熊本城 くまもとじょう |
別名 | 銀杏城 |
形態 | 平山城 |
築城年 | 慶長6年(1601) |
築城者 | 加藤清正 |
主な城主 | 加藤氏、細川氏 |
所在地旧国名 | 肥後 |
所在地 | 熊本県熊本市本丸1-1 |
アクセス |
●徒歩によるアクセス JR鹿児島本線、同九州新幹線 熊本駅から熊本市電A系統に乗り換え熊本城前駅下車。 熊本城前駅から徒歩10分。 |
アクセスレベル |
●徒歩でのアクセスレベル ☆☆☆☆☆ |
概要 |
●戦国時代 熊本城は文明年間(1469年-1487年)に出田秀信が千葉城を築いたことに始まる。その後出田氏の勢力が弱まると、鹿子木親員(寂心)が千葉城に程近い場所に隈本城を築城した。 ●安土桃山時代 天正15年(1587)に豊臣秀吉の九州征伐が始まると、島津氏に属していた城主、城久基は城を明け渡し、新たに佐々成政が隈本城に入った。しかし肥後国衆一揆が発生したた切腹を命じられた。 変わって、加藤清正が天正16年(1588)に肥後北半国の領主として隈本城に入った。清正は天正19年(1591)から千葉城や隈本城のあった茶臼山一帯に新城を築き始め、慶長5年(1600)頃には天守が完成している。 城全体の完成は慶長11年(1606)で、城の完成を祝い地名を隈本から熊本に改めた。この間、清正は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により肥後一国54万石の大大名となっている。 ●江戸時代 寛永9年(1632)に清正の子、忠広が改易されると、豊前小倉藩主細川忠利(細川忠興の子)が肥後一国の領主となり熊本城に入った。 加藤家の治世末期は藩財政悪化や、お家騒動により城の修理もままならない状態であった。そのため忠利は入城後、ただちに熊本城の修理を行っている。このとき本丸の増築などが行われ、現在の縄張りが完成した。 ●明治時代以降 明治維新後、全国の他の城と同様に城を解体する方針が決まったが、熊本藩内の派閥争いのため、この方針は凍結され、代わりに城内が一般に公開されることになった。 廃藩置県後、城内には熊本県庁や熊本鎮台が置かれた。このとき老朽化した櫓の破却が行われている。特に西出丸は石垣を取り壊し、曲輪自体が破却されている。 西南戦争では西郷軍の総攻撃の二日前、原因不明の出火により大小天守や本丸御殿など、多くの建物が焼失した。このとき焼失を免れた建物も、多くが大正期までに陸軍により破却されている。 昭和35年(1960)には鉄筋コンクリート造りで大小天守が外観復元され、平成に入ってからも飯田丸五階櫓や本丸御殿の木造復元など、積極的な整備事業が続けられている。 |
遺構 |
普請:石垣、堀 作事:宇土櫓、長塀など現存建築物多数 天守:昭和35年(1560)に外観復元された大小天守 |
登城日 | 2011/08/08 - 08/09(二日間に渡る登城のため両日の写真が混ざっています) |
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。 |
1. 棒庵坂 |
2. 北大手門跡 |
城の地図: |
北大手門は西出丸に設けられた3つの大手門のうちのひとつです。外枡形門ですが、内側の渡櫓門のみ建てられ、外側の高麗門や薬医門は建てられていませんでした。熊本城では、他の枡形門でも同様に、外側の高麗門や薬医門は建てられていなかったようです。 |
3. 戌亥櫓 |
城の地図: |
戌亥(いぬい)櫓は西出丸の北西隅に位置する櫓です。二重三階の櫓で、平成15年(2003)に木造復元されました。古式な望楼型櫓です。熊本城では大小天守をはじめ、すべての多重櫓が望楼型となっています。 |
4. 二の丸跡からの眺望 |
城の地図: |
|
西出丸の西側には二の丸跡があります。二の丸にはかつて上級藩士の侍屋敷や、藩校の時習館がありました。現在では広場や駐車場として整備されています。 二の丸跡から東を見ると、大小天守、宇土櫓を一望することができます。一枚目の写真左が小天守、中央が宇土櫓、右が大天守です。 |
5. 未申櫓 |
城の地図: |
未申櫓は西出丸の南、奉行丸の南西隅に位置する櫓です。二重二階の櫓で、平成15年(2003)に木造復元されました。 なお、奉行丸は立ち入り禁止区域になっていました。 |
6. 西大手門 |
7. 南大手門 |
城の地図: |
|
南大手門は西出丸に設けられた3つの大手門のうちのひとつです。外枡形門で南に向かって門が開かれています。3つの大手門のうちで最も規模が大きく、渡櫓門の幅は34メートルにもなります。平成14年(2002)に木造復元されました。 かつての登城ルートは、西出丸の北大手門、西大手門、南大手門のいずれかから、頬当御門を通り本丸へ向かうようになっていました。 |
8. 西出丸 |
9. 備前堀 |
城の地図: |
備前堀は熊本城唯一の人口の水堀です。東から南にかけては坪井川を水掘と見立てていました。名前の由来は、加藤氏時代に前国主佐々成政の一門、佐々備前がこの近くに屋敷を構えていたからと伝えられています。 備前堀横の南坂を登り切ると南大手門があります。 |
10. 櫨方門跡 |
城の地図: |
櫨方門(はぜかたもん)は坪井川にかかる御幸橋を渡って最初にある門です。渡櫓門を持たない簡単な造りの門だったようです。御幸橋が掛かる前は、この門の前面に下馬橋が掛けられ、櫨方門の前を通り南大手門に向かうようになっていました。 門を囲む石垣の上には数年前まで昭和41年(1966)に外観復元された馬具櫓がありましたが、老朽化のため取り壊されました。近々木造で再び復元されるそうです。 |
11. 竹の丸 |
|
|
竹の丸は熊本城南側に坪井川に沿って築かれた曲輪です。坪井川沿いには日本最長の現存塀建築である長塀が残っています。竹の丸から北を見ると、高石垣越しに大天守を見ることができます。 3枚目写真中央の石垣上にはかつて竹の丸五階櫓が建てられ、その手前に渡櫓門の元札櫓御門がありました。竹の丸から元札櫓御門を通って飯田丸に至るルートは、熊本城で最も堅固なつくりとなっています。最初に元札櫓門をくぐり、階段を登りつつUターンを二度繰り返し、竹の丸五階櫓と接続する渡櫓門をくぐると飯田丸へたどり着きます。このルートは常に竹の丸五階櫓から見下ろされ、両側には土塀と多聞櫓が連なり四方から攻撃を受け続けるようになっていました。5枚目の写真はこの通路を東竹の丸から見下ろしたもので、写真中央左の石垣上に飯田丸五階櫓が建てられ、右側の通路に二つ目の渡櫓門がありました。この通路こそ織豊系城郭の最高到達点と言われているそうです。 (この通路の動線を城の地図に示しました) |
|
城の地図: |
|
城の地図: |
12. 飯田丸五階櫓 |
13. 二様の石垣 |
城の地図: |
|
本丸御殿下のこの石垣は二様の石垣と呼ばれています。熊本城の石垣は基本的に打込みハギで積まれています。しかし二様の石垣では隅石の工法が異なっています。 手前の石垣は隅石が長辺、短編ともに同じ長さの石を積み、傾斜もかなり緩やかです。奥の石垣は長辺が短辺の倍以上の長さの石を交互に積む「算木積」と呼ばれる工法で積まれ、傾斜も急になっています。算木積みは慶長10年(1605)頃に完成した工法で、清正による熊本築城時にはまだ発展期でした。このことから手前の石垣は清正築城時のもので、奥の石垣は細川忠利の代に、本丸御殿増築のため積み足されたものと考えられています。熊本城ではこのような隅石の工法の違いが各所で見られ、石垣の構築年代を推定することができます。 |
|
14. 大小天守 |
城の地図: |
|
大小天守は加藤清正が築き、少なくとも慶長6年(1602)頃には完成していたと考えられています。大天守は三重六階地下一階、小天守は二重四階地下一階の造りで、大小天守ともに穴蔵を設けた、望楼型の天守でした。外観を見ると大天守は五重、小天守は三重のように見えますが、熊本城では大天守二重目と四重目、小天守二重目の屋根は庇(ひさし)とされているためです。大天守の高さは石垣を含めないで約30メートル、小天守は19メートルとなっています。大小天守は一列に並ばず、小天守が北にずれています。これは当初、熊本城の大手門が本丸東側の東櫓御門であったため、東側からの景観を重視したためとされています。 天守完成時にはまだ本丸御殿は築かれておらず、内部には御殿として使用するために畳が敷かれていました。特に最上階は御上段と呼ばれ、廻縁を巡らし、南北に唐破風を設け、狩野源七の「若松」「秋野花」の障壁画で飾り豪華な造りになっていました。この御上段の様子は大天守内に展示されている模型で伺うことができます。 大天守には大きな武者返しが設けられています。これは石垣を登ってきた敵が、天守に張り付くの防ぐための庇で、熊本城大天守の特徴のひとつです。 入り口は大天守と小天守それぞれに設けられ、大天守入り口は本丸御殿と接続し、小天守入り口は裏五階櫓の下から階段を登った場所にありました。 小天守は文書によれば御上(夫人のための住居)として建てられたことになっています。また、小天守の地下には井戸が掘られています。これらのことから大小天守は、天守の初期形態である住居的要素を多く持っていたようです。 加藤清正が築いたこの大小天守は西南戦争で消失しました。現在の大小天守は昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造りで、外観復元されたものです。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
15. 宇土櫓 |
城の地図: |
|
宇土櫓は熊本城内に残る唯一の多重櫓で、三重五階地下一階、望楼型の櫓です。高さは石垣を含めないで約19メートルあり、この規模から第三の天守とも呼ばれています。13番目の現存天守と呼ぶ人もいるそうです。古くから小西行長の宇土城天守を移築したものと伝えられこの名前の由来となっていました。しかし、解体修理の調査などから熊本城内で創建されたものであることがわかりました。加藤清正による創建当初は、二重二階地下一階の櫓で、後に三重目を増築、一重目と二重目をそれぞれ二階に改築したため、現在の三重五階地下一階の構造になったと考えられています。屋根瓦の中には創建当初のものも残り、加藤氏の家紋、桔梗門を持つものもあります。西南戦争の際の火災では、折からの強い西風で、風上にあったことから、運良く消失をまぬがれています。 熊本城には宇土櫓の他に4つの五階櫓がありましたが、裏五階櫓も宇土櫓と同様に、創建当初は二重櫓で、後に三重目を増築したものと考えられています。 |
|
|
|
|
16. 数寄屋丸二階御広間 |
城の地図: |
|
数寄屋丸二階御広間(すきやまるにかいおんひろま)は数奇屋丸の南に位置する建物で、平成元年に復元されました。櫓としなかったのは、建物南面には鉄砲狭間や石落などを設けながら、一階は土間、二階は書院造りの座敷という変わった構造になっているためです。数奇屋丸ということで、二階の座敷では茶会や能、連歌の会などが催され、熊本城における文化的遊興の空間であったのではないかと考えられています。かつてはこの建物に続いて、西側に数奇屋丸五階櫓が建てられていました。 |
17. 地図石 |
城の地図: |
数奇屋丸の入り口にあるこの石組みは、古くから地図石と呼ばれていました。城の他の部分とは異なり、切石が綺麗に組み合わせられたこの石組みに、特別な意味があるのではないかと言われて来ました。日本地図、熊本城下町図、熊本城平面図など諸説ありました。しかし、旧藩時代の絵図には「御待合口」とあり、数奇屋丸の入口に当たることから、現在では数奇屋丸に合わせた風流な門口の敷石とされています。 |
18. 本丸御殿大広間と闇り通路 |
城の地図: |
|
熊本築城400年に当たる平成19年(2007)に記念事業として、本丸にあった御殿群のうち大広間(対面所)、数寄屋(茶室)、大御台所が木造復元されました。それらを総称して本丸御殿大広間と呼んでいます。 加藤清正によって熊本城が完成した慶長12年(1607)当時、熊本城に本丸御殿は存在しませんでした。この頃は小天守が夫人の御殿の役目を果たし、清正の御殿は近くの隈本古城にありました。本丸御殿が造られたのは慶長15年(1610)のことです。本丸御殿を造ることでそれまで東西に通る通路で南北に分断されていた本丸が一体化されることになりました。この本丸を南北に分断していた通路が、本丸御殿下の闇り通路(くらがりつうろ)になります。元々この通路は東西に抜けられるようになっておらず、熊本城の大手門が東櫓御門から西大手門に移動したときに、石垣を崩し東西に抜けられうようにしました。このとき闇り通路入口上部の大広間に唐破風を設け、特にここを闇り御門と呼ぶようになりました。 本丸御殿への入口はこの闇り通路内に設けられ、階段を登ると地下と一階の間に玄関があり、さらに階段を登ると大広間の式台之間と鶴之間に通じるという他に例を見ない造りとなっていました。 (闇り通路を城の地図に示しました) |
城の地図: |
城の地図: |
|
|
|
19. 本丸御殿大広間内部 |
|
|
本丸御殿大広間内部は部屋数25室、畳総数580枚の広さを誇る巨大な御殿で、見所が多いです。 大御台所の小屋組は日本でも最大級の小屋組です。台所ということもあり煙がこもらないよう天井が張られていないため、この小屋組を見ることができます。また換気のための天窓が設けられています。 大広間は鶴之間、梅之間、桐之間、藩主の御座となる若松之間、昭君之間などが設けられています。特に昭君之間は王昭君の障壁画や豪華な天井画で飾られ、帳台構を儲けるなど最高格式で造られています。そのためか、昭君の間は将軍の間の隠語であり、豊臣家万一の際、加藤清正が豊臣秀頼を迎えるための部屋で、城外へ通じる抜け道があったという伝説があります。このような伝説が残るのも、豊臣家に忠誠を尽くした加藤清正が築いた城ゆえでしょう。 |
|
|
|
|
|
20. 東竹の丸の櫓群 |
城の地図: |
|
本丸の下、南側から東側に広がる東竹の丸は、熊本城で最も現存建物が多く残っている曲輪です。 1枚目の写真は東竹の丸南東に位置する櫓群で、手前から源之進櫓、四間櫓、十四間櫓です。この写真には写っていませんが、この裏に七間櫓、田子櫓が続いています。3枚目の写真は東竹の丸の下に広がる竹の丸から見た櫓群で、手前から十四間櫓、七間櫓、田子櫓です。 4枚目の写真は東竹の丸北東に位置する櫓群で、左から東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓です。五間櫓の横には不開門があります。 5枚目の写真は東竹の丸北に位置する平櫓です。 熊本城が築城された慶長年間(1596〜1614)には、これらの櫓や宇土櫓を含め、城内に櫓四十九・櫓門十八・城門二十九がそびえていましたが、明治10年(1877)の西南戦争の際の火災により大半が消失しました。現在残る十三の建物はいずれも重要文化財に指定されています。 |
|
|
|
城の地図: |
21. 東櫓御門跡 |
城の地図: |
|
東櫓御門は築城当時の大手門です。かつては2枚目の写真中央の石垣上に、写真奥の東十八間櫓と並行して渡櫓門が建てられていました。 徳川幕府から一国一城令が発布されると、熊本藩でも支城の破却が行われ、水俣城、宇土城の諸侍が熊本城下に引っ越してきました。このとき城下町の改造が行われ、城内では頬当御門や西出丸の西大手門が設けられ、熊本城は東向きの城から西向きの城に変わったとされます。 |
22. 不開門 |
城の地図: |
|
不開門(あかずのもん)は東竹の丸北に位置する門です。規模は小さいですが、熊本城内で唯一現存する渡櫓門になります。 東北の方角は鬼門とされ、城においてもこの方向は塞いでも開けはなってもいけないとされ、門は設けられましたが通常は閉鎖され、死人や不浄物の搬出にのみ使われていたと言われます。このことから不開門と呼ばれています。 不開門の西には平櫓があるのですが、そのあたりは立ち入り禁止になっています。平櫓の近くには裏五階櫓と小天守の間に抜ける抜け穴があるらしいのですが… |
|
23. 須戸口門 |
城の地図: |
|
須戸口門は竹の丸南東に位置する門です。冠木門が建てられていますが、かつても渡櫓門のようなしっかりした門は建てられず、簡単な門が建てられていたようです。 現在は熊本城有料区域への入口になっており、他には頬当御門、櫨方門、不開門の計4つの門が有料区域の入口になっています。 |
25. 長塀 |
城の地図: |
竹の丸の南側、坪井川に沿って約240メートルにわたって続くこの塀は、日本で現存する最長の城郭塀建築です。 江戸時代には少なくとも三ヶ所の石落と多くの鉄砲狭間があったとされています。しかし、西南戦争で受けた被害の修復の際にこれらは取り払われてしまったと考えられています。 平成4年(1992)の台風で倒壊し、前面解体修理を行う際には江戸時代の頃の姿に復元してはどうかという意見が出たそうです。しかし、重要文化財であるため、修理のための材料はできるだけ当初のものを使わなければならず、石落の正確な数もわかないため、文化財現状維持の原則に則り石落や鉄砲狭間は復元せずに修理されました。 |
26. 熊本城全景 |
城の地図: |
熊本市役所の14階は展望ロビーとなっており、無料で解放されています。ここからは熊本城を南側から一望することができます。この眺めは城ファンならずとも一見の価値ありです。 |
地図が表示されない場合は、F5キーでページを更新してください。 |
TOP | 九州の城 | 次の城へ |