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現在、甲府城跡は中央本線により南北に分断されており、甲府駅のホームから石垣を見ることができます。かつて甲府城には南側の追手御門、北側の山手御門、西側の柳御門の三つの門があり、そのうち北側の山手御門が平成19(2007年)に発掘調査に基づき野面積みの石垣と建物が木造復元されました。山手御門は高麗門と渡櫓門で枡形を形成しています。写真は山手御門外側の高麗門で、幅約5メートル、高さ約6メートルの大きさです。
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山手御門内側の渡櫓門です。幅約14メートル、高さ約11メートルの大きさです。
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山手御門と中央本線の向こう側にある稲荷櫓、天守台を一緒に撮影しました。
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山手御門から中央線を挟んで南側は石垣が残り、舞鶴城公園として整備されています。平成16年(2004年)に稲荷曲輪にあった稲荷櫓が木造復元されました。稲荷櫓を載せる石垣は高さ約14メートル、櫓の高さは約11メートルあり、下から見上げると結構な高さがあります。このとき石垣も合わせて修復されたましたが、痛みが激しく表面に見える石材はほとんど修復対象となりました。痛んで割れた石材は裏栗石などに再利用されています。稲荷櫓の内部は甲府城から出土した瓦や甲府城関係の資料を展示しています。
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同じく稲荷櫓です。
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天守台です。実際に天守が建っていたかは不明です。少なくとも江戸時代を通して天守はなかったため、建っていたとしたらそれ以前の織豊系の古い形式の天守が建っていたのではないかと言われています。
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天守台にあった矢穴です。矢穴は大きな石を割るために開けた穴のことで、ここに楔を打ちこんで、石を割りました。
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天守曲輪と本丸をつなぐ鉄門跡です。大きな石材が使用されており、築城当時の礎石が残されています。ここでひとつ疑問が…普通、天守曲輪は本丸より内側にありそこに天守台があるはずなのに、甲府城案内図を見ると天守曲輪の内側に本丸がありそこに天守台があります。なぜこのような構造になったのでしょうか?
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稲荷曲輪と鍛治曲輪をつなぐ稲荷曲輪門です。甲府城は享保12年(1727年)に大火にあい、多くの建物を焼失しましたが、稲荷曲輪門は焼けずに明治初年まで残っていました。平成11年(1999年)に復元されました。写真のとおり、大変窮屈な場所に建っており、軍勢を通りにくくするという城門本来の役割を十分果たしています。
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鍛治曲輪にある石切場跡です。甲府城の石垣のための石材を切り出していました。もともと甲府城のある丘は一条小山と呼ばれており、この山を整形して城が築かれました。この石切場だけで甲府城の全ての石材をまかなったとは思えませんが、石材を現地調達していたとは驚きです。
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鍛治曲輪から天守曲輪、本丸を望む。三重になった石垣が見事です。
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一の堀です。かつて一の堀は甲府城中央の内城部分をぐるっと囲んでいましたが、現在は南側のこの部分が残るのみです。
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鍛治曲輪と楽屋曲輪をつなぐ鍛治曲輪門です。明治のはじめまで残っていました。平成8年(1996年)に復元されました。楽屋曲輪には現在山梨県庁が建っています。
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屋形曲輪と二の丸のつなぐ内松陰門です。明治の初めまで残っていました。平成11年(1999年)に復元されました。
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