KemaAkeの全国城めぐり

白石城 しろいしじょう
別名 益岡城
形態 平山城
築城年 天正19年(1591年)
築城者 蒲生氏郷
主な城主 蒲生氏、片倉氏
所在地旧国名 陸奥
所在地 宮城県白石市益岡町1-16
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR東北本線 白石駅から徒歩15分
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆☆
概要 天下統一を果たした翌年の天正19年(1591年)、豊臣秀吉は伊達政宗が支配していたこの地を没収、変わって蒲生氏郷に与え、その家臣である蒲生郷成によって白石城は築城された。慶長3年(1598年)に蒲生氏が家内不穏の動きから宇都宮に転封となると、変わって上杉景勝が越後からこの地に転封となり、家臣の甘糟清長が城主となり城郭の再構築を行う。しかし、2年後の関ヶ原の戦い時に、東軍の伊達政宗が白石城を攻略し再び伊達領となり、政宗の側近である片倉景綱が城主となり大改修を行う。その際、本丸は高さ9メートル余の石垣の上に土塁を囲み、二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用するなど中世城郭と近世城郭の二つの顔を併せ持つ城となった。江戸幕府による一国一城令の後も、仙台城の支城として存続を認められ、明治維新まで片倉氏が1万8千石でこの城を治めた。戊辰戦争時には奥羽越列藩同盟がこの城で結ばれた。
城内案内図など 城内案内図(800x485)
登城日 2009/08/09
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 木造の復元天守や櫓門があります。

登城記
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北東から見た天守

東北城めぐりの初めとして白石にやってきました。この日、台湾を台風8号が直撃。その影響か、西から天気が崩れており白石もあいにくの雨でした。この後三日間、雨雲(台風?)に追われるように北上しながら東北城めぐりを行うことになりました。

白石駅の正面の通りを真っ直ぐ10分ほど歩くと、老人ホームに突き当たります。その裏に白石城はあります。約15分ほどで二ノ丸大手二ノ門跡があり、そこから少し歩くと天守前の広場に到着します。
南西から見た天守

白石城の天守は平成7年(1995年)に文政6年(1823年)に築かれた三階櫓を木造で忠実に復元したものです。なぜ天守と呼ばずに三階櫓と呼んでいたかというと、仙台城の支城という格と、幕府に遠慮をしていたためと考えられています。天守台の石垣は野面積みで、これも復元されたものです。野面積みの石垣が復元されたのはこの白石城が全国初でした。
大手一ノ御門

大手一ノ御門です。天守と同じく平成7年(1995年)に木造で復元されました。
大手二ノ御門

大手二ノ御門です。天守と同じく平成7年(1995年)に木造で復元されました。この櫓門には白石城復元で最大の木材が使用されており、その太さは約60センチメートルにもなります。そのため、国内では木材の入手が出来ず、樹齢1000年以上の台湾檜が使われました。
本丸から見た天守と大手二ノ御門

大手二ノ御門の内側は本丸になります。かつては天守、大手二ノ御門の他に、本丸御殿や二機の櫓、裏御門がありました。
本丸から見た天守

本丸から見る天守は外側から見る天守と異なり、破風などが一切なく、さっぱりとした造りになっています。
天守台の石垣

天守台です。石垣は野面積みなのですが、他の城の野面積み石垣と異なり、全体的に丸っこい石材が使われています。
鐘堂

天守の横には鐘堂があります。
天守二階内部

天守二階内部です。
天守最上階高欄

天守最上階の高欄の様子です。高欄への出入り口が火頭窓風になっているのが珍しいです。
高欄から見た鐘堂と大手二ノ御門

天守最上階の高欄から鐘堂と本丸二ノ御門を撮影しました。左端に見える大きな蔵風の建物は白石城歴史探訪ミュージアムで、白石城に関する資料が展示されています。また立体ハイビジョンシアターがあり、奥羽越列藩同盟や片倉景綱に関する作品が上映されています。これらの作品が豪華なもので、渡辺謙や宍戸錠、西郷輝彦などが出演しており、ちょっとした大河ドラマのようで、白石市の力の入れようが伺えます。


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