KemaAkeの全国城めぐり
赤木城
あかぎじょう
別名なし 主郭全景
形態平山城
築城年天正17年(1589)ごろ
築城者藤堂高虎
主な城主藤堂高虎
所在地旧国名伊勢
所在地三重県熊野市紀和町赤木
アクセス JR紀勢本線熊野市駅から路線バスおよび徒歩。私が利用したルートを下記します。
また、こちらに私の赤木城までの旅程詳細とおまけを記載しました。

ゆき:
・熊野市駅前バス停
↓ 三重交通バス 南紀01-1 新宮駅行(約20分)
・阿田和端地バス停
↓ 熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 瀞流荘行(約30分)
・千枚田・通り峠入口バス停
↓ 徒歩(約50分)
・通り峠
↓ 徒歩(約30分)
・丸山千枚田
↓ 徒歩(約50分)
・赤木城

かえり:
・赤木城
↓ 徒歩(約15分)
・田平子バス停
↓ 熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 紀南病院行(約15分)
・小栗須バス停
↓ 熊野市バス 熊野古道瀞流荘線 木本高校行(約40分)
・熊野市駅前バス停

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熊野市バスの情報はこちら
アクセスのしやすさ
概要 ●藤堂高虎による築城
紀伊半島は天正13年(1585)の豊臣秀吉による紀州攻めでその支配下に入った。 しかし、熊野北山では大規模な一揆が頻発した。そのため、当時紀州攻めの指揮官であった豊臣秀長配下の藤堂高虎が天正17年(1589)ころに築城したのが赤木城である。 藤堂高虎は文禄4年(1595)に伊予宇和島に転封となるまでの11年間を北山付近に居住し、一揆の鎮圧、木材の切り出しなどを行った。この間に城の整備を進めたと思われる。
●廃城
慶長19年(1614)、大阪冬の陣に呼応して発生した北山一揆では、鎮圧軍が赤木城を拠点としている。その後城としての役割はなくなり、廃城ないし打ち捨てられたものと考えられる。
●近代になってからの史跡整備
平成元年(1989)、国定史跡に指定される。
平成16年(2004)、平成4年(1992)から始まった保存管理計画が完了。石垣の積み直しや遊歩道の整備が行われる。
遺構 普請:石垣、土塁、空堀
作事:なし
天守:なし
案内図など 縄張図(600x600)
登城日2013/4/29
感想など 赤木城は築城の名手として名高い藤堂高虎が、豊臣秀長の家臣時代に築城した城で、150メートル四方に収まる小さな平山城です。
野面積みの石垣はあまり高いものではありませんが、縄張りは直線的で、随所に見やれる横矢掛けなど、高虎築城術のルーツを見ることができます。 城下からの比高こそ遠く及びませんが、竹田城を小さくした「ミニ竹田城」のような印象を受けます。
縄張りはV字状で、交点部分が最も標高の高い主郭になっています。 主郭から右側に伸びる尾根上に西郭、左側に伸びる尾根上に東郭があり、これらの尾根に挟まれた麓に南郭があります。
なお、赤木城の周りには土産店等はなにもなく、あるのは自動販売機一つだけです。

そして、この城のもうひとつの大きな特徴にアクセスの悪さが上げられます。
最寄り駅のJR紀勢本線紀伊市木駅からは最短ルートで約18キロの山の中にあこの城はあります。 そのため、時間を有効利用した現実的な登城手段は自家用車かこの当たりの中心駅である熊野市駅からタクシーを利用することでしょう。

しかし物好きな私は、公共交通機関での登城を目標としているため、なんとかバスを利用して登城する手段を調べました。
赤木城最寄りの田平子バス停に停車するバスは上下合わせて1日4本。次の逆方向のバスまで6時間ほど空くという状況です。 こうなると田平子バス停にこだわるよりも、それなりに歩いてもバスの本数が多いバス停を利用したほうが計画を立てやすいです。 そこで便利なのが千枚田・通り峠入口バス停。ここには上下合わせて1日8本のバスが停車します。 ここから赤木城までは徒歩で約6キロメートル歩くことになりますが、世界遺産・熊野古道の通り峠ルート、無数の棚田が広がる丸山千枚田を経由するため、登城と観光が一緒にできます。 ただし、通り峠は峠というだけあってかなりキツいです。歩きやすい服装で行ってください。

こちらに赤木城までの旅程詳細とおまけを記載しました。これまでの登城で最も大変な道のりでしが、到着した時の喜びはこれまでで最高のものでした。
登城記 各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 伝鍛冶屋敷跡
伝鍛冶屋敷跡 撮影対象1
伝鍛冶屋敷跡の石積み
駐車場から進み最初にある曲輪がこの伝鍛冶屋敷跡になります。東郭のある尾根先端の麓にあり、山麓の居館といった雰囲気の場所です。 平成8年(1996)の発掘調査では多数のピットや土坑、焼土が検出されました。また永楽銭や施油陶器、近世染付け椀の破片などが見つかりました。 バスの運転手さん曰く、当時このあたりでは、この発見は大きな話題になったそうです。
2. 東郭
東郭・門跡 撮影対象2
東郭・h東面石垣1
東郭・東面石垣2
東郭・門跡の礎石
伝鍛冶屋敷跡から階段を進むと、東郭があります。東郭は門を挟んで2つの郭からなっており、門は郭の東面に開かれています。 最初に敵を迎え撃つ郭になるため、石垣は高く険しく積まれています。発掘調査は行われていませんが、礎石が見られることからなんらかの建物があったと考えられています。 門跡では礎石が3つ残っており、間口2.4メートル、奥行き1.8メートルほどの四脚門が立っていたと推定されます。 攻めにくくするための工夫でしょうか、門の直前では急に坂が険しくなっています。
3. 主郭への虎口
主郭への虎口全景 撮影対象3
主郭への虎口
主郭への虎口・門跡の礎石
主郭から見た虎口
赤木城の中でも東郭から主郭への虎口は二重に折り曲げられ、特に厳重に造られています。
下段の虎口には門があった形跡は見つかっておらず、梯子のようなもので石垣に登っていたと考えられています。 上段の虎口には東郭と同様に門跡の礎石が4つ残っており、何らかの建物があったことがわかります。 また、門脇の石垣にはひときわ目立つ大きな石材が使用され、規模は小さいですが、後の城郭の鏡石に相当するもののようです。
整備前のこの辺りは石垣の崩落が著しい状態でした。これについては城が使用されなくなった後、敵に利用されることを防ぐために意図的に崩された可能性も考えられています。
4. 主郭・北郭
主郭全景 撮影対象4
主郭北東面石垣
北郭から見た主郭
主郭南出隅
主郭南東面石垣
主郭南西面石垣と北出隅
主郭から見た西郭
主郭から見た東郭
主郭は城の最高所にあり、城下からの比高は30メートルほどあります。 ほぼ正方形をしており、高さ4メートルほどの石垣で固められています。石垣は野面の乱積みですが、他の郭よりも高く丁寧に積まれ、城の中心にふさわしい造りとなっています。 南角には出隅、北角を出っ張らせ横矢掛けを設けるなど、防御のための工夫も見ることができます。出隅角の石垣は、発展途上の算木積みとなっています。 主郭には大きな礎石が残され、他の郭より立派な建物があったと考えられています。
北郭は主郭の北側に面した小さな郭で、石垣は2〜4段と低く、西面には石垣が積まれていないなど他の郭に比べて簡素な造りとなっています。 しかし、尾根の先に堀切を設けることで防御を固めています。この堀切ですが、遊歩道が整備されておらず、どこまで入っていいのかわからず、残念ながらたどり着けませんでした。
5. 西郭
東郭から見た西郭 撮影対象5
西郭北面石垣
西郭の礎石
水溜跡
西郭は階段状の4つの郭からなる細長い郭です。西側にある大きな谷は斜面を家図入り、敵が登りにくいようにしています。 西郭の最高所にある最も大きな郭からは、2棟の礎石建物跡、食材を貯蔵するための室(むろ)ないし水溜と思われる石組遺構が残っています。 また、天目茶碗や砥石、釘などが出土しています。 西郭の石垣は、他の郭に比べて傾斜がゆるくなっており、麓からよく見える北側には大きな石が使われています。
6. 南郭
南郭全景 撮影対象6
南郭の石積み
南郭は他の郭と違い尾根裾に築かれ、階段状の3つの郭からなり、主郭に匹敵する広さがあります。麓にあるためか石垣は積まれていません。 これらのことから他の郭とは異なり、生活の場であったと考えられています。他の郭が山城、南郭が居館といった中世山城を思わせる造りです。 建物の礎石、土留の石積み、かまど跡が見つかっています。かつては4機のかまど跡が残っていたと言われ、相当に生活色の強い場所だったようです。
南郭の下には田平子峠を経て入鹿へと続く道があり、普段の生活には便利な場所だったのでしょう。

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