KemaAkeの全国城めぐり
宇和島城
うわじまじょう
別名鶴島城 天守正面
形態平山城
築城年天慶4年(941)、慶長元年(1596)
築城者橘遠保、藤堂高虎
主な城主西園寺氏、藤堂高虎、伊達氏
所在地旧国名伊予
所在地愛媛県宇和島市丸之内1丁目
アクセス JR宇和島駅
↓徒歩(約15分)
長屋門(登り口)
アクセスのしやすさ☆☆☆☆☆
概要
-----------歴史------------
●宇和島城のルーツ
天慶4年(941) 警固使・橘遠保が藤原純友の乱の際にこの地に砦を構えたとされる。 その後西園寺氏が長く城主を務める。この頃は丸串城と呼ばれていた。
●藤堂高虎による近世城郭化
天正13年(1585)の豊臣秀吉による四国征伐の後、文禄4年(1595)に藤堂高虎が城主となる。 慶長元年(1596)から高虎は城の大改修に着手し、慶長6年(1601)に工事が完了。 望楼型天守が築かれ、近世城郭として宇和島城と命名される。後、高虎は伊勢に転封となる。
●伊達氏による改修
慶長19年(1614)に伊達政宗の長男、伊達秀宗が10万石で入城。寛文2年(1662)には伊達宗利によって現存する二代目天守が建てられた。 以後、明治維新まで伊達氏が城主を務める。

---------構造・特徴--------
リアス式海岸である宇和海の最深部に位置する標高74メートル丘陵上に築かれた。 丘陵部は梯郭式、丘陵の麓の平地部は堀で囲まれていた。西側と北側は海に隣接した海城であった。
遺構 普請:石垣
作事:上り立ち門、山里倉庫
天守:現存
登城日2014/5/1
過去の登城記1回目(2009/5/6)
感想など 宇和島市は四国の南西端に位置しており、電車にしろ車にしろ本州から陸路で行くとかなりの時間がかかります。 電車での一般的な宇和島へのアクセスは松山駅から特急「宇和海」を使用して1時間半ほどです。 予土線経由での高知からのアクセス方法もありますが、こちらは運行本数が少なく、所要時間も長いです。 乗り継ぎにもよりますが、場合によっては4時間以上かかることもあります。 しかし予土線は日本屈指の清流、四万十川沿いを走るのんびりとしたローカル線で、景色もよく旅情たっぷりです。 四国には現存天守が四つもあり、その他にも見応えのある城が多いので、連泊しつつ電車で四国一周するのも楽しいです。
JR宇和島駅からはアーケード街を経て徒歩15分ほどで長屋門(登り口)に到着します。

宇和島城は築城の名手、藤堂高虎が初めて城主として築城を手がけた城です。 縄張りは高虎築城時のものをほぼ踏襲しているとされ、曲輪の名前(藤兵衛丸)がその名残です。 城全体は五角形でした。現在は埋め立てが進み海は遠くなっていますが、築城時は五角形のうち西側と北側の二辺が海に隣接していました。 丘陵部を囲む山麓部の縄張りは直線的で高虎らしい造りでした。残念ながら山麓部の遺構は戦災や都市開発などでほとんど残っていません。 一方、丘陵部の縄張りは多角形で折れが多く、中世の板島丸串城の縄張りを活かしているようです。こちらは遺構がよく残されています。 平山城に分類されますが、丘陵部の木々があまりにも鬱蒼としており、木々の間に顔を覗かせる石垣を見ていると山城に居るような錯覚に陥ります。
宇和島城最大のみどころは現存十二天守のひとつに数えられる三重三階の層塔型天守です。 天守台を含めても規模は大きくはありませんが、小さいながらも破風を多用した華麗な造りとなっています。 内部は御殿建築様式となっており、障子戸が残されているのも特徴です。
登城記
1. 長屋門
長屋門外側 撮影場所1
長屋門外側
長屋門内側その一
長屋門内側その一
長屋門鬼瓦
長屋門鬼瓦
長屋門内側その二
長屋門内側その二
長屋門は宇和島駅から最も近い登城口にあります。正式名は桑折(こおり)氏武家長屋門で、宇和島城の遺構ではありません。
もともとはここからほど近い宇和島藩家老桑折氏の屋敷にあったもので、昭和27年(1952)の道路拡張工事にともない撤去されるところを、桑折氏から寄贈されたものです。 建築年代は不明ですが、元禄16年(1703)遺構の屋敷替えの際に改造されたものと考えられています。 移転時に左半分を撤去し幅を半分にしたり、窓の増設や部屋の改築などを行ったためだいぶ改変されていますが、宇和島城下で唯一現存する武家長屋門として貴重な建物です。 現在桑折氏は武家屋敷の場所で病院を営んでいます。
2. 三之丸跡
三ノ丸跡石垣 撮影場所2
三ノ丸跡石垣
三之丸は宇和島城丘陵部の北東にあった曲輪で、丘陵部に接していない三面を水堀で囲んだ曲輪でした。現在の長屋門周辺一帯となります。 慶長6年(1601)から延宝4年(1676)まで、御殿が置かれ藩政の中枢となっていました。 御殿が移転した後は側室の休息所などに使われますが、文久3年(1863)に御殿は取り壊され、調練場となります。その後は市街化が進み、遺構はほとんど失われてしまいました。
写真の石垣は宇和島郵便局の裏側に残る石垣で、野面積みとなっています。城内最大級の幅1メートル前後の石材を意匠的に散りばめた「見せる」石垣となっています。 平成21年(2009)からの石垣修理により、近世から近代にかかて改修されていることがわかりましたが、藤堂高虎による築城時の面影を残した城内最古級の石垣です。
3. 井戸曲輪周辺
井戸曲輪虎口
井戸曲輪虎口
井戸曲輪石垣
井戸曲輪石垣
井戸 撮影場所3
井戸
井戸曲輪から見た虎口
井戸曲輪から見た虎口
長屋門を潜ると左手に丘陵上に続く石段があります。三之丸から本丸へと続くこの通路が大手筋だと思います。
丘陵部最初の曲輪が井戸曲輪で、規模は非常に小さく大手筋の踊り場のような印象です。古絵図によると直角に曲がる虎口に井戸丸御門がありました。 周囲の石垣は野面積みで、中には刻印あるいは矢穴の痕跡らしきものがある石材もあります。
この井戸は丘陵部に残る三つの井戸のうち、最も重要視されていたようで、井戸丸矢倉を設け厳重に管理されていました。井戸の直径は2.4メートル、深さは11メートルあります。
井戸丸曲輪から本丸下の二ノ丸へは通路が直結しており、搦手である上り立ち門からの通路より簡単に本丸へとたどり着けます。このあたりは曲輪が整理されていない中世の城の面影が残っているように感じます。
4. 三之門跡
三之門跡 撮影場所4
三之門跡
三之門礎石
三之門礎石
5. 二之門跡
二之門跡から見た天守 撮影場所5
二之門跡から見た天守
二之門礎石
二之門礎石
6. 二之丸・本丸
二之丸 撮影場所6
二之丸
櫛形門跡
櫛形門跡
櫛形門跡より天守を覗く
櫛形門跡より天守を覗く
御台所跡 撮影場所7
御台所跡
二之丸は本丸の北西、一段低い曲輪で、本丸を囲む帯曲輪に接続しています。非常に狭いため独立した曲輪というよりは帯曲輪の一部のようです。
本丸へ接続する唯一の曲輪で、かつては曲輪の北端に御算用矢倉があり、礎石が残っています。 幕末期に曲輪の拡張がされたようで、石垣修復工事では地中から古い時期の石垣が発見されています。
本丸への出入口は櫛形門で、門の両脇には北角矢倉と櫛形門矢倉がありました。
本丸は丘陵部の頂上に位置しており、丘陵部の曲輪としては長門丸に次ぐ広さがあります。 南側に天守、北側には御台所があり、曲輪端に沿って御弓矢倉や南角矢倉といった二重櫓、御鉄砲矢倉などの平櫓がありました。 御台所は天守の正面に位置しており、残された礎石を見ると小さな御殿のような印象を受けます。
7. 本丸からの眺望
本丸からの眺望
本丸からの眺望
6. 天守
天守正面 撮影場所8
天守正面
天守正面千鳥破風
天守正面千鳥破風
天守玄関唐破風
天守玄関唐破風
南東から見た天守
南東から見た天守
天守北面
天守北面
天守階段石垣
天守階段石垣
天守入口
天守入口
天守玄関唐破風の蟇股
天守玄関唐破風の蟇股
現存する宇和島城天守は、宇和島伊達藩二代藩主の伊達宗利が寛文6年(1666)ごろに竣工しました。これ以前には藤堂高虎による望楼型天守がありました。 寛文2年(1662)に天守を元のように建て替えたい旨を幕府に届け出ていますが、実際には一階平面の大きさが同じだけで、構造も外観も全く異なる現在の天守が新築されました。
三重三階の層塔型天守で、高さは約16メートルと小さな天守です。千鳥破風や唐破風を多用しており、窓も含め玄関部分を退けば外観は完全な左右対称となっています。 階高は階が上がるごとに低くなっています。天守台の端は幅約86センチメートルの犬走りとなっており、近世の天守にはあまり見られない構造となっています。 これは全体のバランスを整えるためとも、天守の重量を石垣にかけないためとも言われていますが、結果的にこれらの特徴から上下にも左右にもバランスが良く、現存天守の中でも随一の均整美を誇っています。
これだけですと整いすぎて少し退屈な印象を受けますが、正面左側に張り出した唐破風の玄関が変化を生んで良いアクセントとなっています。 玄関唐破風の蟇股(かえるまた)には伊達家の家紋である「竹に雀」が施されています。
天守台は高さ約4メートルで天守本体部分は打込ハギ、玄関部分は見事な切込ハギとなっています。これらは万延年間(1860〜61)の修理時に積まれたようです。
6. 天守内部
一階
一階
天守雛形その一
天守雛形その一
天守雛形その二
天守雛形その二
一階武者走
一階武者走
二階
二階
二階武者走
二階武者走
三階
三階
三階屋根裏
三階屋根裏
宇和島城天守内部は近世天守としては珍しい居住性を考慮した造りとなっています。
一階、二階は中心に主室となる身舎(もや)があり、周囲を武者走が囲んでいます。三階は身舎のみとなります。 一階、二階には障子戸が現存しており天守での現存例は宇和島城のみです。記録によれば身舎はかつては畳敷きだったようです。 三階には天井が貼られ、猿頬天井と呼ばれる丁寧な細工が施されています。 各階の階段の欄干には寺社建築のような丁寧な装飾が施されています。また、身舎はもちろん武者走にまで長押が設けられており手が込んでいます。
江戸時代に入ってからの天守は基本的にはシンボルであり、外見は工夫をこらしますが、内部は質素なものがほとんです。 そのような中で宇和島城天守内部は装飾性が高く御殿建築を強く意識していることが見て取れます。
この日はなぜか天井の一部が空いており、天井裏の小屋組や棟札を見ることが出来ました。
7. 藤兵衛丸
藤兵衛丸 撮影場所9
藤兵衛丸
藤兵衛丸に残る石垣
藤兵衛丸に残る石垣
藤兵衛丸は丘陵部の中腹に位置し、二之丸から見下ろされる形となる曲輪です。
藤兵衛丸には城山郷土館があり、無料で見学することが出来ます。古い民具や祭りの用具、駕籠などが展示されています。 この城山郷土館の建物はもともとは幕末に宇和島城内の調練場にあった武器庫で山里倉庫とも呼ばれています。 弘化2年(1845)に建てられ、昭和42年(1967)にこの場所に移築されました。長さは約30メートルあり、かなり大きな建物です。 入口付近などは改変がされていますが、宇和島城内に残る数少ない建物です。
藤兵衛丸の周囲には、曲輪を囲む石垣が残されています。
8. 長門丸・代右衛門丸周辺
雷門跡
雷門跡
雷門跡周辺 撮影場所10
雷門跡周辺
藤兵衛丸石垣
藤兵衛丸石垣
代右衛門丸付近の石垣
代右衛門丸付近の石垣

長門丸は藤兵衛丸の一段下に位置し、藤兵衛丸の西と北を梯郭式に囲んでいます。丘陵部最大の曲輪で、現在はグランドなどとして使用されています。
9. 上り立ち門
上り立ち門外側 撮影場所11
上り立ち門外側
上り立ち門扉
上り立ち門扉
上り立ち門鬼瓦 上り立ち門鬼瓦
上り立ち門を見下ろす
上り立ち門を見下ろす
上り立ち門は宇和島城丘陵部の搦手口にあたり、天守と同じく江戸時代から現存している薬医門です。 桁行3.6メートル、梁間2.1メートルで現存する薬医門の中では最大クラスのものです。瓦には伊達家の「九曜紋」が施されています。 創建年代については以前は現存天守と同時期と考えられていましたが、構造と木材の科学的分析の結果から藤堂高虎による築城時のころまで遡る可能性が出てきており、国内最古クラスの薬医門とも考えられています。


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