KemaAkeの全国城めぐり

掛川城 かけがわじょう
別名 雲霧城
形態 平山城
築城年 文明年間(1469年-1486年)
築城者 朝比奈泰煕
主な城主 朝比奈氏、石川家成、山内一豊、松平氏、北条氏、井伊氏、小笠原氏、太田氏
所在地旧国名 遠江
所在地 静岡県掛川市掛川1138-24
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR東海道本線 掛川駅から徒歩15分
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆☆
概要 掛川城は戦国時代の文明年間(1469年-1486年)に駿河の守護大名、今川義忠の命により朝比奈泰煕が築城した。築城時は現在の場所から歩いて5分程のところにある丘に築かれていたが、子の泰能によって現在の場所に移された。桶狭間の戦い後、永禄11年(1568年)には武田信玄に駿河を追われた今川義元の子、氏真がこの城に立て籠もった。翌年、今川家から独立した徳川家康に攻められ、長期にわたる攻防の末開城した。徳川家康支配下では石川家成が入城し、武田家に備えた。豊臣秀吉の天下統一後、徳川家が関東に転封になると、山内一豊が入城した。このときに天守閣等が造られ、近世城郭としての整備が行われた。関ヶ原の戦いのときに一豊が徳川家康にこの城を明け渡した話は有名である。江戸時代は一豊が土佐に転封されると、城主が頻繁に変わり、明治維新を迎える。城主には後北条氏の一族である北条氏重や、江戸城を築城した太田道灌の末裔である太田資俊などがいる。
登城日 2008/09/13
撮影カメラ RICOH Caplio R6
みどころ 全国初の木造復元天守。現存二の丸御殿。

登城記
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大手門

掛川駅から歩いて10分ほどで大手門に到着です。駅から天守閣が見えるので、方向は間違いようがありませんが、直進してしまうと大手門を見過ごしてしまうので注意が必要です。掛川城大手門は楼門造りの櫓門で、間口約12.7メートル、奥行き約5.4メートル、高さ約11.6メートルの規模を誇り、鏡柱や冠木、梁、垂木もすべて大きな木材を使用した壮大な造りになっています。馬に乗ったままで通行できるよう冠木下の高さが約4.4メートルあるのも特徴です。嘉永7年(1854年)に地震により倒壊し、安政5年(1858年)に再建されましたが、明治維新による廃城後、民間に払い下げられた後、焼失してしまいました。平成7年(1995年)に復元されました。

大手門の鯱

大手門の鯱です。
大手門番所

大手門をくぐると大手門番所があります。ここには城内への出入りの監視、警備を行う役人が詰めていました。嘉永7年(1854年)の地震で倒壊しましたが、安政6年(1859年)に再建されたものが現在も残っています。大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、掛川市の文化財に指定されています。
逆川沿いから太鼓櫓と天守閣を望む

逆川沿いから太鼓櫓と天守閣を撮影。
天守閣のアップ

おなじく逆川沿いから天守閣をアップで撮影。よく見ると天守台下の石垣が現代の工法(コンクリートブロック?)で造られているのがわかります。天守閣を木造で復元したのだから、このあたりも昔の工法で復元してほしかったです。
掛川城主要部の模型

本丸の入り口に当たる四足門をくぐると、掛川城主要部の模型がありました。正保元年(1644年)に作成された正保城絵図を基本資料として作成されたもので、有田製磁器で造られています。写真の真ん中の高麗門が四足門になります。四足門については発掘調査では遺構は見つかりませんでしたが、江戸時代の絵図を元に復元されました。
太鼓櫓

本丸から太鼓櫓を撮影。正保城絵図ではこの場所に荒和布櫓と呼ばれる櫓がありました。現在の建物は嘉永7年(1854年)の地震後に立てられたもので、時刻を知らせる太鼓を置いていたことから太鼓櫓と呼ばれています。昭和30年(1955年)に三ノ丸から移築されたものです。
冠木門から天守閣を見上げる

天守曲輪入り口の冠木門から天守閣を撮影。掛川城の天守閣は三重四階で、天守台を含め高さ19.78メートル、一階は役12メートル×10メートルと小さいものですが、東西に張り出し部や付櫓を設けたりすることで大きく、複雑な造りに見せています。最上階が他の階に比べ極端に小さいのは、望楼型天守のなごりといえます。嘉永7年(1854年)の地震により倒壊し、以後140年間再建されることはありませんでしたが、平成6年(1994年)に木造で復元されました。
天守曲輪から天守閣を見上げる

天守曲輪から天守閣を見上げる。
霧吹き井戸

天守曲輪にある霧吹き井戸です。伝説によると、永禄12年(1569年)徳川家康は今川氏真が立て籠もる掛川城を攻めましたが、この井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、徳川軍の攻撃から城を守ったといわれています。
二の丸御殿全景

天守曲輪から見た二の丸御殿全景。二の丸御殿については後述します。写真上左側の小高い丘が、築城時の掛川城があった場所で、掛川古城と呼ばれています。
天守閣最上階から大手門方面を望む

天守閣最上階から大手門方面を撮影。写真中央左上にあるのが大手門、写真中央左下にあるのが四足門、写真中央左下にあるのが太鼓櫓です。この当たりの建物は、和風な造りになっており、派手な看板などもありません。駐車場もお城を意識して作られています。掛川市はお城の周りの雰囲気作りに力を入れているようですね。
二の丸方面から天守閣を見上げる

二の丸方面から天守閣を撮影。こちらから見る天守閣はだいぶスマートです。
二の丸御殿

二の丸御殿です。全国でも珍しい現存城郭御殿です。当初は本丸にも御殿がつくられましたが、老朽化や災害のため、二の丸に移りました。嘉永7年(1854年)の地震により倒壊したものを、太田資功によって安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたものが現在の建物になります。明治維新による廃城後は儒学校、女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され、台所や厠など一部は失われましたが、取り壊されることなく残りました。昭和55年(1980年)に重要文化財に指定されました。
二の丸御殿玄関唐破風の飾り

二の丸御殿玄関の唐破風の飾りとして彫られている太田家の家紋である太田桔梗です。
二の丸御殿の内部

二の丸御殿の内部です。こういった縁側(?)でお天守閣を眺めながらのんびりお茶でも飲めたら最高ですね。
北側から見た天守閣

お城の周りをぐるっと回って北側から天守閣を撮影しました。
龍華院大猷院霊屋

最後に掛川古城跡にある龍華院大猷院霊屋(りゅうげんいんたいゆういんおたまや)です。明暦2年(1656年)に掛川藩主北条氏重が幕府に願い出て、三代将軍家光を祀るために建てたもので、当時の建物は文化15年(1818年)に焼失し、文政5年(1822年)に掛川藩主太田資始によって再建されたものが残っています。この霊屋のある場所が掛川古城の本曲輪のあったところで、近くには空堀もあります。私、霊屋の近くで空堀らしきものを見つけたのですが、案内板当がなく確証が得られず、写真を撮っていませんでした。帰宅して調べたところ、やはり空堀でした…まだまだですね。

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