金山城
かなやまじょう
別名 | なし |
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形態 | 山城 |
主な築城年と築城者 |
文明元年(1469) 岩松家純 |
主な城主 | 岩松氏、由良氏、後北条氏 |
所在地(旧国名) | 群馬県太田市金山町40-98ほか(上野) |
アクセス |
東武鉄道 太田駅
↓徒歩(約40分)
史跡金山城跡ガイダンス施設
↓徒歩(約15分)
山上駐車場
太田の中心市街から金山城までのルートは城の地図をご確認ください。
太田市の金山城案内サイトはこちらをご確認ください。
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概要 |
標高239メートルの金山山頂の実城を中心に三方に伸びる尾根に築かれた西城・北城(中坂城)・八王子山ノ砦の四つの曲輪郡からなる複合的な城郭である。
城域は東西約3.1キロメートル、南北約3.8キロメートルに及ぶ。関東地方では珍しく石垣が多様されており、廃城時期から考えるとその構築時期は少なくとも16世紀末にまで遡る。
豊臣秀吉による小田原攻めまで以前の関東地方の城には本格的な石垣は存在しないという定説を覆した城である。
難攻不落の名城として知られ上杉謙信、後北条氏の撃退し力攻めで落城することはなかった。
-----------主な歴史------------
・文明1年(1469)岩松家純が築城
・明応4年(1495)横瀬氏(後、由良氏に改姓)が岩松家の実権を握る
・永禄8年(1565)由良成繁、北条氏の金山城攻撃を撃退する
・天正2年(1574)由良成繁、上杉謙信の金山城攻撃を撃退する
・天正13年(1585)後北条氏に金山城が徴発される
・天正18年(1590)小田原攻めで開城。後北条氏滅亡により廃城となる
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案内図など | 現地案内図(3000x1550) |
登城日 | 2022年10月29日 |
おすすめ度 | ☆☆☆☆ |
感想など
・アクセス
金山城の最寄り駅は東武鉄道の太田駅ですがかなり距離が離れています。
金山山麓の史跡金山城跡ガイダンス施設には太田の市街地を通り抜け、緩やかな登り坂の車道を40分ほど歩くと到着します。
そこからさらに金山の登山道を山上駐車場まで徒歩15分ほど登ります。未舗装の山道ですが整備は行き届いて降り歩きやすいです。
・感想
まさか関東平野の北端にこれだけの石垣の城があるとは思っていませんでした。
中世城郭とは思えないほどの規模、ましてや石垣不毛地帯とされる関東地方でこれだけの石垣を有しているのは驚きの一言です。中世城郭として考えれば石垣先進地域の西日本の城にも匹敵するレベルだと思います。
現在見ることできる石垣はほとんどが発掘調査に基づいて復元されたものですが、本丸裏にはわずかですがオリジナルの石垣も残っているのでお見逃しなく。
自動車で山上駐車場まで行けば中心部である実城はすぐですが、その難攻不落ぶりを実感できる徒歩での登城をおすすめします。
私は山城は麓から歩く、をモットーにしています。山城なので眺めもよく、天候がよく双眼鏡があればスカイツリーも見えると思います。
お城に興味のない方でもハイキングとして訪れるのもおすすめできます。
今回は時間の都合で実城のみの見学でしたが、いずれは西城や北城なども含めじっくりと見学したい、もう一度来たいと思わせる城です。
登城記
1. 史跡金山城跡ガイダンス施設〜金山城跡の石碑
金山遠景
史跡金山城跡ガイダンス施設
ガイダンス施設と金山城
登山道入口
竪堀
山上駐車場展望台からの眺め
金山城跡の石碑
太田駅近くのホテルに前泊し当日は晴天の中、朝から登城しました。
太田の中心市街地を抜け大門通りを北に向かいます。名刹大光院を左、スバルの工場を右に見ながら緩やかな上り坂の車道を北に向かって約40分、距離にして約3キロを歩くと史跡金山城跡ガイダンス施設に到着します。
史跡金山城跡ガイダンス施設は金山来訪者の拠点として平成21年(2009)に開館しました。隈研吾氏による設計で、金山城の石垣をイメージした外壁はとても目立ちます。入館料は無料で金山城出土品の展示や歴史を紹介しています。金山城の全体マップもここで手に入るのでまずはここで予習をしてから登山へ挑みます。
金山城への登山道はガイダンス施設裏の小川に架かる橋が入口になります。登山道の途中ではいくつかの竪堀を見ることができます。
約15分ほど登山道を登ると金山城最寄りの山上駐車場に到着します。山上駐車場にはトイレと展望台があり南の眺望が開けており、太田の街とその先に広がる関東平野を一望できます。条件が良ければスカイツリーも見えることでしょう。
山上駐車場から100メートルほど歩くと金山城跡の石碑があり、ここから先が平成4年(1994)からスタートした史跡金山城跡環境整備事業で復元が行われたエリアになります。「敵を惑わす複雑な通路形態」の復元を目指したこの事業は平成13年(2001)年に完了しました。
2. 金山城跡の石碑〜物見台下虎口
西矢倉台西堀切
桟道(かけはしみち)
西矢倉台下堀切
西矢倉台通路
西城から実城(本丸)までの間には尾根筋を分断するための堀切が四つ設けられていました。
堀切のうち最初のものが西矢倉台西堀切で、他の堀切とは異なり堀底に石を敷いて通路として利用されていました。この通路の先には桟道(急斜面に沿って柱を建てその上に板を貼って通路としたもの)が設けられれ、西矢倉台へと続いていました。古い時期には西矢倉台西堀切底の通路を経ずに、桟道に直接通路が接続していたようです。
桟道も史跡金山城跡環境整備事業で復元されましたが、復元から20年ほどが経ち損傷が激しかったのか取り壊されているようで、現在は立入禁止となっています。
西矢倉台下堀切は一般的な堀切で、通路としての利用はされていなかったようです。
西矢倉台通路では新旧二時期の通路が確認されており、外側(谷側)が旧時期、内側(山側)が新時期であると考えられています。
新しい通路を作る場合は外側につくるのが一般的ですが、ここでは急斜面となる外側を避け、より安定した内側に通路を作り直したようです。岩盤には12個の柱穴が見つかっており、木柵あるいは土木工事用に伴う柱の跡と考えられています。
3. 物見台下虎口と馬場下通路
物見台下虎口正面
物見台下虎口と物見台
物見台下虎口石垣
物見台下堀切
物見台下虎口背面
石敷き通路と木橋
竪堀
馬場下通路案内板
金山城最初の見どころがこの物見台下虎口です。山城らしい細道をしばらく登り視界が開けた先にこの石垣が現れます。中世城郭とは思えないその様子に思わず感嘆の声を上げてしまいました。
馬場下通路は物見台下土橋〜物見台下虎口〜石敷き通路〜木橋で構成され、外側(谷側)には敵を威圧するための土塁石垣が通路に沿って約22メートルに渡って設けられています。
物見台下土橋手前では道幅を狭くして通りにくくし、物見台下虎口石垣上から敵への攻撃を行うようになっていました。おそらく当時はこの石垣上に渡櫓形式の城門があったと思われます。物見台下虎口の石垣は隅が丸くなっており近世城郭ではあまり見られない造りとなっています。積石も比較的小さく近世城郭の石垣とは趣が異なります。後述する物見台からは土橋と虎口を直下に見下ろすことができ、攻撃も容易だったことでしょう。
土橋の架かる物見台下堀切はゴツゴツした岩盤がむき出しになっています。これは山を人工的に削ったもので、ここからも石材が入手できたことが伺えます。石材の地産地消というわけです。
石敷き通路の先は左に木橋、右は竪堀に下りる階段が設けれらています。竪堀に下りる階段は敵兵を騙すための偽通路で正しい通路は木橋になります。竪堀の両脇の石垣も階段状に構築され、高さは低いですが一見すると登り石垣のようで立派なものです。この石垣上から偽通路に迷い込んだ敵兵を攻撃することができました。
4. 馬場下通路〜物見台
馬場下通路
物見台の曲輪
物見台
物見台から見た物見台下虎口
物見台からの眺め360度パノラマ
木橋を渡ると馬場下通路は行き止まりとなっています。これは敵兵を惑わすための仕掛けで、左側階段を登るのが正しい通路で物見台のある曲輪に続いています。馬場下通路からは礎石建物一棟、掘立柱建物一棟の跡が確認され、現在は建物位置の表示が行われています。
馬場下通路内側(山側)の尾根上、馬場下通路に沿って続く細長い曲輪の西端には物見台が設けられていました。物見台の名前の通り直下に物見台下虎口、物見台下土橋、物見台下堀切を見下ろすことができ、監視と攻撃の重要な拠点でした。
現在は木々に囲まれ少々視界が悪くなっていますが、かつては周囲を見渡すことができたと思われます。物見台からの視界を攻め手も考慮していたようで、天正2年に上杉謙信は物見台からの死角となる藤阿久に陣を構えています。
現在でも北と南の視界は開けており北は日光男体山や上毛三山、南は太田の街と関東平野を見渡すことができます。
5. 馬場曲輪〜月ノ池
馬場曲輪
石組み排水路
馬場曲輪
大堀切
馬場下曲輪から見た大手虎口方面
月ノ池
月ノ池と大堀切
月ノ池案内板
物見台のある曲輪から東に進み馬場下通路と同じ高さまで下ると馬場曲輪に至ります。
馬場曲輪は上下二段の石垣と孤を描く根石列で区画された小さな曲輪で構成されています。発掘調査では岩盤をくり抜いた柱穴が240個以上見つかり、位置関係から建物や柵列があったことがわかりました。建物の建替えや曲輪の造成が複数回行われており、頻繁に作り替えが行われていたようです。曲輪の中央部分には石組み排水路も見つかっています。
大堀切は金山城の最重要防衛拠点である大手虎口の目前にあり、長さ約46メートル、幅約15メートル、深さ約15メートルと大規模なものです。発掘調査の結果、尾根を形成する岩盤を深く掘り下げ、堀底は平らに削られていることがわかりました。堀底には高さ約1.5メートルの石積みの畝が一箇所見つかっており敵兵の堀底での移動を防いでいました。
月ノ池は発掘調査により上下二段の石垣で囲まれた戦国時代の池であることが明らかになりました。池の底は粘土層になっており、谷斜面からの表流水や浸透水が溜まるようになっています。元々石垣は一段だったようですが、集中豪雨時に水が溢れたと考えられ、水が溢れないように、かつ水をより多く溜められるように石垣が二段に改修されたようです。大手虎口手前の通路脇に位置する月ノ池は、満々と水を蓄えたその姿を来訪者に見せることで、長期の籠城にも耐えられることをアピールするものでもあったのではないかと考えられています。
6.大手虎口
大手虎口
大手虎口
大手虎口石垣
土塁石垣
大手虎口南上段曲輪
石垣排水溝
大手虎口北下段曲輪
大手虎口北下段曲輪石垣
石垣改修の露出展示
大手虎口南上段曲輪と復元建物
土塁石垣から見た大手虎口
大手虎口案内板
月ノ池の先には金山城最大の見どころである大手虎口が堂々たる姿を見せてくれます。規模は劣りますが、総石垣で固められたその姿は
安土城の大手道を彷彿とさせます。これだけ大規模な石垣は関東の中世城郭、ましてや山城としては異例中の異例です。
大手虎口は金山城中枢部を守る一大防御拠点として、また「城の格」を示す象徴的な場所となっています。谷地形を利用して築かれ、谷底には突き当りの土塁石垣まで大手通路が約30メートル続きます。大手通路の両脇には階段状にいくつもの小曲輪が総石垣で築かれています。
大手虎口入口に立つと実際より最奥部までの距離があるように感じますがこれは錯覚によるものです。大手通路は虎口入口付近で幅4メートル、奥に進むほど幅が狭くなり最奥部では幅1.8メートルとなります。さらに両脇を石垣で囲み右に向かって緩やかにカーブさせることで先を見通せないようにしています。これらの工夫により遠近法が強調され、実際の規模以上に奥行きがあるように感じるようです。
谷地形である大手虎口は雨がふるとすぐに水が集まり石垣を崩してしまう恐れがあったため排水対策に力が入れらています。曲輪の各所には水路や排水溝を設け、曲輪面に傾斜や段差を設け水が溜まらないに工夫されています。集められた排水は最終的に大手通路の排水溝に流れ込むようになっていました。
ここで少し気になったのは虎口入口左右石垣の隅で、かなりしっかり角があり算木積みを志向しているように見えます。このあたりは復元にあたり少し盛ったのでは?とも思いました。ただ、石垣構築時期が北条氏時代末期とすれば、すでに安土城や大坂城が築城されており西日本には初期算木積みの技術がありました。もしかしたら西日本の最新技術を取り入れていたのでは、と考えると楽しいものです。
7. 南曲輪〜本丸
金山城模型
金山城模型
日ノ池
新田神社
本丸腰曲輪
残存石垣
残存石垣
大ケヤキ
大手虎口のを見下ろす南側の尾根上には南曲輪があります。南曲輪からは南側に眺望が開け、太田の街と関東平野を一望することができます。現在は休憩所やトイレが建てられ、日本100名城スタンプもここに設置されています。金山城全体模型もあり、歩いただけでは分かりづらい金山城の全体的な地形を俯瞰することができます。
日ノ池は直径約15メートルのほぼ円形の池で、発掘調査によって石垣や石敷、二箇所の石組み井戸、石階段などが発見されました。谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を貯める構造になっていました。山上では珍しい大池であり金山城でも象徴的な場所の一つです。
このことから単に生活用水を溜めるための場所ではなく、戦勝や雨乞いなどを行う一種の聖地としての役割を果たしていたと考えられています。水の信仰と関わる平安時代の遺物も発見されていることから、築城前から聖地とされていたようです。
金山山頂の本丸には新田義貞を祀った新田神社があります。現在の太田市のあたり、新田荘は新田氏始祖である新田義重ゆかりの地で新田氏末裔を称した徳川家康から庇護されていました。そのため金山城の麓には新田義重追善のために大光院が建立されています。
本丸周りの腰曲輪は一周することができ、新田神社裏側には復元ではない当時の石垣が残っています。大手虎口のあたりに比べ人も少なく、ゆっくりとした雰囲気でこれぞ古城といった趣のある場所です。
新田神社の手前には推定樹齢800年、幹周り6.8メートルの大ケヤキがあります。昭和初期まではケヤキの大木が7本あったといわれていますが現在はこの一本を残すのみです。金山城の興亡を見てきた歴史の証人です。
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