KemaAkeの全国城めぐり

鳥取城 とっとりじょう
別名 久松城
形態 平山城および山城
築城年 天文14年(1545)頃
築城者 山名誠道(のぶみち)
主な城主 山名氏、吉川氏、宮部氏、池田氏
所在地旧国名 因幡
所在地 鳥取県鳥取市東町
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR山陰本線・因美線 鳥取駅から中ノ御門跡まで徒歩25分
城までの道順は城の地図の青線を参照してください。
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆
概要 鳥取城は天文14年(1545)頃、因幡守護山名誠道が標高263メートルの、久松山(きゅうしょうざん)に築いたとされる山城である。
天正8年(1580)年に、織田氏、続いて毛利氏が侵攻し、天正9年(1581)には毛利氏重臣の吉川経家が城主となる。同年、織田氏の羽柴秀吉が大軍で城を囲み、兵糧攻めにする。このとき城には20日分の兵糧しかなく、またたくまに城内は飢餓状態に陥った。この凄惨なる状況を見た吉川経家は降伏、城兵の命と引き換えに自害した。経家の降伏後は織田氏の宮部継潤が城主となり、近世城郭としての整備を始める。
関ヶ原の戦い後、池田長吉が入城し、山麓に二の丸、三の丸を設けるなどの大改修を行い、山城と平山城の両側面を持つ城となった。このとき久松山山頂の山城部分も、山上の丸として整備され、二層の天守が築かれた。以後、焼失、増改築を繰り返し、池田氏のもとで明治維新を迎える。
明治維新後は、全国の他の城と同様、建物の解体が行われた。
昭和18年(1943)の鳥取大地震で天守台の石垣などが崩壊したが、昭和の中ごろから石垣を中心に復元整備が行われ、現在にいたる。
登城日 2010/08/08
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 山麓の高石垣群。また、久松山山頂の天守台から見る鳥取砂丘、日本海の眺めは素晴らしいです。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の赤○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示します。

吉川経家の銅像
城の地図:赤1

吉川経家の銅像です。経家は天正9年(1581)、織田氏の山陰侵攻が必至となる中、3月に鳥取城に入場しました。同年4月、織田氏の羽柴秀吉が二万の大軍を率いて、鳥取城を囲みました。その陣は日本海から鳥取平野、久松山の東側にかけ、約20キロメートルに及ぶ大包囲陣で、徹底した兵糧攻めを行いました。毛利氏の救援と食料の補給は、秀吉の厳重な包囲陣を突破できず、同年10月には食料も底をつき、人肉を食するという状態にまで陥りました。これが世に言う「鳥取城の渇殺し」です。事ここに至り、経家は秀吉の開城の求めに応じました。このとき秀吉は「経家公は兵と共に安芸に帰られたい」とすすめましたが、経家は兵と民の命を救って10月に自害して果てました。この見事な最後は武人の鑑として、高く評価されています。
内堀

内堀です。堀にかかる橋は擬宝珠橋で、中ノ御門に続いています。
擬宝珠橋から見た中ノ御門
城の地図:赤2

擬宝珠橋から見た中ノ御門です。中ノ御門は、大手筋に位置し、藩主の登城時などに開かれる特別な門でした。右側に見える建物は、三の丸跡に建てられている県立鳥取西高校です。
二の丸跡の石垣群

二の丸跡の石垣群です。右側の一番高い石垣の上には菱櫓が建っていました。菱櫓はその名前のとおり、平面が菱形の櫓でした。背後の山は標高263メートルの久松山で、山頂には山の上丸があります。近世城郭として整備される前の鳥取城は、この久松山を縄張りとする山城でした。
三階櫓跡の石垣

三階櫓跡の石垣です。三階櫓は二の丸南西角に位置し、元禄5年(1692)に山の上丸の天守が焼失した後は、鳥取城の象徴として、明治12年(1879)の解体まで、二の丸東南角の菱櫓と共に、鳥取城の風格を示し、その威容を誇っていました。写真中央の丸い穴の空いた石垣は「お左近」の手水鉢です。「お左近」は池田長幸(長吉の子)夫人の侍女で、鳥取城の工事にあたって、めざましい活躍をしました。この「お左近」の手水鉢を石垣に築きこむと、難工事であった三階櫓も無事完成したという伝説が残されています。
二の丸から見た三階櫓の石垣
城の地図:赤3

二の丸から見た三階櫓の石垣です。石垣の上には、礎石らしきものも残っています。二の丸は藩主の住む場所で、江戸時代末期には三階櫓、走櫓、菱櫓、隅櫓、鉄御門、二の丸御殿、裏御門が建てられていました。二の丸の中央には二の丸御殿の礎石が残されています。
三階櫓跡から見た中ノ御門方面

三階櫓跡から見た丸の内です。二の丸の下、西側の曲輪は丸の内と呼ばれ、中ノ御門や米蔵、武器庫が建てられていました。大きな洋館は、重要文化財に指定されている仁風閣(じんぷうかく)です。仁風閣は明治40年(1907)に、当時の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の山陰行啓の宿泊施設として建てられた、フレンチ・ルネッサンス様式の建物で、行啓に随行した東郷平八郎海軍大将が名付け親です。鳥取県で初めて電灯が灯された建物でもあります。
二の丸から見た菱櫓の石垣

二の丸から見た菱櫓の石垣です。
鉄御門跡

鉄御門跡です。鉄御門は藩主が住む二の丸の正門でした。
鉄御門から見た天球丸の石垣

鉄御門から見た天球丸の石垣です。天球丸は池田長吉の姉、天球院がこの曲輪に住んでいたことからこの名前で呼ばれるようになりました。天球丸には風呂屋御門、三層櫓などがありました。三層櫓は長方形で、長さ約24メートル、幅8メートルという大きな建物でした。平成2年(1990)からの石垣修理に伴う発掘調査で、長吉入城以前に構築された小規模な曲輪の石垣の一部が発見されました。
山の上丸への登り口
城の地図:赤4

山の上丸への登り口です。二の丸のこの登り口から、山の上丸まではかなり急な登山道が続きます。私の足では約25分かかりましたが、体力のある人ならもっと早く到達できると思います。ちなみにこの先には「くま注意」の看板が…鈴の用意をしていったほうが良いかもしれません。
登山道五合目

登山道五合目です。登山道には一合目から九合目まで、看板があり自分がどこまで来ているかを確認しながら登ることができます。五合目には写真のように祠があり、一休みすることができます。真夏の登城とあって、暑さと急な山道に心が折れそうだったので、「山頂までなんとかたどりつかせてください」とこの祠にお祈りをしました。
登山道途中の石垣

登山道途中の石垣です。登山道七合目辺りには石垣が残されています。また、登山道でもっとも険しいのが七合目、八合目辺りのようで、急な階段が連続します。
山の上丸の本丸跡

山の上丸の本丸跡です。山の上丸は久松山の山頂を大きく切り開き、その周りを石垣で囲んで築かれ、さらに細かく、本丸、二の丸、三の丸、出丸に分けられています。本丸には天守、車井戸、多門櫓、月見櫓等などが建てられていました。
本丸跡天守台
城の地図:赤5

本丸跡天守台です。この天守台の上に天守櫓が建てられていましたが、元禄5年(1692)に落雷により焼失してしまい、以後再建はされませんでした。その他の建物は明治維新まで残っていました。
本丸跡天守台から見た日本海

本丸跡天守台から見た日本海方面です。天守台からは日本海、鳥取砂丘、千代川、湖山池を一望することができます。千代川は鳥取城の重要な補給線で、羽柴秀吉の鳥取城攻めの際には、河口で織田水軍と毛利水軍の戦い(湊川口の戦い)が繰り広げられました。また、鳥取砂丘の砂の原料を運んだ川でもあります。
本丸跡から見た鳥取市街

本丸跡から見た鳥取市街です。市街地の向こう、はるか遠くには中国山地が広がっています。
復元城門
城の地図:赤6

復元城門です。久松山を下山し、再び山下の丸へ向かいます。この城門は、右膳の丸に続く道の途中にあり、鳥取城内に残る唯一の城門でした。しかし、昭和50年(1975)の台風で倒壊したため、同年に復元されました。
内堀越しに見た久松山全景

最後に、内堀越しに見た久松山全景です。山頂付近に、木のない場所がありますが、そこが山ノ上丸の本丸跡になります。
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