KemaAkeの全国城めぐり
高知城
こうちじょう
別名鷹城 追手門と天守
形態平山城
築城年慶長6年(1601)
築城者山内一豊
主な城主山内氏
所在地旧国名土佐
所在地高知県高知市丸の内1-2-1
アクセス JR高知駅
↓徒歩(25分)
追手門
アクセスのしやすさ☆☆☆☆
概要
-----------歴史------------
●大高坂山城
現在の高知城の場所には南北朝時代に築かれた大高坂山城があったが、ほどなく廃城となっている。
戦国時代には長宗我部元親が再築城し岡豊城から居城を移した。しかし水はけが悪く治水に苦慮したため、数年で桂浜近くの浦戸城に居城を移し廃城となった。 一説には浦戸城に移ったのは朝鮮出兵対応のためで、平行して大高坂山城も使用していた可能性もある。
●山内一豊による築城
関ヶ原の戦いで西軍となった長宗我部氏は改易となった。慶長6年(1601)、遠江掛川城から山内一豊が土佐一国の領主となり浦戸城に入った。 しかし浦戸城は城下町を築くためには土地が狭かったため、再び大高坂山が城地として選ばれ築城が開始された。同時に鏡川、江の口川などの治水工事を行い周囲の湿原を干拓した。
慶長8年(1603)に本丸と二ノ丸が完成し一豊が入城、河中山城(こうちやまじょう)と改名される。 その後幾度なる水害に襲われたため、河の字を嫌い、二代藩主忠義は高智山城が改名、後に省略され高知城と呼ばれるようになった。
慶長16年(1611)、三ノ丸が竣工し高知城の縄張りが完成した。
●享保の大火
亨保12年(1727)、高知城下は大火にみまわれ、追手門以外の建物の殆どが焼失した。寛延2年(1749)に天守を含めた建物が再建され、宝暦3年(1753)に城全体の再建が完了した。
●明治時代以降
明治6年(1873)、廃城令に伴い高知公園となる。このとき現存建物以外の建物が破却される。
太平洋戦争でも被害を受けるが、幸いにも建物が失われることはなかった。 昭和25年(1950)には天守を含めた15棟が重要文化財に指定された。

---------構造・特徴--------
高知平野のほぼ中心、標高約44メートルの大高坂山に築かれた平山城である。縄張りは地形を活かした梯郭式の縄張りとなっている。 本丸、二ノ丸は山上に設けられ、三の丸はこれらを取り囲んでいる。 鏡川、江の口川を南北の外堀とし、多数の水路を堀として活用していた。 御殿を含めた本丸の建物群がすべて現存する唯一の城で、いずれも重要文化財に指定されている。
遺構 普請:石垣、堀
作事:本丸御殿、追手門、黒鉄門、詰門、廊下門、多門櫓
天守:現存
登城日2014/5/1
過去の登城記1回目(2009/5/5)
感想など 高知駅からのアクセスは路面電車(土佐電気鉄道)を使う方法もありますが、途中のはりまや橋で乗り換えが必要なため少々手間がかかります。 ここは多少距離はありますが、高知の中心街である帯屋町や高知の台所であるひろめ市場などに寄り道しつつ登城するのがオススメです。

高知城は主要部は総石垣で固め、最高所に本丸を設けた典型的な近世平山城です。 土佐藩は石高二十四万石の国持大名であり、高知城もそれに相応しい堂々とした造りとなっています。
石垣不毛地帯の関東人の私からすると、やはり城を囲む高石垣に圧倒されます。 高知城に限った話ではありませんが、西日本の城は小さな城でも目をみはるような石垣を持つ城が多く、ちょっとした劣等感を感じてしまいます。 また本丸の建物がすべて現存しているのも大きな特徴で、特に本丸御殿が残っているのは川越城、松前城などの数例しかなく、本丸御殿が完全に残る高知城は大変貴重です。 高知城本丸は国宝に指定しても良いのではないかと思います。
登城記
1. 追手門
追手門と天守 撮影場所1
追手門と天守
追手門正面
追手門正面
追手門石垣
追手門石垣
追手門潜戸
追手門潜戸
追手門扉
追手門扉
追手門裏面
追手門裏面
追手門側面
追手門側面
追手門梁
追手門梁
追手門は高知城主要部の大手にあたり東に向かって開かれています。内枡形を形成していますが、高麗門などの一ノ門はありません。 享保の大火(1727)で消失しなかった数少ない建物のひとつですが、実は享和1年(1801)に以前の姿のまま建て替えられています。
石垣の上に渡された渡櫓門の規模は幅約20メートル、奥行き約7メートルです。 下見板張りの重厚な外観で大手門に相応しい堂々たる造りで、格式を高めるため扉や柱には各種の飾り金具が打ち付けられていました。 一ノ門がないこと、下見板張りであること、続櫓がないことからどことなく織豊期の古式な趣を感じます。
枡形の石垣は高知城でも珍しく巨石を用いた"見せる"石垣となっています。
2. 追手門から杉ノ段まで
追手筋から見た天守
追手筋から見た天守
石樋 撮影場所2
石樋
追手門を抜け、左手に続く大手筋の階段のあたり一帯が杉ノ段です。階段は上りにくく下りやすいように工夫されています。
途中の石垣には大きな石樋が設けられています。高知城の石樋は石垣に水が直接落ちないようになっており、水受けの敷石を設け地面を保護しています。 高知城には多くの石樋がありますが、下の曲輪にいくほど水量が増えるため石樋も大きくなっています。
雨の多い地方のため排水に力を入れていたことが伺えます。
3. 杉ノ段周辺
杉ノ段から見た天守 撮影場所3
杉ノ段から見た天守
三ノ丸横矢掛り
三ノ丸横矢掛り
石樋
石樋
三ノ丸東側石垣
三ノ丸東側石垣
杉ノ段井戸 撮影場所4
杉ノ段井戸
鉄門跡から見た天守
鉄門跡から見た天守
鉄門跡 撮影場所5
鉄門跡
鉄門跡石垣
鉄門跡石垣
杉ノ段は高知城の丘陵部を囲む曲輪で、かつては杉の巨木がたくさんあったためこの名で呼ばれています。今でも北西には多くの杉が生えています。 城内の林にはたぬき・うさぎ・いのしし・あなぐまなどの動物がいたと記録されています。
曲輪内には長崎から求めてきた舶来品を入れる長崎蔵などがありました。 二ノ丸へ登る道の南側に残る井戸は深さ約18メートルで、城内の井戸のうち最も水質が良かったため、毎日三回井戸水を汲み、藩主の住む二ノ丸御殿に運んでいたといわれています。
鉄門は三ノ丸の大手門にあたり、左右の石垣上に渡櫓門が設けれていました。二ノ丸、本丸へ入るための重要な門で、扉には多くの鉄板が打ち付けられていました。 鉄門を潜り階段を上がると、塀のために二ノ丸へ続く通路が見えず、むしろ詰門への石段が続いて見えるため自然と詰門の方向へ導かれる巧妙な造りとなっていました。
4. 詰門
詰門 撮影場所6
詰門
詰門扉
詰門扉
詰門扉前から見た天守
詰門扉前から見た天守
詰門内部
詰門内部
詰門は本丸と二ノ丸の間の空堀を遮るように建てられており、古くは橋廊下と呼ばれていました。 橋廊下の名前が示す通り、下部は空堀を遮る門、上部は本丸と二ノ丸をつなぐ廊下の役割を果たす珍しい構造の建物となっています。
前記したように鉄門を抜けると正面にこの詰門が堂々と建っており、本丸への大手筋であるかのような錯覚を受けます。 門の役割を果たす一階出入口は筋違いになっており、門の突破を難しくしており、突破しても本丸からは遠ざかるようになっています。 二階は二ノ丸から本丸への通路となっており、西側は畳敷きの三室で、家老・中老・平侍の詰所となっていました。これが詰門の由来となっています。
5. 水路遺構と長宗我部期石垣
水路遺構 撮影場所7
水路遺構
長宗我部期石垣 撮影場所8
長宗我部期石垣
三ノ丸の東側では発掘調査で確認された水路遺構と長宗我部期石垣を見ることが出来ます。
長宗我部期の石垣は、長宗我部元親が岡豊城からの本拠地移転のため築城を行った「大高坂山城」のものと考えられています。 豊臣家から拝領したものと推定される桐紋瓦も出土しており、石垣と瓦葺き建物という近世城郭の要素を備えていたことが伺えます。 ただし、石垣は岡豊城と同様に小ぶりの自然石を積み上げたもので、技術的にはまだ未熟なものだったようです。
6. 二ノ丸
二ノ丸から見た本丸その一 撮影場所9
二ノ丸から見た本丸その一
二ノ丸から見た本丸その二
二ノ丸から見た本丸その二
二ノ丸は本丸の北、三ノ丸の西に位置する曲輪で、標高約40メートルに位置しています。
藩主の日常生活と政務はここで行われ、かつては二ノ丸御殿が建てられ、その面積は1233平方メートルもありました。 二ノ丸はスキヤ櫓や家具櫓など多くの櫓が外周を固め、中でも北西隅にあった二ノ丸乾櫓は城内唯一の三重櫓で、さながら小天守のようでした。
現在は建物が一切残っていないため、非常に広々とした空間となっています。
7. 本丸・天守
天守と本丸御殿 撮影場所10
天守と本丸御殿
天守鯱
天守鯱
天守
天守
天守千鳥破風と唐破風
天守千鳥破風と唐破風
本丸御殿玄関と天守
本丸御殿玄関と天守
黒鉄門裏面 撮影場所11
黒鉄門裏面
黒鉄門と天守
黒鉄門と天守
黒鉄門正面
黒鉄門正面
本丸は標高約44メートルに位置しており、元の地形を活かしたのか、変形した多角形となっています。 総面積は1580平方メートルと決して広くはない曲輪ですが、天守・本丸御殿・東多門・廊下門・西多聞・黒鉄門が所狭しと立ち並ぶ姿は壮観です。 本丸のすべての建造物が完全な形で残されているのは現存12天守のある城でも高知城のみで、大変貴重な遺構となっています。 これらの建物は寛延2年(1749)ころの再建ですが、創建当時の規模をそのまま残しています。
天守の高さは18.5メートルで、天守台は設けず北面の石垣から直接立ち上がっています。四重六階の望楼型天守で、 寛延2年(1749)の再建でありながら非常に古い様式です。藩祖山内一豊が築いた天守を忠実に復元したためと考えられています。 天守再建に対する幕府の方針は、規模が同じであれば外観は変えても良いとしていたようですが、 あえて土佐藩が天守を外観まで忠実に再建した背景には、藩祖一豊への強い追慕があったのかもしれません。 最上階の高欄は一豊の強い意向で、徳川家康に許可を受けて造られたものと言われています。
8. 本丸御殿
玄関の装飾
玄関の装飾
廊下
廊下
襖の引き手
襖の引き手
三ノ間・二ノ間
三ノ間・二ノ間
南側の庭
南側の庭
上段ノ間・ニノ間
上段ノ間・ニノ間
欄間
欄間
上段ノ間帳台構
上段ノ間帳台構
本丸御殿は懐徳館とも呼ばれる小型の御殿です。 大きく分けて式台(玄関)部分、書院部分、納戸蔵部分で構成されており、天守の西面・南面を囲むように建てられています。 東側は曲輪外周の土塀との間の空間を活かした庭が設けられ、上段ノ間・ニノ間から眺めることができます。
内装は絢爛豪華ではなく質素なものですが、土佐の黒潮の波をかたどった欄間など独特の装飾が施され、どことなくモダンな印象を受けます。 基本的には入側を持つ書院造となっていますが、納戸蔵は畳敷きでありながら、本丸の多門櫓の役割も果たすため、外観は白漆喰の城郭建築となっています。
9. 天守内部
入口
入口
一階
一階
二階
二階
高知城模型
高知城模型
三階
三階
五階
五階
六階
六階
天守入口は外側が漆喰塗りの開き戸、内側は木製の引き戸で、土蔵の入口のようになっています。 天守は本丸御殿と接続しており外に出ることなく天守に入ることが出来ます。
高知城天守は18.5メートルの高さでありながら、六階建てとなっており階高の低さが目立ち、 特に一階と二階は背の高い人だと梁に頭をぶつけるほどで、かなりの圧迫感を感じます。
石垣に面した一階北面には二ヶ所の石落とし、六ヶ所の狭間を設け詰門前の敵に横矢を掛けることができます。
三階は二重目の大入母屋内部の屋根裏階となっており、大入母屋破風に設けられた大きな窓からの採光で明るい空間となっています。
五階は廻縁の真下に位置しており、一切の窓が無いため外からはその存在がわかりません。隠し階といったところでしょうか。
最上階の六階は格天井と廻縁、高欄を設け、四方に廻縁への出口を設けた開放的な造りとなっています。
10. 天守最上階
東方面
東方面
北方面
北方面
西方面
西方面
南方面
南方面
本丸
本丸
追手門方面
追手門方面
大入母屋鯱
大入母屋の鯱
廻縁と高欄
廻縁と高欄
天守最上階の廻縁は実際に出ることでき、高知の街並みを一望することができます。
東は高知駅、岡豊城方面となります。 南方面が海側となりますが、高知市街の周りは山に囲まれているため海を望むことはできません。 本丸を取り囲む多くの建物の様子もよくわかります。
やはり天守からの眺望も城めぐりの醍醐味のひとつです。
11. 獅子ノ段・二ノ丸乾櫓跡・水手門跡
獅子ノ段から見た本丸 撮影場所12
獅子ノ段から見た本丸
獅子ノ段から見た詰門
獅子ノ段から見た詰門
二ノ丸乾櫓跡 撮影場所13
二ノ丸乾櫓跡
水手門跡石垣 撮影場所14
水手門跡石垣
本丸の西、追手門方面からみて詰門の向こう側は獅子ノ段です。現在は多くの梅が植えられており「梅ノ段」とも呼ばれます。 詰門を突破した攻め手はここに誘導され、自分たちが本丸へ向かっていないことに初めて気づくことになります。
この獅子ノ段から三ノ丸北側のあたりは、いわば高知城の裏側で観光客もあまり足を運ばないようです。 中でも二ノ丸乾櫓跡石垣と水手門跡の石垣は高さもかなりのもので、苔むした感じも良く、人気観光地の高知城内でありながら、古城の趣を感じることが出来る場所となっています。
12. 御馬場跡と内堀
御馬場跡 撮影場所15
御馬場跡
内堀
内堀
追手門南側の一帯の平地は築城当初は侍屋敷となっていますが、江戸時代中期の絵図には御馬場と記されています。
丘陵部の南側から西側にかけて広がる御馬場をはじめとする平地は内堀に面しています。 内堀の幅は15メートルほどですが、近代になって狭くなったわけではなく、もとからこの幅だったようです。 かつては丘陵部の西、南、東を内堀が囲み、北側は江の口川を天然の堀としていました。 現在は写真の南側と東側の一部を残すのみとなっています。


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