KemaAkeの全国城めぐり
松山城
まつやまじょう
別名勝山城、金亀城 本丸南部から見た本丸本檀
形態平山城
築城年慶長7年(1602年)
築城者加藤嘉明
主な城主加藤氏、蒲生氏、松平氏
所在地旧国名伊予
所在地愛媛県松山市丸の内1丁目
アクセス 松山市電 南堀端
↓徒歩(約10分)
二ノ丸史跡庭園
↓徒歩(約20分)
大手門跡
アクセスのしやすさ☆☆☆☆☆
概要
-----------歴史------------
松山城の築城者は秀吉子飼いの武将で賤ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明である。 嘉明は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により伊予二十万石に加増され、慶長7年(1602)に伊予正木から道後平野の中央にある勝山に居城を移すための工事に着手した。 慶長8年(1603)に嘉明は伊予正木から築城中の城に移り、松山城と改名した。 その後も工事は続けられ寛永4年(1627)に一応の完成をみた。 工事が完成する直前の寛永4年(1627)2月に嘉明は会津へ転封となり、変わって蒲生氏郷の孫、忠知が入国する。忠知は寛永11年(1634)に病没し、嫡子がないため蒲生氏は断絶となる。 寛永12年(1635)に松平定行が15万石で伊予に封じられ以後松平氏が明治維新まで城を治めた。

---------構造・特徴--------
現存十二天守のひとつで姫路城と並ぶ数少ない連立式天守を持つ城である。多くの建物が現存しており、失われた建物も多くが木造復元され本丸周辺はかつての姿をほぼ取り戻している。
遺構 普請:石垣、水堀、曲輪
作事:天守、乾櫓、野原櫓、紫竹門、隠門、その他多数
天守:現存
城内案内図など 城内案内図(1800x1400)
本丸本檀配置図(1000x1000)
登城日2014/4/30
過去の登城記1回目(2009/5/7)
感想など 山上の本丸だけが目的なら松山市電の大街道で下車、ロープウェイを使用するルートが一般的なようです。 しかし城ファンの私は南堀端から三の丸、二ノ丸庭園、かつての大手筋に当たる黒門口登城道を経て本丸へ至るルートを選びました。
JR松山駅から登城する場合は松山市電に乗り換えますが、5〜10分に一本の割合で運行されており、乗り合わせを考慮する必要はありません。 いくつかの系統がありますがどれに乗っても南堀端は必ず通ります。

松山城の見どころはなんといっても現存天守をはじめとした多くの建物でしょう。重要文化財に指定されている建物だけで21棟を数えます。 これに加えて昭和33年(1958)から本丸周辺の建物の木造復元が行われており、現存建物と復元建物が違和感なく組み合わさり、建物が林立する見事な景色を作り出しています。 昭和の中頃と言えば全国各地にコンクリート製の復興建物が数多く建てられた次期ですが、木製復元にこだわった松山城の先見性はなかなかのものではないでしょうか。 松山城ではこの先見性により多くの人に「本物の城」として受け入れられているようです。(当時の潮流としてコンクリート製の復興建築は仕方のないことであり、選択肢としても十分に"アリ"だったと思います)
建物の他には曲輪を固める高石垣も見どころで、特に本丸石垣は屈曲が多く熊本城や姫路城に似た織豊系城郭の雰囲気を感じます。 その他、国内では珍しい登石垣、二ノ丸史跡庭園の大井戸など見どころは多いです。

このようにみどころ盛りだくさんの松山城は、隅から隅までくまなく見学しようと思うと丸一日はかかるでしょう。 この日は滞在時間6時間ほどでしたがそれでも回りきれていない部分があります。城ファンでなくとも必見の城です。
登城記 各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 三ノ丸
撮影場所1 北御門跡
北御門跡から見た堀
撮影場所2 三ノ丸から見た二ノ丸
三ノ丸から見た本丸本壇
三ノ丸は本丸に次いで慶長10年(1605)頃に加藤嘉明によって完成されました。 二ノ丸の南、西を梯郭式に囲む広大な曲輪で、土塁と堀に囲まれています。出入口として北御門(大手)と東御門(搦手)が設けられました。 最初は重臣や中堅家臣の屋敷地として使用され、貞享4年(1687)に二ノ丸から御殿が移されると藩政上重要な施設も築かれました。 明治3年(1870)に三ノ丸御殿が焼失するとほどなく三ノ丸は兵部省の管轄になり、昭和20年(1945)まで兵営がありました。 現在大通りに面して観光客が多く出入りする南入口と西入口は明治初期に造られたもので、二ノ丸との間にあった堀は太平洋戦争後に失われるなどしていますが、 おおむね往時の曲輪割を残しています。現在は江戸時代の地割となる道路や側溝などの遺構が表示されています。
2. 黒門口登城道入り口付近(黒門跡・栂門跡・欅門跡)
撮影場所3 黒門跡
栂門跡
撮影場所3 欅門跡かた見た西大砲台石垣
欅門跡と西大砲台石垣
黒門登城口は三ノ丸から二ノ丸、本丸へと続く大手登城道です。 入り口となる黒門周辺は100メートルほどの間に黒門、栂(つが)門、欅(けやき)門の三つの門と多くの屈曲が連続し、特に堅固な造りとなっていました。 黒門は高麗門、栂門は渡櫓門、欅門も渡櫓門だったようです。特に欅門は本丸と二ノ丸への分岐点に位置する城内最大の櫓門でした。 その造りも特徴的で、上部は二重の櫓となっており、門の開口部から南側は二階に、北側は三階の高さに平櫓が続いていました。 門の北は西大砲台の高石垣と接続し、南は渡塀が続き内堀に面していました。なお西大砲台の高石垣は高さが21メートルあり城内で最も高い石垣です。
3. 二ノ丸
撮影場所5 多門櫓
二ノ丸から見たた本丸
二ノ丸復元模型
二ノ丸御殿跡
撮影場所6 大井戸その一
大井戸その二
内側から見た二ノ丸入り口
撮影場所7 黒門口登城道から見た四足門
二ノ丸は勝山の麓、本丸の南西、三ノ丸の北東に位置し藩主の普段の生活の場となっていました。 南と西は内堀、背後に本丸を背負うような形で、登石垣で山上の本丸と一体化されています。 二ノ丸にはかつて蒲生忠知によって築かれた二の丸御殿がありましたが、明治5年(1872)の火災により焼失しました。
昭和59年(1984)から発掘調査が行われ江戸時代の貴重な遺構群が見つかっています。現在これらの遺構は記録の上、埋め戻されています。 現在は二ノ丸史跡庭園として整備され、かつての御殿の間取りが各地のカンキツ類や草花、一部では「流水園」として噴水や砂利で表現されています。 多門櫓や塀なども復元されています。
二ノ丸からは「大井戸」と呼ばれる巨大な井戸が見つかっています。階段で井戸底に降りることができ、井戸というよりは貯水池といった感じです。 井戸底からは木組みが発見されており、どうやら御殿の一部が覆いかぶさっていたようです。木組みは現在でも水底に見ることが出来ます。 井戸付近には床下通路が設けられていたようで、これらのことから防火用貯水池として使用されていたのではないかと考えられています。 このような遺構は全国に類例がありません。
4. 黒門口登城道
黒門口登城道その一
黒門口登城道の石垣
撮影場所8 黒門口登城道の石畳
黒門口登城道から見た太鼓櫓
黒門口登城道はその名の通り黒門から二ノ丸、本丸へと続く通路で、慶長年間(1600年頃)に建造された松山城の大手道になります。 明治17年(1884)に三ノ丸が兵営となると閉鎖されましたが、昭和44年(1969)に改修され、登城道として再び使用されるようになりました。 途中にある中門(塩見門)跡には当時の石畳が残されています。 三ノ丸から本丸への登城道として現在は県庁裏登城道を使用するのが一般的なようで、この黒門口登城道は人通りが少ないですが、拡幅などの整備が行われていないため、当時の雰囲気がよく残っています。
5. 大手門跡・中ノ門跡・戸無門
撮影場所9 大手門跡
撮影場所10 中ノ門跡越しに見た天守と太鼓櫓
雁木
撮影場所11 戸無門
黒門口登城道を登り切ると勝山山頂の曲輪郡に至ります。ここから天守まではいくつもの門と攻め手を欺くための仕掛けが続きます。
まず最初の門は大手門ですが現存していません。特に案内板等もなかったため門の構造等不明ですが、手元の資料を見ると建物がなかった可能性があるようです。
次に攻め手の前に現れるのは太鼓櫓の下、通路正面に位置する中ノ門です。高麗門あるいは棟門だったようですが、こちらも現存していません。 中ノ門の正面、直線上に天守が見えるため一見するとこの中ノ門を抜けると天守に到達できるように見えますが、本丸西の石垣下を進んで搦手方面へ抜ける偽ルートとなっています。
本丸への正しいルートは中ノ門からUターンした戸無門になります。この戸無門はその名前の通り扉がない高麗門です。 扉を吊るための肘壺の痕跡もないため創建当初から扉が無かったようで、おそらくは敵をこの先の腰曲輪に誘い込むための仕掛けと考えられています。
6. 筒井門・隠門
撮影場所12 筒井門外側
筒井門と筒井門東続櫓
筒井門前から見た隠門方面
撮影場所13 隠門外側
内側から見た隠門と筒井門
隠門内側
筒井門と隠門(かくれもん)は本丸南曲輪を固める城内で最も堅固な建造物の一つです。
筒井門は脇戸付の渡櫓門で、築城に際し加藤嘉明が前の居城である正木城から移築したと伝わる、城内最古の建物の一つでした。 明治時代になると石落や窓などが改変されましたが昭和10年(1935)に国宝に指定されました。戦災は逃れましたが昭和24年(1949)に放火により焼失、 昭和46年(1971)に木造で復元されました。
隠門は正門である筒井門の奥に隠された渡櫓門です。 その名の通り筒井門を攻撃する攻め手の目に入らないよう石垣の裏に設けられた門で、筒井門を攻撃する攻め手の側面を付くための仕掛けでした。 加藤嘉明による築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重な建物です。昭和10年(1935)に国宝に指定されましたが、 昭和25年(1950)の法改正により重要文化財となりました。
筒井門と隠門の間には視界を遮り筒井門前の攻め手に横矢を掛けるための筒井門東続櫓が出っ張っています。 昭和12年(1937)の修理工事の結果、筒井門と隠門が先に建てらられ、その間を埋めるように筒井門東続櫓が建てられた可能性が指摘されています。
筒井門は復元であるにもかかわらず一見すると現存建物のように見え違和感なく隠門と一体となっています。 松山城の見どころである復元建物と現存建物の融合を見ることが出来ます。
7. 太鼓門・巽櫓
撮影場所14 太鼓門外側
太鼓門前から見た巽櫓
太鼓門内側
撮影場所15 巽櫓
太鼓門は本丸の大手門と位置づけられた脇戸付の渡櫓門で、巽櫓や太鼓櫓とともに防衛線を構築しています。 筒井門や隠門が第一防衛線、こちらが第二防衛線となります。加藤嘉明による築城時に建てられたと考えられ、昭和10年(1935)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失しました。 昭和47年(1972)に木造復元されました。
巽櫓は本丸の南東隅に位置する二重櫓で太鼓門の側面に位置し守りを固めています。 一重目と二重目がほぼ同じ大きさで一見すると重箱櫓のようにも見えますが、一重目に千鳥破風が設けられています。 巽櫓も太鼓門と同様に加藤嘉明による築城時に建てられたと考えられ、昭和10年(1935)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失しました。 昭和61年(1986)に木造復元されました。
8. 本丸南部(太鼓櫓・馬具櫓・井戸)
撮影場所16 太鼓櫓
撮影場所17 井戸
撮影場所18 馬具櫓
本丸南部から見た本丸本檀
太鼓櫓は本丸の南西隅に位置する二重櫓です。 攻め手を搦手方面へ誘導するための中ノ門の真上、攻め手正面の高石垣上に位置しており城内でも随一の存在感を持った櫓です。 加藤嘉明による築城時に建てられたと考えられ、昭和10年(1935)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)に戦災で焼失、昭和46年(1971)に木造復元されました。
巽櫓の近くにある井戸は深さが50メートルほどあり本丸に残された唯一の井戸となっています。 井戸の上屋は昭和20年(1945)に戦災で焼失しましたが、昭和27年(1952)に再建されました。記念すべき松山城最初の復元建物です。 この井戸の深さの秘密は築城前のこのあたりの地形にあります。 もともと本丸は南北がそれぞれ独立した峰となっていたようで、この井戸のあるあたりはその峰の間の谷間でした。 浅い井戸を掘り石を積み上げながら谷を埋めるという山の形を変えるほどの大工事の結果、このような深い井戸が現在に残されることになりました。
馬具櫓は松山城唯一のコンクリート造りの再建建物で、一目見ただけで他の櫓とは違うことがわかります。現在は本丸の防災を含む管理事務所となっています。
9. 本丸本壇その一(本壇入口・一ノ門・二ノ門)
本檀入口から見た小天守
本檀入口から見た天守
撮影場所19 一ノ門外側
一ノ門内側と小天守
瓦製の側溝
撮影場所20 二ノ門外側
二ノ門潜戸
ニノ門内側
本丸本壇は本丸の北側に位置し天守・小天守など城の中枢となる建物が配置されています。 本丸と名前は付いていますが実質的には独立した曲輪です。 本丸より約8メートル高く、出入口は南面の一箇所のみとなっています。 本丸本壇入口から天守広場までは二つのルートがありますが、いずれのルートを通っても四つの門を抜ける必要があり、常に天守や櫓からの射撃を受ける造りとなっています。 本檀の配置については文章での説明は難しいので本丸本檀配置図を御覧ください。
本丸本壇入口の坂道を登ると小天守・天守から見下ろされる形で一ノ門があります。 一ノ門は脇戸付の高麗門です。天明4年(1784)の落雷により焼失し、天明6年(1786)に再建されました。重要文化財となっています。
一ノ門を抜けると左側に瓦製の側溝を見ることが出来ます。姫路城などにも見られるものです。
次に現れるのは二ノ門で、一ノ門からの距離は10メートルもありません。ニノ門は薬医門で、攻め手は天守やニノ門南櫓から射撃されます。 天明4年(1784)の落雷により焼失し、安政元年(1854)に再建されました。重要文化財となっています。
10. 本丸本壇その二(三ノ門・三ノ門南櫓・筋鉄門・天守広場)
撮影場所21 三ノ門外側
撮影場所22 筋鉄門外側と小天守
三ノ門南櫓内部
天守広場から見た筋鉄門内側・小天守
天守広場から見た南隅櫓
天守広場から見た北隅櫓・玄関・内門
玄関
撮影場所23 天守広場から見た天守
二ノ門を抜けると左側に天守、振り返ると三の門があります。 三ノ門は高麗門で、天守から射撃される構えになります。天明4年(1784)の落雷により焼失し、安政元年(1854)に再建されました。重要文化財となっています。
三ノ門を抜けると正面に三ノ門南櫓があります。一ノ門、二ノ門、三ノ門のほぼ中央に位置しておりこれらの門を監視する平櫓です。 天明4年(1784)の落雷により焼失し、安政元年(1854)に再建されました。重要文化財となっています。 この日は内部が公開されており太鼓が叩けたようで、どこからともなくおなじみの「上様の御成〜」の音色が聞こえてきました。太鼓の達人がこの太鼓を叩いていたようです。
三ノ門の次は筋鉄(すじがね)門で、脇戸付の渡櫓門で柱に鉄板が貼ってあることからこの名があります。櫓部分は天守と小天守をつなぐ通路となっています。 天明4年(1784)の落雷により焼失し、安政元年(1854)に再建されましたが、昭和8年(1933)に放火により再度焼失、昭和43年(1968)に復元されました。
筋鉄門を抜けると天守、小天守、北隅櫓、南隅櫓、そららを接続する渡櫓に囲まれた天守広場となります。 広場と言えば聞こえは良いですが、攻め手にとっては四方から射撃される死地に他なりません。 このような広場は姫路城にもありますが、姫路城のこの空間は狭く、広場を通らずに建物内に入れるため防御力という点では松山城に軍配が上がるでしょう。
11. 天守・小天守・南隅櫓・北隅櫓
玄関内部
北隅櫓二階内部
北隅櫓二階から見た本丸北西部
北隅櫓二階から見た天守
小天守二階内部
小天守小屋組
小天守二階から見た本丸南部
小天守二階から見た二ノ丸・三ノ丸
小天守二階から見た一ノ門
小天守二階から見た天守
天守二階内部
天守三階内部
天守は層塔型の三重三階地下一階で高さは建物のみで約16メートル、石垣を含めると約20メートルあります。 天守台石垣は切込ハギで、この石垣に囲まれた空間が地下階となっています。 加藤嘉明による築城時の天守は五重で、他の櫓も含めて白い塗込め壁であったと言われています。 三重天守にしては床面積が広く全体的に低重心な印象を受ける天守ですが、もともと五重であったということならば納得できます。 寛永19年(1642)に松平定行が三重に改築しましたが、なぜわざわざ三重に改築したかはよくわかっていません。 幕府に配慮したとも言われていますが、実際には本壇の地盤の弱さを懸念したためのようです。 このとき他の櫓も含め、壁を下見板張に改築した可能性があり、その理由が「白壁の漆喰が剥げ落ちて見苦しいから」だったとか。 松平定行が建てた天守は天明4年(1784)に落雷で焼失し、安政元年(1854)に旧態通りに再建され、日本最後の天守建築となりました。
外見の特徴としてはまず直線の屋根勾配が目につきます。一切の勾配を持たずかなり緩い角度で屋根が架けられているため、ずっしりとした印象を受けます。 内部は各階に床の間を設け、畳が敷けるようになっています。 江戸時代に建てられた天守は一般的に居住性は考慮されないのですが、天守が再建された安政年間には本丸御殿がなかったため、御殿としての役割を持たせたとも考えられています。
小天守、南隅櫓、北隅櫓はすべて層塔型の二重櫓で、天守と同様に天明4年(1784)に落雷により焼失、安政元年(1854)に旧態通りに再建されました。 しかし昭和8年(1933)に放火により焼失、昭和43年(1968)に復元されました。
こうしてみると昭和8年の放火による本丸本檀の損失は甚大で、西側の建物がほとんど焼失しています。天守が焼失を免れたのは不幸中の幸いでした。 ちなみに放火犯は他にも多数の放火を行っており死刑になったそうです。
12. 天守三階からの眺望
松山城本丸は標高132メートルに位置しており、現存十二天守の平山城の中では最も高い場所に位置します。 麓の三ノ丸からの比高は約100メートルあり、周囲を遮るものはなにもなく道後平野を一望することができます。
東側の眺望
東側は道後温泉方面です。道後温泉の近くには湯築城跡(写真中央の小高い丘)があります。

南側の眺望
南側は松山市駅方面です。松山で最も賑やかなあたりになります。

西側の眺街
西側はJR松山駅方面です。市街地の向こうには瀬戸内海を望むことが出来ます。中央の小高い山は松山総合公園で、そこから見る松山城の遠景がなかなか良いとのことです。

北側の眺望
北側は落ち着いた住宅街となっています。眼下の松山大学が目立ちます。
13. 本丸本壇その三(内門・仕切門・天神櫓)
撮影場所24 内門外側
内門前から見た天守
撮影場所25 仕切門外側
撮影場所26 天神櫓
内門は天守の西側に位置する渡櫓門です。櫓部分は天守と玄関多聞櫓をつなぐ通路となっています。 天明4年(1784)の落雷により焼失し、安政元年(1854)に再建されましたが、昭和8年(1933)に放火により再度焼失、昭和43年(1968)に復元されました。
仕切門は脇戸付の高麗門で天守の北側に位置し、内門との間に枡形を形成しています。 天明4年(1784)の落雷により焼失し、安政元年(1854)に再建されましたが、昭和8年(1933)に放火により再度焼失、昭和43年(1968)に復元されました。
三ノ門・筋鉄門のルートを本丸本壇の表ルートとするならば、ニノ門から直接目視できない仕切門・内門ルートは裏ルートといったところでしょうか。
天神櫓は本丸本壇北東隅に位置する平櫓で他の隅櫓とは趣が異なります。この櫓には松平家の祖先である菅原道真が祀られているためこの名前があります。 昭和20年(1945)に戦災により消失しましたが、昭和54年(1979)に復元されました。
14. 紫竹門とその周辺
撮影場所27 紫竹門外側
紫竹門内側
南隅櫓と小天
撮影場所28 北隅櫓と南隅櫓
紫竹門は本丸の大手と搦手を仕切る脇戸付の高麗門で、本丸本檀の南側に位置し、搦手側を外側としています。 門の正面、小天守の下に紫竹が植えられていたことからこの名前が付いています。 天明4年(1784)の落雷により焼失し、嘉永年間(1848〜1854)に再建されたと考えられています。 重要文化財となっています。かつては本丸本檀の北側にも同様の役割を持った中仕切門がありましたが現存していません。 本丸はこられの門により大きく二つに分けられていました。
このあたりからは本壇西側の櫓を高石垣上に仰ぎ見ることが出来ます。
15. 本丸北西部(野原櫓・乾門・乾櫓)
撮影場所29 野原櫓その一
野原櫓その二
乾櫓
乾櫓と乾門
乾門外側
撮影場所30 乾門・乾門東続櫓
乾門内側
内側から見た乾門と乾櫓
本丸本檀の西、本丸の北西部は搦手となり、本丸南部の大手と同様に数多くの櫓で守りを固めています。
野原櫓は望楼型の二重櫓で本丸の北側の防衛を担う櫓です。太鼓壁や天井が貼られないなど簡素で機能的な手法が見られます。 一重目と直行して二重目の屋根が架けられる姿は古式で簡素な造りです。望楼型の櫓としては全国唯一の現存事例です。 加藤嘉明による築城時に建てられたと伝えられ、城内最古の建物の一つと考えられています。重要文化財となっています。
乾門は本丸の搦手門で、脇戸付の渡櫓門です。大手の筒井門と同様に加藤嘉明による築城時に正木城から移築されたと伝えられ、その造りは筒井門とよく似ています。 城内最古の建物の一つでしたが、昭和20年(1945)に戦災により焼失し、昭和57年(1982)に復元されました。
乾櫓は本丸の北西に配置された二重櫓で、搦手東側の守りを固めています。長方形の平面を持ち、野原櫓と同様に内部も簡素で機能的な手法が見られます。 乾門と同様に正木城から移築されたと伝えられていますが、確実な資料はありません。伝承が本当ならば城内最古の建物の一つとなります。 戦災を免れ現存しており、重要文化財となっています。
このあたりは観光客も少なく静かで、乾門とともに仰ぎ見る天守本檀の櫓郡は松山城でも必見の景色です。
16. 本丸北東部(艮門)
撮影場所31 艮門内側
艮門東続櫓と天守
艮門から天守を見上げる
撮影場所32 本丸本檀東側石垣
本丸本檀の東、本丸の北東部にある艮櫓は脇戸付の渡櫓門です。 この門付近に山麓に続く通路はないため、大手や搦手に迫った攻め手を背後から急襲するための一種の隠門であったと考えられています。 艮門の横には二重の艮門東続櫓があります。創建時期は不明ですが、明治時代に取り壊され昭和59年(1984)に復元されました。
艮門近くの本丸本檀石垣では石垣の積み直しの痕跡を見ることが出来ます。本壇の石垣は北側は打込ハギ、南側は切込ハギとなっており、南側が新しい技法で積まれています。 これは嘉永年間(1848〜1854)に天守などが再建された際に、新しく積み直されたためです。
余談ですが、艮門の内側の階段は2009年から2011にかけて放送されたNHKドラマ「坂の上の雲」オープニングで主人公の三人が写真を撮っていた場所です。
17. 南登石垣
撮影場所33 南登石垣その一
南登石垣その二
南登石垣その三
撮影場所34 南登石垣その四
登石垣は豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、日本軍が朝鮮半島に築いた倭城に用いられました。山腹を登るよう築かれた石垣で、山腹での攻め手の横移動を阻止します。 登石垣は洲本城、彦根城などにも見られますが、松山城のものは全国最大の規模を誇ります。もっともこのような山腹を登る防塁は古代日本でも使用されており、秀吉が初というわけではありません。
松山城では南登石垣と北登石垣の二つの登石垣が本丸の両端と二ノ丸の両端をそれぞれ結び、この間の広大な山腹への攻め手の侵入を防いでいました。 かつては要所に二重櫓がありましたが明治時代に取り壊されています。南登石垣はほぼ完全に残っておりその総延長は230メートル以上に及びます。
南登石垣はおおよそが県庁裏登城道に沿って残されており、ところどころで木々の間に石垣を見ることが出来ます。


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