|
今回は四国の城六つを三泊四日で登城します。最初は高知城へ。天気はあいにくの曇り時々雨。高知駅から宿泊先ホテルに立ち寄り荷物を預けて高知城へ。歩いて10分ほどで天守閣が見えてきました。
|
|
追手門です。現在の渡り櫓門は寛文4年(1664年)に建造されたもので、下見板張りで古風なおもむきがあります。間口が広く大変立派な門です。
|
|
追手門は、高知城では珍しく大きな石を積んだ石垣の上に建てられています。
|
|
内側から見た追手門です。間口は20メートルくらいあるでしょうか。
|
|
追手門をくぐると板垣退助の銅像がありました。土佐藩祖、山内一豊公の銅像は追手門の外にあるのに…こちらの銅像の方が古いみたいですが、山内一豊公が少々気の毒です。
|
|
杉の段への階段を上っていくと左側に石垣から突き出た石の板があります。これは「石樋」といって字の通り石製の樋です。このあたりは全国でも有数の多雨地域。そのため排水には注意が払われており、排水が直接石垣に当たらないように工夫しています。この石樋の下には石敷きがあり排水から地面を保護しています。同様の石樋は高知城内16ヶ所確認されており、低いところのほうが排水が多くなるため大型の石樋が設けられています。
|
|
階段の上は杉の段です。ここの井戸水を毎日三回藩主の居住する二の丸御殿に運んでいたそうです。杉の段から高石垣越しに天守閣を撮影してみました。
|
|
さらに階段を登り鉄門跡を過ぎると三の丸です。ここには詰門があります。詰門は本丸と二の丸の間の空堀をまたいで建てられており、空堀の東西を区切る門になっています。昔は橋廊下と呼ばれていたそうで、なぜ橋なのかというと、二の丸から本丸に入るためにはこの門の上部を通っていく必要があるからです。廊下の部分が登城した武士の詰所となっていたため、現在では詰門と呼んでいます。
|
|
詰門の前から天守閣を望む。良い感じの苔むした石垣があったので天守閣と一緒に撮影しました。
|
|
詰門右側の階段を上ると二の丸です。二の丸にはかつて藩主の御殿が建っており、小天主に当たる三階建ての乾櫓がありました。写真手前の建物は詰門の二階部分になり、そこを通って本丸に入ります。
|
|
本丸です。建物が密集しているためかなり狭く感じます。天守閣手前の建物は本丸御殿で、懐徳館と呼ばれています。本丸の全ての建物が現存しているのは高知城だけで、火災で全焼したものを前後に創建当時の規模で再建したものです。天守閣は他の城と異なり、本丸の地面に直接建てられており、本丸そのものが天守台になっている状態です。
|
|
本丸御殿の内部です。写真奥が上段の間、藩主の御座所です。もっとも本丸御殿は「城内巡検」や「天守閣登城」といった特別な儀式の時しか使われなかったようです。創建当時は狩野派の手による障壁画が描かれており絢爛豪華だったようですが、寛延2年(1749年)前後の再建時に質素なつくりになったようです。
|
|
天守閣内部にあった高知城主要部分の模型です。東から眺めた状態を撮影しました。手前から三の丸、本丸、二の丸となります。三の丸、二の丸の御殿群が実に見事です。
|
|
続いて北西から眺めた状態を撮影しました。手前から梅の段、二の丸、本丸となります。二の丸手前の三階建ての櫓が小天主に当たる乾櫓です。高知城にもかつてはたくさんの二階櫓が建っていたようです。
|
|
鯱です。近くにいた親子連れの子供が鯱を見て「パパ〜、パイナップルの写真撮って!」と言っていました。確かにパイナップルっぽいですね。鯱は城ごとに特徴があっておもしろいです。高知城の鯱は青銅製です。
|
|
黒鉄門です。詰門が本丸の表門なら、こちらは裏門といったところでしょうか。この門を抜けると梅の段、三の丸に通じています。
|
|
本丸下東側から天守閣を望む。写真中央やや右下にあるのは石樋です。最初にご紹介した石樋より高い場所にあるため小いものになっています。
|
|
梅の段から本丸を望む。左側が詰門 、右側が本丸です。この後、城外に出て城の周りを一回りしていろいろな角度から写真を撮影しようと思ったのですが、山が大きく、一面樹木に覆われており、天守閣が望める場所はありませんでした。かなり離れないといけないようなので、断念しました。
|
|
夕闇せまる天守閣。
|