感想など
JR豊後竹田駅に着くと駅背後にそびえる切り立った崖に驚かされます。
岡城が立地するこのあたりはこのような断崖絶壁が多く「地獄谷」と呼ばれる理由が駅からも伺えます。
ここから岡城の入口がある総役所跡(岡城駐車場)までは城下町を抜け、ちょっとしたトンネルを抜けて徒歩約20分ほどで到着します。
日本100名城公式ガイドブックにはタクシー利用で5分とありますが、城までの傾斜は比較的緩やかで、徒歩で城下町をぶらぶらしながら向かうのがおすすめです。
駐車場横の拝観料徴収所で入城料300円を支払いパンフレットを受取りましたが、このパンフレットも巻物状の趣向を凝らしたもので期待を高めてくれます。
岡城は山城に分類されますが山城としては破格の広さを誇ります。
最大の曲輪である西の丸は近世平城の曲輪ほどの広さがあり、山城というよりは平山城にいるように感じます。
他の城では主郭部の外に設けられる家老屋敷なども含んだ広さではありますが、とにかく広いです。隅から隅までくまなく見て回ると、数時間はかかります。
そしてなによりも山上に延々と隙間なく積まれた石垣群の見事さ、多様さに圧倒されます。
隅から隅まで石垣で固められており、正真正銘の総石垣の山城を堪能できます。
視界を遮る木々も少ないため、本来の山城らしい眺望が開けているのも素晴らしいです。
日本三大山城として
岩村城、
高取城、
備中松山城が挙げられますが、私としては岡城が入っていないのが不思議でなりません。
これだけ広大な岡城ですが、木々が生い茂ったままで未整備の曲輪がまだあるようです。
石垣の見事さと広大さにハマり、三時間半ほどを費やし隅から隅まで見て回りました。久々に心からワクワクした城でした。
城ファンでない方は天守=城と思っている方も多いようですが(最近はそんなことはないかも…)岡城は城に興味のない方でも間違いなく満足できる城です。
私もいずれ必ず再登城したいと思います。何度も行きたくなる、岡城はそんな素晴らしい城です。
登城記
1. 豊後竹田駅から総役所跡まで
豊後竹田駅
岡城への分岐
岡城へのトンネル
総役所跡(岡城駐車場)
岡城への出発点である豊後竹田駅は小さな駅ですが、最近の岡城人気のおかげか、JR九州が誇る超高級クルーズトレイン「ななつ星」の停車駅にもなっています。
発車メロディーは滝廉太郎の荒城の月(歌あり)で、歌ありの発車メロディーでは聞いたことがなかったため驚きました。
駅背後にそそり立つ断崖絶壁のインパクトはかなりのもので、岡城はこのような断崖の上に立地しているとのことで期待が高まります。
豊後竹田駅から岡城へ歩いていくと、15分ほどで城下町の商店街を抜け、徐々に傾斜が急になっていきます。
とは言っても豊後竹田駅は標高約240メートル、岡城駐車場は標高約310メートル、その高低差は100メートルもないので、山城とは言いながら穏やかなものです。
途中には趣のある手掘りのトンネル、いや、隧道があり、日常生活の場とお城の境界のようで面白いです。
岡城駐車場にたどり着くと、見上げるほどの高さの木々の間から西の丸石垣が顔をのぞかせています。
2. 総役所跡から大手門跡まで
岡城址の石碑
かまぼこ石
大手門跡石垣を見上げる
白滝川を見下ろす
総役所跡で拝観券を購入し大手門跡を目指します。総役所跡付近ですでに石垣を見ることができます。
総役所跡から岡城址の石碑まではほぼ平坦な舗装路となっており、沿道にはお土産屋さんらしき建物もあります。
岡城址の石碑からは山城らしい登城道となり、ここでは岡城独特のかまぼこ石を見ることができます。
かまぼこ石はその名の通り、かまぼこのように上部が半円状になった石積みで、登城道の手すりとなっています。
豪壮な石垣で固められた岡城にあって、可愛らしい存在です。
登城道からは大手門跡の石垣を見上げることができ、ほぼ垂直にそそり立つその姿はヨーロッパの城の塔を思い起こさせ、どこか日本離れした風景となっています。
しばらく登城道を登ると、岡城の守りの要である白滝川を見下ろすことができます。
3. 大手門跡
大手門跡正面その一
大手門跡正面そのニ
大手門跡正面その三
大手門礎石と車敷
大手門石垣
大手門裏面
大手門を見下ろす
古大手門跡
岡城址の石碑から30メートルほどの高さを登ると大手門跡に到着します。
左右に塔のようにそびえる櫓台の上に乗った巨大な渡櫓門で、門部分の高さが他城に比べ高いように感じます。
門部分には礎石と車敷が残り、車敷が必要なほど大きな扉があったことが伺えます。
正面向かって右側の櫓台中央には一際大きな鏡石が据えられ、周りを小さな石材で囲んでいます。いわゆる笑い積みというものです。
門の巨大さと合間って来る者を威圧していたことでしょう。
櫓台の上端部が西洋の城の胸壁のように凹凸状になっており、ここに櫓の梁を載せていたのかとも考えましたが、特に解説はありませんでした。
中川氏による改修当初、大手門は現在の向きの反対側、東側に向かって開かれており古大手門跡として残っています。
西側に向かって開くように改められたのは、慶長17年(1612)に岡城に立ち寄った藤堂高虎のアドバイスによるものと伝えられています。
4. 西の丸
西の丸入口階段
西の丸石垣その一
西の丸石垣そのニ
西の丸御殿跡
角櫓跡その一
角櫓跡そのニ
角櫓跡から物見台跡を見る
西の丸石垣その三
角櫓跡からの眺望
大手門の先は通路が左右に別れ左に進むと西の丸、右に進むと本丸へ至ります。
西の丸方面を見るとまるで野球場のスタンドのような幅広の巨大階段が目に飛び込んできます。
一見すると近代になって後付したかのような階段ですが当時のものです。
かつてはこの階段の上に楼門が建てられ、その先が広大な西の丸となっていました。
西の丸の石垣は切込接ぎ、打込接ぎ、落積み、切石を使用した算木積み、丸くしつらえた隅部など多種多様な技法を見ることができ、さながら石垣博物館のようです。
西の丸は城内最大の曲輪で、寛文4年(1664)に三代藩主中川久清によって隠居所として西の丸御殿が建てられてましたが、
明和8年(1771)の大火災で焼失し、再建後は「西御曲輪」と呼ばれ、政務の中心となりました。
西の丸西端に位置する角櫓跡は視界がよく開けており、物見台跡の何段にも重なる石垣、九重連山などの山並みを見ることができます。
5. 中川民部屋敷跡周辺・近戸門跡
中川民部屋敷跡その一
中川民部屋敷跡そのニ
中川民部屋敷石垣
近戸門跡正面
近戸門跡裏面
近戸門礎石と車敷
近戸門跡脇の石垣
普請方石垣
西の丸の北側には中川民部屋敷跡があります。中川民部は三代藩主中川久清の五男、久旨の家系です。
西の丸周辺は中川秀成による改修で、本丸に匹敵する広さを持つ武家屋敷などが配置されました。
中川民部屋敷もそのうちの一つで、屋敷跡は発掘調査の成果をもとに礎石による建物表示がされています。
この中川民部屋敷跡と北に位置する中川作左衛門屋敷跡の間は通路となっており、西に向かって近戸門が開かれていました。
近戸門は中川秀成による改修時に設けられた岡城主要三口のうちの一つで、宝永3(1706)には大手門建て直しにともないこれが移築されています。
また、五代藩主久道は生母長寿院が死亡した折、江戸からの帰城で大手門から城に入らずこの近戸門から入城しています。
城に不幸があったときに使用する不明門のような役割も果たしていたようです。
現在も大手門と同様に立派な礎石と車敷を見ることができ、大手門が移築されたことが伺えます。
また、門脇の高石垣は九州の城に見られる角を造らず、曲線を描いた石垣となっています。
険しく切り立った石垣の多い岡城にあって柔らかで雅な印象を受けます。周囲が武家屋敷地ということも関係しているのかもしれません。
6. 中川覚左衛門屋敷跡周辺
中川覚左衛門屋敷跡入口
埋門跡か
土塀跡か
当時の瓦か
中川覚左衛門屋敷跡
櫓台
中川覚左衛門屋敷跡石垣その一
中川覚左衛門屋敷跡石垣そのニ
中川覚左衛門屋敷跡から城代屋敷跡・本丸方面を望む
中川民部屋敷跡の北には普請方と中川覚左衛門屋敷跡があります。
岡藩家老中川覚左衛門家は茶道で名高い古田織部の子孫で、藩主中川家に代々仕え中川の性を与えられ延享2年(1745)ににこの屋敷地に移りました。
古田家の記録には「ここは険しい城の中でも特に険しい所で、敷地は広く二千三百石取りの家老に相応しい」と記されています。
発掘調査では玄関部に向かう飛石列、屋敷の境界を表す礎石、束石、狭間石等が確認され、こられの成果と古絵図をもとに屋敷の間取りが復元されており当時の屋敷の規模を感じることができます。
屋敷の入口付近では朽ちてはいますが土塀跡らしきものの上に瓦が残されていました。
前述した中川民部屋敷跡、普請方、中川覚左衛門屋敷跡周辺の石垣は高さはそれほどではありませんが、いくつもの小曲輪が重なりまるで迷路のようです。
かつてはこれらの石垣の上に土塀が延々と続いており、通路を歩くと城下町の中に居るような感じだったのではないでしょうか。
明らかな石垣の継ぎ足しや、埋門らしき石造りの遺構もあり、細かく観察すればするほど面白いものが見つかります。
このあたりは本丸方面に比べると人もまばらで、延々と続く苔むした石垣は古城の趣たっぷりです。滝廉太郎が歌を作りたくなる気持ちもわかります。
7. 御朱印跡・中川但見屋敷跡・城代屋敷跡周辺
御朱印跡石垣
御朱印跡スロープ
中川但見屋敷跡階段その一
中川但見屋敷跡階段そのニ
中川但見屋敷跡
中川但見屋敷跡隅部
中川但見屋敷跡から中川覚左衛門屋敷跡を見る
中川但見屋敷跡と城代屋敷跡の間の通路
大手門跡から右、本丸方面へ進むと右側は白滝川に面した断崖絶壁となり、左側に御朱印跡、中川但見屋敷跡、城代屋敷跡が続きます。
これらは屋敷地ということで比較的広い曲輪で、中川民部屋敷跡、中川覚左衛門屋敷跡の周辺と同様に低めの石垣によって区切られています。
御朱印跡に続く階段は珍しい構造で、石垣造りの半円状の緩く曲げられたスロープとなっています。
中川但見は元亀年間より中川家の始祖、中川清秀の家老として使えた戸伏氏の家系で、二代藩主久盛の代に中川性を名乗り、歴代藩主の家老として使えました。
中川但見屋敷跡は中川秀成が岡城改修着手から本丸完成までの間、仮屋敷としていたところでもあります。
中川但見屋敷跡と城代屋敷跡の間は細い直線の通路で区切られ、石垣の小路といった雰囲気です。
8. 西中仕切跡・太鼓櫓門跡
西中仕切跡
西中仕切跡石垣その一
西中仕切食違い虎口
西中仕切跡石垣そのニ
三の丸高石垣
西中仕切跡から太鼓櫓門跡を見る
太鼓櫓門跡
太鼓櫓門跡石垣
太鼓櫓門跡の亀甲積み
太鼓櫓門跡枡形石垣
太鼓門櫓跡裏側から西中仕切跡方面を見る
太鼓櫓門跡を見下ろす
岡城の本丸、二の丸、三の丸は東西2か所の中仕切で区切られています。中仕切は城内でも最も尾根が狭くなった部分に設けられ、両側は切り立った絶壁となっています。
西中仕切は大手門方面に開かれ、食違虎口となっています。石垣は切込み接ぎの見栄えの良いものとなっています。かつては棟門のような単層の門があったようです。
この西中仕切手前、左側を見ると崖にせり出すように造られた岡城一の高石垣を見ることができます。岡城の写真として最もよく使われる三の丸高石垣で、その高さは20メートル以上あります。
あまりの見事さにフラフラと崖に吸い寄せられますが、岡城の石垣端には柵は一切ありませんので、足元注意でこの高石垣を堪能してください。
西中仕切の食違虎口を抜けると、眼の前に巨大な石材を用いた太鼓門櫓跡の石垣が現れます。
この石垣は城内で最も大きな石材を用いており、加工の度合いも極めて高い切込み接ぎで、所々に亀甲積みも見ることができます。
非常に見事で重厚な石垣で、江戸城や大阪城などの巨大城郭にも匹敵する立派さです。かつてはこの石垣の上に渡櫓門が建っていました。
西中仕切と太鼓門櫓の間は大きな枡形のようになっており、西中仕切と太鼓櫓門が連携した防御を想定していたのだと思います。
太鼓櫓門を抜けると内枡形となっており、三の丸への通用口と藩主専用の「御成門」の石段が設けられています。
三の丸の中央には御殿が設けられ、他藩の使者や家臣が藩主と対面する場所として使われていたと考えられています。
9. 本丸跡
本丸西面石垣
本丸小三階櫓台石垣
本丸御三階櫓台石垣
本丸北面石垣その一
本丸北面石垣そのニ
御門櫓礎石
本丸跡
本丸東面石垣
岡城の最高所に位置する本丸は南北に細長い曲輪で、出入口となる石段は二の丸に面した北面に設けられています。
この出入口は向かい合った石段が踊り場で合流し本丸へ続いており、西洋の宮殿や近代洋風建築のようでどことなくモダンな印象を受けます。
かつてはこの石段の上に御門櫓があり、現在でもその礎石が残っています。
本丸は四方をいくつもの櫓や土塀で囲んだ厳重な造りで、南西隅に天守台用の御三階櫓、北西隅に小三階櫓が建てられていました。
築城当初の御三階櫓は下見板張の望楼型でしたが、廃城間際に撮影された古写真では白漆喰層塗籠の層塔型となっています。
この変化は明和6年〜8年(1769〜1771)ころに風雨と地震により倒壊したものを、安栄3年(1774)に再建したためです。
この再建にあたり御三階櫓の櫓台石垣もすべて積み直されたようで、反りのない直線的な石垣で隅部は完全な算木積みです。
また、このあたりの石垣は正方形に整形した石材を規則正しく斜めに積んでおり、非常に洗練された谷積みのようで、これまであまり見たことがない積み方となっています。
現在、本丸には岡城天満神社が鎮座しています。この神社は中川秀成が岡城に入城したとき、城内東側にあった天神祠を移転したもので、歴代藩主が守り神として崇拝してきました。
岡城は天正14年(1586)に島津軍三万の攻撃を退け、御祭神が天神さまということもあり「落ちない」ということで、今でも受験祈願に多くの人がこの岡城天満神社に参詣に訪れているそうです。
10. 二の丸跡
御成門石段
二の丸跡
滝廉太郎像と九重連山
二の丸から見た本丸石垣
二の丸は本丸の北側に張り出した曲輪で、中央に御殿、東端に御風呂屋、北端に月見櫓がありました。
月見櫓はほぼ方形の二階櫓で、上階に廻縁が巡り、屋根は檜皮葺、四方の隅棟が屋根中央に集まり頂部に露盤と宝珠が載る宝形造でした。
御風呂屋も石垣から張り出した懸け造りで、一階に風呂、二階に畳座敷や涼をとるための簀子縁が設けられていました。二階から箱階段が本丸へ続いていたのも特徴です。
風流な建物が並ぶ二の丸は、藩主が和歌や茶などを楽しむ数寄屋曲輪であったようです。本丸と直通する箱階段も藩主専用だったのかもしれません。
現在ではこの箱階段を意識した休憩所が設けられ、二の丸から室内を通って本丸と行き来することができます。
また、「荒城の月」作曲者、滝廉太郎像もあり、九重連山とともに写真に収まる撮影スポットになっています。
11. 東中仕切跡・御廟所跡周辺
東中仕切跡
東中仕切跡へと続く道
御廟所跡石垣その一
御廟所跡石垣そのニ
御廟所跡石段
御廟所跡
清水門跡
下原門跡方面を見る
三の丸、二の丸、本丸の南側には崖沿いに通路を兼ねた帯曲輪が続き、その先に岡城東側の防御の要である東中仕切がありました。
西中仕切と同様に食違虎口となっており、かつては棟門のような単層の門があったようです。
現在はこの東中仕切跡まで車道が整備されていますが、すれ違いのできない細い道路で、片側は切り立った崖となっており一般車の立ち入りは禁止のようです。
年に何回か、期間限定でお年寄りや体の不自由な方など、山の上まで登るのが困難な方のためにマイクロバスが総役所跡(岡城駐車場)からこの東中仕切跡まで運行しています。
東中仕切の外側はあまり高低差のない屋敷地のような曲輪が続き、本丸側から三楽亭跡、荘嶽社跡、御廟所跡となります。
荘嶽社は藩祖中川清秀を祀り、御廟所には中川家代々の位牌が安置されており、藩主の精神的支柱となる場所だったようです。
中川秀成による改修前、志賀氏時代はこのあたりが岡城の中枢でした。
三楽亭跡近くには「清水門跡」の石段があり、ここを下ろうとしましたが、未整備のためか草が伸び放題で道として機能していないため断念しました。
岡城の復元鳥瞰図を見ると、御廟所跡の西側、山の中腹にも石垣で固められた屋敷地らしき曲輪があるようで、そこへ続く門ではないかと思います。
破格の規模を誇る岡城跡ではこのようにまだまだ未整備の場所があるようです。
12. 下原門跡
下原門跡正面その一
下原門跡正面そのニ
下原門跡その一
下原門跡そのニ
御廟所跡から先に進み、岡城の東端へ進むと下原門跡があります。
下原門は中川秀成が入城するまでの岡城の大手門でしたが、中川秀成が城の改修に着手した際の古文書に「下原口を搦め手とし近戸口を切り開き三口とす」とあり、このときに大手が改められ下原門は搦手口となりました。
城下町ももともとはこの下原門側にしかありませんでしたが、このときに大手門側、現在の豊後竹田駅周辺の城下町が整備されました。
搦め手でありながらその石垣は立派で、かなりの急斜面の食違虎口となっており堅固さが伺えます。
13. 七曲り
七曲りから見た近戸門跡
七曲りその一
七曲りそのニ
七曲りから見た物見台跡
岡城をじっくり堪能し、最後に近戸門跡から総役所跡(岡城駐車場)へと続く七曲りを下ります。
七曲りは中世以来使用されてきた屈曲したつづら折れの道で、石垣で斜面が保護されています。
この石垣は中川氏によって改修されているようですが、ところどころにむき出しになった岩盤を見ることができ、いかにも中世の城道といった雰囲気があります。
中川秀成による改修で近世城郭となった岡城ですが、その中にあって中世の面影を色濃く残す場所となっています。
城の地図
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