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デジカメを買ってふと思い立った城めぐり。その記念すべき第一号の城が松本城でした。松本駅から歩いて20分ほどで国宝松本城の石碑がある入り口に到着。ですが、その前に入り口前のお店で腹ごしらえ。メニューはもちろん信州そばです。
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真っ直ぐ進むと本丸の正門である黒門があります。一の門(奥の櫓門)は昭和35年(1960年)に復元され、手前の二の門(高麗門)とそれに続く袖塀は平成2年(1990年)に復元されました。
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同じく黒門を別角度から撮影。黒門の奥に見える大きな瓦屋根は平成11年(1999年)に木造復元された太鼓門です。
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黒門の櫓門に施されていた“五七桐”の紋です。パンフレットを見たところ松本城の歴代城主にこの家紋を使用している家はないためなぜこの飾りを施したのかはわかりません。
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同じく黒門の櫓門に施されていた“丸にはなおもだか”の紋で、これは寛永19年(1642年)から享保10年まで城主をつとめた水野氏の家紋です。
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本丸から見た天守群です。左から月見櫓、辰巳櫓、天守、渡櫓、乾小天守がつながった複合連結式天守です。天守、渡櫓、乾小天守は石川康長により文禄2年(1593年)から文禄3年(1594年)にかけて築かれました。天守は望楼型と層塔型の特徴を持ち合わせた造りになっており、本来なら大入母屋を設けその上の層で下層階の歪みを補正するのですが、松本城では大入母屋を設けず無理やり補正しています。下層階の歪みは平面図を見ると一目でわかります。月見櫓と辰巳櫓は江戸時代に増築されたものです。
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月見櫓下より天守群を撮影。月見櫓はその名の通り月見をするためにつくられた櫓で、城郭建築に似つかわしくない開放的な造りになっています。寄棟造りで、北面、東面、南面に朱塗りの回宴を設け、さしずめ貴族の舘のような趣です。板の間ですが、敷居と段差があるためかつては畳が敷いてあったのかもしれません。板の間ではゆっくりできなさそうですし…
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乾小天守下より天守を見上げて撮影。どっしりとした重厚感がある天守です。
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内堀を渡り北西から天守群を撮影。天守五層目がなんとなく大きく見えます…手前の赤い橋は埋の橋で昭和30年(1955年)に造られた橋で、埋門跡から架けられたためこの名前が付きました。この橋は中央部で折れ曲がっているのが特徴です。小さい頃に童友社から発売されている松本城のプラモデルを作った時、この橋を見て“松本城=折れ曲がった赤い橋”の印象が強烈に残っています。なお、昔はこの場所に橋はなく、足駄塀という堀を仕切るための塀が建っていました。
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内堀越しに南西から天守群を撮影。ここからみる天守群の眺めはすばらしいです。松本城の堀には曲線が多いのですが、これは前身である深志城のなごりと言われ、土塁で構築された中世城郭の特徴になります。
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内堀越しに南から天守群を撮影。こちらから見る天守は太った感じで、安定感があります。石垣は野面積みで、堀の水面から6メートルほどの高さで傾斜はゆるく直線的で古い造りになっています。
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内堀越しに東から天守群を撮影。この当たりにはかつて二の丸御殿が建っていました。こちらから見る天守ですが、私は少々アンバランスな印象を受けました。その理由は天守東面の一、二層目は同じ幅、三層目を小さくし、四、五層目は再び同じ幅となっているからだと考えています。また目の錯覚によるものなのか、私にはどうしても四層目より五層目が大きく見えてしまいます。南面は五層目の幅が四層目より小さくなっているので、安定感があるように感じました。
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最後に二の丸から見た外堀です。松本城の堀は内堀は完全に、外堀は一部を除き、総堀は東側のみが残った状態になっています。その縄張りは前身である深志城のものをほぼ踏襲しており、総堀にに面した各門では武田氏が好んで使用した丸馬出しと、三日月堀が引き続き使用されていたようです。
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城めぐり第一弾ということで太鼓門など撮り忘れた写真が多数あります。この頃はWebサイトを作るとは考えていなかったのであまり写真を撮っていませんでした。松本はそれほど遠くないのでいずれ再登城して、写真撮影&資料集めをしたいと思っています。
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