。
石垣は隅石を巨大な立石としているのが特徴です。中津城ではこのような「見せる石垣」は少ないようで、この水門跡だけで見ることができます。
水門を出た付近の石垣では、これまでに見たことがないほど保存状態の良い間詰石を見ることができます。
間詰石は石垣の石材と石材の間の隙間を埋めるための小石で、石垣の強度には影響しませんが石垣を美しく見せるための化粧のひとつです。
たいていどこの城でも時間の経過とともに失われほとんど残っていないことも多いのですが、ここでは驚くほど状態の良い間詰石が残っています。
あまりにも状態が良いので最近になって修復されたものかもしれませんが、特に案内板等はありませんでした。
5. 鉄門跡周辺
鉄門跡
鉄門跡石垣その一
鉄門跡石垣その二
中津川沿いの石垣
中津川に面した本丸西側には元和6年(1620)に造られた鉄門がありました。
その名前の通り扉の表面に鉄板を貼り付けた、中津川に面して開かれており、階段を登ると本丸へ直接通じていました。
このように河川から直接本丸へつながる門は非常に珍しく、日本三大水城の一つである中津城らしいものと言えます。
古絵図によると鉄門脇には中津城唯一の三重櫓が建てられていたようで、天守を持たない中津城にあって天守代用櫓であった可能性もあり、この門の重要性が伺い知れます。
鉄門周辺の石垣は黒田孝高築城時に、神籠石式山城である「唐原山城」から持ち出された石材が多用されています。
隅石を見ると比較的大きなL字状に切り欠きのある石材が使われていますが、この切り欠きが神籠石式山城の特徴のようです。
残念ながら現在、鉄門跡の開口部は石垣で塞がれています。
6. 大手門跡・西門跡
大手門跡
西門跡その一
西門跡その二
西門跡その三
・大手門跡
大手門は中津城三の丸の東端に位置しており内桝形虎口となっていました。
枡形の広さは奥行き約23メートル、幅約6メートルほどで厳密には枡形というより食違虎口と言ったほうが適切かもしれません。
門の建物は黒田孝高によって滅ぼされた犬丸城の古材を使用していたといわれています。
現在は間詰石がよく残った、状態の良い石垣が一部残されています。
・西門跡
西門は中津城三の丸の南西隅に位置しており搦手門にあたります。
大手門と同様の櫓門だったようです。
豊前街道の発着所「小倉口」に一番近い西門周辺は堀の幅を広くとり内枡形を設けていました。
武具や道具類が収められていた櫓門は明治2年(1869)に焼失しました。
城の地図
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