KemaAkeの全国城めぐり

松江城 まつえじょう
別名 千鳥城
形態 平山城
築城年 慶長12年(1607)
築城者 堀尾吉晴
主な城主 堀尾氏、京極氏、松平氏
所在地旧国名 出雲
所在地 島根県松江市殿町1-5
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR山陰本線 松江駅から大手木戸門跡まで徒歩25分
城までの道順は城の地図の青線を参照してください。
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆
概要 松江城は堀尾吉晴によって慶長12年(1607)から足かけ5年をかけて築かれた平山城である。関ヶ原の戦いの戦功により、出雲・壱岐の領主となった堀尾忠氏(吉晴の子)は、はじめ尼子氏の本拠であった月山富田城に入城する。しかし慶長9年(1604)に忠氏は若くして死去、吉晴が家督を継いだ孫、忠晴の後見役として再び国政をとった。松江城の築城は吉晴が息子、忠氏の意志を継いだものともいわれる。城の完成とともに吉晴は松江城に入城し、松江藩が成立する。寛永10年(1633)に忠晴が死去すると、世継ぎがないため堀尾家は断絶、変わって京極忠高が若狭小浜から加増転封され、松江藩主となる。しかしわずか3年後の寛永14年(1637)に忠高は死去、実子がなかっため京極家は改易となる。翌寛永15年(1638)に松平直政が信濃国松本藩から転封され、18万6千石で松江藩主となる。以後明治維新まで松平氏が10代にわたり松江藩主を務めた。明治4年(1871)には天守を除く全ての建物が破却され、天守も売りに出された。しかし、有志の運動により保存され、現在まで残ることとなった。平成12年(2000)に二の丸南櫓、平成13年(2001)には二の丸中櫓、太鼓櫓が復元された。
城内案内図など 城内案内図(850x1200)
登城日 2010/08/09
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 姫路城に継ぐ規模を誇る現存天守が残っています。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の赤○、青○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示し、青はその写真の撮影場所を示します。

三の丸跡から見た二の丸南櫓と天守
城の地図:青1

三の丸跡から見た二の丸南櫓と天守です。天守の左下の木陰には二の丸中櫓も見えます。松江城は、北から本丸、二の丸、三の丸が直線状に並ぶ縄張りとなっています。平地にある三の丸には三の丸御殿が建てられ、周りを堀で囲まれ、ほぼ正方形をしていました。ぱっと見ると独立した居館のような感じだったようです。現在、三の丸を囲んでいた堀は約半分が埋め立てられ、三の丸跡には島根県庁が建てられています。
内堀越しに見た二の丸南櫓、中櫓

内堀越しに見た二の丸南櫓と中櫓です。左側の二層櫓が南櫓、右側の平屋が中櫓です。石垣が高くなかなか貫禄があります。松江城は全ての堀がつながる構造となっており、現在もそのほぼ全てが残っています。この堀を小船でめぐる堀川めぐりは松江名物のひとつとして有名です。
大手門馬溜跡
城の地図:赤1

大手馬溜跡です。一辺約46メートル、ほぼ正方形の大きな広場で、東側の入り口に柵門、北側の出口に大手門がありました。この広さから枡形としての役割と、出撃時に兵の隊形を整える場所としての機能を果たしていたようです。二つの井戸を持つ珍しい枡形でもあります。
大手門跡
城の地図:赤2

大手門跡です。長さ14.5メートル、幅6.4メートルで鯱をあげていました。絵図によると楼門型式だったようです。
大手門の礎石

大手門の礎石です。大手門跡にはきれいに礎石が残されています。
本丸東側腰曲輪の石垣
城の地図:赤3

本丸東側腰曲輪の石垣です。大手門の奥は東西100メートル、南北210メートルの広大な二の丸下の段です。米蔵や御破損方・寺社修理方がありました。この曲輪の西側には、横矢掛かりを設けた腰曲輪の石垣が延々と続いています。
二の丸上の段への階段

二の丸上の段への階段です。大手門左側にあります。階段左上の櫓は二の丸太鼓櫓です。
分銅紋が刻まれた石

分銅紋が刻まれた石です。二の丸上の段への階段の途中、本丸東側腰曲輪にあります。分銅紋は松江城を築いた堀尾家の紋です。
本丸東側腰曲輪から見た天守

本丸東側腰曲輪から見た天守です。
二の丸太鼓櫓
城の地図:赤4

二の丸太鼓櫓です。三の門の内側は二の丸上の段になります。かつて二の丸上の段の中央には御書院があり、松平家二代藩主綱隆の時代まで、藩主が居住していました。二の丸太鼓櫓は二の丸上の段の北東角に建てられた平屋の櫓で、城内の時刻や号令を告げる太鼓が置かれていたと考えられています。平成13年(2001)に木造復元されました。
二の丸太鼓櫓内部

二の丸太鼓櫓内部です。天井がないため、屋根の小屋組みがむき出しになっています。太鼓が置かれていますが、これは複製品です。本物は天守内部に展示されています。
二の丸中櫓
城の地図:赤5

二の丸中櫓です。二の丸中櫓は、二の丸上の段の東側に建てられた平屋の櫓で、幕末には「御具足蔵」とも呼ばれていました。このことから、武具を保管する倉庫であったと考えられています。外観は太鼓櫓とほぼ同じですが、内部は中央に仕切りがあり、二部屋に分かれています。平成13年(2001)に木造復元されました。
二の丸南櫓
城の地図:赤6

二の丸南櫓です。二の丸南櫓は二の丸上の段の南東角に建てられた二層櫓です。幕末には「御召櫓」とも呼ばれていました。城下町の南東方向を監視する櫓であったと考えられています。平成13年(2001)に木造復元されました。
二の丸南櫓内部

二の丸南櫓内部です。内部の梁や柱は「ちょうな」と呼ばれる道具で荒削りしたものが使用されています。城は早く造ることが大切なので、手早く済ませるためにちょうな仕上げとしたのでしょうか。
二の門跡
城の地図:赤7

二の門跡です。奥には松江神社が見えます。松江神社は堀尾吉晴、松平直政、松平治郷、徳川家康を祭神としています。
一の門と南多門櫓
城の地図:赤8

一の門と南多門櫓です。一の門は本丸の正門に当たります。昭和35年(1960)に復元されました。
天守
城の地図:赤9

天守です。有名なアングルから撮影しました。松江城の天守は五層六階の望楼型天守で、慶長12年(1607)に建てられました。高さは約30メートルあり、その平面規模は現存12天守の中では、姫路城天守に次ぐ規模を誇ります。南面に大きな付櫓が付属しています。下見板張りの外観から無骨な印象を受けます。
南から見た天守

南から見た天守です。
南西から見た天守

南西から見た天守です。
西から見た天守

西から見た天守です。こちら側から見ると二層目の大入母屋が際立ちます。天守台の石垣は野面積みですが、かなりの急角度で積まれています。
大入母屋の鬼瓦

大入母屋の鬼瓦です。鯱と同じく木造銅版張の大きなものです。松平家の家紋である葵の紋が彫られています。
天守台石垣

天守台石垣です。小さな石を多用した野面積みの様子がよくわかります。
付櫓入口の扉

付櫓入口の扉です。総鉄板張りの頑丈な扉です。この付櫓は、内部の階段に対しても鉄砲狭間が設けられています。天守に入られてもまだまだ戦うという強い意志が形になっているようです。
天守の鯱

天守地下の穴蔵に展示されている天守の鯱です。木造銅版張で高さは約2メートルです。昭和25年(1950)に行われた昭和の大修理まで、天守の大棟に載っていたもので、現存する鯱としては国内最大のものです。木造銅版張のため、細かい装飾は施されず、おおまかな作りになっています。穴蔵には鯱の他に、現存天守内に残るものとしては唯一の井戸、昭和の大修理で交換された古材などが雑然と並べられています。
天守の寄木柱

天守の寄木柱(よせぎばしら)です。集成材の一種で、一本の柱の外側に板を添えて寄せ合わせ、金輪で止め、一本の太い柱としています。補強として各所にかすがいも打ち込まれています。日本の集成材のルーツとも呼べるもので、現存する古建築で寄木柱が使われているのは、松江城と東大寺大仏殿のみとなっています。
素屋根の雛形

昭和25年(1950)の大修理の際の素屋根の雛形です。素屋根は5年間完全に維持され、台風にも耐え抜いた堅牢なものでした。天守自体の雛形はよくありますが、素屋根の雛形は始めてみました。
天守三階内部

天守三階の内部です。大入母屋の妻側になります。窓の下には、垂木が顔を覗かせています。
天守三階華頭窓

天守三階華頭窓を内側から撮影しました。天守正面(南面)を向いており、無骨な松江城の天守にあって、目立つ存在になってまます。
天守四階箱便所

天守四階箱便所です。その名のとおりトイレです。姫路城天守には「流し」がありますが、トイレのある天守は珍しいのではないでしょうか。
天守最上階から見た松江市街と宍道湖

天守最上階から見た松江市街と宍道湖です。最上階から南を見ると、松江市街、宍道湖が一望できます。写真中央あたりがかつての三の丸で、現在は島根県庁が建てられています。
本丸鉄砲櫓跡

本丸鉄砲櫓跡です。
本丸乾櫓跡

本丸乾櫓跡です。本丸には鉄砲櫓、乾櫓の他に祈祷櫓、武具櫓など多くの建物がありましたが、現在は天守を残すのみとなっています。本丸北東部分を除いて、これらの櫓は多門櫓でつながれており、本丸を囲んでいました。
水の手門跡1
城の地図:赤10

水の手門跡です。本丸北側に位置し、腰曲輪を経て、本丸北の門へと続いています。石垣は高く、通路も折れ曲がり、いかにも堅固な印象を受けます。そのためか、大手門より見応えを感じました。水の手門の手前にはギリギリ井戸と馬洗池があります。そのため水の手門と呼ばれるようになってのでしょう。
水の手門跡2

同じく水の手門跡です。通路の両側に石垣が築かれ、来るものを威圧しています。
北の門跡
城の地図:赤11

北の門跡です。本丸の裏門で、北側を守っています。
本丸北側腰曲輪の石垣

本丸北側腰曲輪の石垣です。野面積みになっています。松江城にはこのような腰曲輪がいたるところにあり、平山城の理想的な縄張りとされる「一二三段」を形成していました。
北惣門橋と北惣門跡
城の地図:赤12

北惣門橋と北惣門跡です。北惣門は二の丸下の段の北東に位置しています。北惣門橋は内堀東側の武家屋敷と城内を結ぶ重要な橋でした。明治時代に石造りの橋に架け替えられましたが、発掘調査結果や絵図を基に、平成6年(1994)に江戸時代の姿に復元されました。
塩見縄手

塩見縄手です。塩見縄手は松江城築城の際、北にあった宇賀山を開削し、内堀と共に造られました。塩見縄手に面した内堀は規模が多きく、幅は最大64メートル、深さは10メートルにもなります。この内堀に面して数々の武家屋敷が軒を連ねていました。現在でも松の大木や、白漆喰の壁が当時の面影を残しています。松江市では塩見縄手の門や塀の復元、電線の地中化工事などを行い景観の保護に努めています。
武家屋敷長屋門
城の地図:赤13

武家屋敷長屋門です。塩見縄手に面して建てられた武家屋敷のものです。塩見縄手には松江藩の中老格の武士の屋敷が立ち並んでいました。長屋門と共に屋敷も約270年前の姿そのままに保存されており、当時の武家の生活の様子を今に伝えています。
千鳥橋
城の地図:赤14

千鳥橋です。千鳥橋は江戸時代には御廊下橋と呼ばれ、屋根のついた木橋でした。本丸と二の丸からなる城の中心部と、藩主の屋敷のある三の丸を結ぶ重要な橋でした。写真中央の石垣の上は南口門跡になります。
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