KemaAkeの全国城めぐり

犬山城 いぬやまじょう
別名 白帝城
形態 平山城
築城年 天文6年(1534)
築城者 織田信康
主な城主 織田氏、小笠原氏、成瀬氏
所在地旧国名 尾張
所在地 愛知県犬山市犬山北古券65-2
アクセス ●徒歩によるアクセス
名古屋鉄道犬山線、犬山駅から徒歩15分
道順は城の地図の青線を参照してください。
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆☆
概要 ●戦国時代
犬山城は文明元年(1469)に織田広近が砦を築いたことに始まる。天文6年(1537)には織田信長の叔父、織田信康が現在の場所に城を築いた。このとき現存する天守の二層目までが築かれたとされている。永禄7年(1564)には織田信長が攻め落とし、その後は池田恒興などが城主を務めた。
●安土桃山時代
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉が犬山城を本陣として、小牧山城に入った徳川家康と睨み合いを続けた。豊臣政権下では石川貞清が城主を務めた。関ヶ原の戦いで石川貞清は西軍に付き、犬山城に籠城する。しかし東軍と内応し、城を出て関ヶ原の本戦に参加したため、犬山城をめぐる攻防戦は発生しなかった。
●江戸時代
江戸時代になると、尾張名古屋藩の附家老が代々城主を務めた。慶長16年(1611)までは小笠原吉次が城主を務め、近世城郭化、城下町の整備を行った。その後、平岩親吉、成瀬正成が城主となり、明治維新まで成瀬氏が九代にわたって城主を務めた。
●明治時代以降
廃藩置県による廃城後、天守以外の建物はほとんどが取り壊された。明治24年(1891)には濃尾地震で天守の付櫓が壊れたため、城の修復を条件に旧犬山藩主の成瀬正肥に譲渡された。その後、平成19年(2007)まで日本唯一の個人所有の城であったが、現在は財団法人犬山城白帝文庫に移管されている。また、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で被害をうけたため、昭和36年(1961)から昭和40年(1965)にかけて解体修理を行った。
遺構 普請:石垣
作事:天守
天守:天文6年(1537)または慶長6年(1601)に建てられ、その後増改築が行われた天守が現存
登城日 2011/04/30
撮影カメラ RICOH CX1

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。

1. 中御門跡
中御門跡
城の地図:撮影対象1
小さな赤い橋の向こうが中御門跡です。中御門は天守に向かう登城道の始めの門で、近くに番所がありました。赤い橋の下は道路になっていますが、空堀の堀底に作られたような感じのする道路となっています。

2. 矢来門跡
矢来門跡
矢来門の礎石
矢来門は登城道で中御門の次の門になり、礎石の一部が残っています。

3. 黒門跡
黒門跡
城の地図:撮影対象2
黒門の礎石
黒門は登城道で矢来門の次の門で、一枚目写真中央の石垣の間にありました。薬医門形式の門で、礎石がひとつ残っています。また、右側石垣の上には道具櫓と呼ばれる二層櫓が建てられていました。

4. 岩坂
岩坂
黒門の先には登城道最後の坂道となる岩坂があります。犬山城ではこの登城道を中心に樅(もみ)の丸、桐の丸、杉の丸、松の丸といった比較的小さな曲輪が配置されていました。現在ではこれらの曲輪に三光稲荷などの神社や、財団法人犬山城白帝文庫の事務所などが建てられています。

5. 本丸石垣
本丸石垣
城の地図:撮影対象3
登城道にそって写真のような野面積の石垣が所々に残っています。写真の石垣はそのなかでもっとも高いと思われる石垣です。

6. 本丸門
本丸門
城の地図:撮影対象4
本丸門は本丸の正門です。現在はコンクリート造りで復興され、入場改札となっています。必ずしも忠実な復元ではないようですが、当時の本丸門も櫓門形式であり、規模もそう変わらなかったと思われます。

7. 七曲門跡
七曲門跡
城の地図:撮影対象5
七曲門は本丸北東に位置する門で、別名見晴門とも呼ばれていました。長良川沿いの水の手へ下りる門で、本丸搦手といったとろでしょうか。櫓門形式で、現在も礎石が多く残っており、犬山城の中で最も旧状をとどめている門跡になります。

8. 天守
正面から見た天守
城の地図:撮影対象6
南東の付櫓
犬山城の天守は天守台を含め高さ24メートル、三層四階地下二階の構造になっています。二層目までは天文6年(1537)に織田信康によって築かれ、その後何度かの増改築が行われ、現在の姿になったのは元和3年(1617)ころと考えられています。一層目は下見板張り、二層目は漆喰総塗籠、三層目は廻縁付きの真壁造りとなっています。下見板張りや廻縁、真壁造りは古い時代の天守に多く見られる特徴で、犬山城天守の古さを物語っています。二層目の大入母屋には唐破風出窓、三層目には華頭窓風の飾りがあり優雅さを醸し出しています。また、天守南東の付櫓と北東の石落としの間が天守に変化を与えています。
一層目下見板張り
大入母屋の唐破風出窓

9. 天守台石垣
天守台石垣
天守台の石垣は野面積みで、高さは5メートルほどです。野面積みであまり高くないこの石垣からも、犬山城が古い形式の城であることがわかります。

10. 天守内部
天守一階内部
天守一階上段の間
天守二階内部
天守内部は一階の上段の間と最上階以外に天井は張られていません。上段の間には床の間などが設けられ、創建当時の城主の居間と考えられています。天守内部にこのような居住空間があるのも古い天守の特徴のひとつです。 二階中央には武具を保管した武具の間があり、武具を収納するための棚も残されています。この棚には所々に穴が空けられており、槍や旗などを差したのでは?と想像がめぐります。また二階の武者走りから見る大入母屋の小屋組も見応えがあります。三階は大入母屋の屋根裏に当たり、唐破風出窓と大入母屋の窓から採光しています。
天守二階武具の間
天守三階唐破風の間
天守三階唐破風内部

11. 天守最上階
天守最上階から見た本丸
華頭窓風の飾り
天守最上階は物見の間と呼ばれ、廻縁がめぐり南北に出入口があります。遠くからみると出入口の左右に華頭窓があるように見えますが、近づいてみると本物の窓ではなく、華頭窓風の飾りであることがわかります。 また、廻縁の手すりは当時のままのため、かなり低くなっています。高いところが好きな私でも自然と内側を歩いていました。犬山城の天守はよく小さいと言われますが、最上階まで登ってみるとかなりの高さであることがわかります。最上階は見晴がよくかなりの人で混雑していましたが、これだけの人が乗ってもびくともしない日本古建築の頑丈さに改めて感心しました。
最上階廻縁

12. 廻縁からの眺め
廻縁から見た木曽川
廻縁から見た木曽川です。

13. 木曽川沿いから見た天守
ライン大橋から見た天守1
城の地図:撮影場所1
ライン大橋から見た天守2
犬山城の北には木曽川が流れており広大な水堀の役割を果たしています。川沿いの小高い丘に建つその姿は、古くから「白帝城」の別名で呼ばれています。白帝城は長江沿いの丘に建つ三国志で有名な城で、劉備玄徳が死去した城でもあります。犬山城に来たからには少し足を伸ばして木曽川を渡り、川沿いに佇む優雅な姿をぜひ御覧ください。ちなみに城から木曽川を挟んだ向岸は岐阜県になるのですが、川沿いの道路に歩道を整備したり、ちょっとした公園を作ればなかなか良い城見スポットになりそうです。でも、犬山城は愛知県にあるため大人の事情で難しいのかもしれません。
木曽川越しに北から見た天守1
城の地図:撮影場所2
木曽川越しに北から見た天守2


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