登城記
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1. 御三階
御三階は会津若松城唯一の現存建物で市内の阿弥陀寺に移築されています。会津若松城の本丸御殿の奥にあった数寄屋風の楼閣建築で、戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が消失したために明治3年(1870)に本堂として移築されてきました。外観は三重ですが二階と三階の間に天井の低い部屋があり、三階に上がるはしごは上から引き上げられるようになっており、当時は密議所に使用されていたと思われます。江戸時代にはこのような建物が全国の城にありましたが、この御三階は現存する唯一のものです。近年阿弥陀寺の御三階はそのままとして、城内に御三階を復元する計画があるそうです。
阿弥陀寺は会津若松駅の南西約1kmほどに位置しており徒歩15分程です。遠回りにはなりますが阿弥陀寺、甲賀町口門跡を経て北出丸の大手門に向かうと会津若松城大手筋の街並みをたどることができます。
阿弥陀寺
御三階
正面から撮影。玄関は御殿の内玄関を付けたと伝わる。
御三階
御三階の装飾
唐破風の鬼瓦、兎毛通、蟇股
2. 甲賀町口門跡
甲賀町口門は総構の北側に位置し、追手筋を固める最重要郭門でした。かつては東西2基の石垣がありましたが現在は西側のみが残っています。戊辰戦争では慶応4年(1868)8月23日に新政府軍がこの門を突破し北出丸へ迫りました。
古絵図では石垣上に建物は描かれていませんが使用されている石材が非常に大きく総構大手門として"見せる石垣"にしていたと想像できます。隅角部にも巨石を使用しており算木積みが完成する前の隅角処理の様子がうかがえます。裏側の隅石には蒲生氏三代忠郷時代に整備したことを示す刻銘(大正10年に再刻)があります。
甲賀町口門跡
甲賀町口門跡
巨大な築石
笑い積に見えるが周囲が合石か築石かの判別が難しい。
隅石
"蒲生源左衛門尉…"の刻銘が確認できる。
3. 北出丸
北出丸は本丸の北側に位置する曲輪で小型の馬出を寛永16年(1639)に加藤明成が曲輪に改修しました。寛永4年(1627)に滝沢峠が開かれてからは北出丸方面が会津若松城の大手となりました。絵図や文献によるとこの曲輪には大手門と櫓二棟の他にあまり建物はなかったようです。戊辰戦争では新政府軍がこの北出丸大手門まで迫りまりしたが伏兵郭からの側面攻撃もありこれを退けています。
寛永年間の改修ということで石垣の隅角部は完成された算木積みとなっており、築石は粗加工された割石を用いた打込接の布積みとなっています。
・北出丸大手門
大手門は右折れの内枡形門となっていますが二ノ門(渡櫓門)のみで外側の一の門は設けられず織豊系城郭らしさが現れています。枡形の石垣は巨大な築石を使用しているため築石同士の隙間が大きくなりがちで、その隙間に丁寧に加工した合石をはめ込んでいます。合石を使用している点では打込接ですが、石材の加工度では切込接であり分類の難しい石垣です。特に個々の築石の周囲数センチの隙間を徹底的に加工した合石で囲む技法は「頬被り」と呼ばれ、会津若松城の石垣の特徴となっています。また、雁木側壁を一石造りにして豪華にするなど甲賀町口門の石垣と同様に大手門として"見せる石垣"にしていたことがうかがえます。
北出丸
堀に面した石垣は打込接となっている。
大手門土橋から見た伏兵郭
大手門土橋に横矢をかけることができる。
大手門跡
外側から撮影。
大手門跡
雁木側壁
一石造りの豪華なものとなっている。
大手門跡枡形
大手門跡枡形石垣
簾、鑿打ちの化粧が確認できる。
大手門跡枡形石垣(頬被り)
棟門跡
外側から撮影。
棟門跡枡形
4. 椿坂・太鼓門跡
北出丸と本丸帯曲輪は高低差があるため椿坂と呼ばれる土橋と太鼓門を経て接続していました。外側の曲輪と本丸帯曲輪は三か所の門によりしていましたが、太鼓門は大手である北出丸から通じる本丸大手門となります。
北出丸大手門と同様の右折れの内枡形門ですが、やはり二ノ門(渡櫓門)のみで外側の一の門は設けられていませんでした。太鼓門の名前が示す通り渡櫓門には同径1.75mの大太鼓が置かれていました。枡形の石垣も北出丸大手門と同様の巨大な築石を使用した切込接となっています。このことから蒲生氏時代のままではなく寛永16年(1639)の加藤明成による改修が行われたものと思われ、石垣の化粧も丁寧です。
枡形を囲む石塁には城内でも有数の高さの合坂(向かい合った石段)があり、石垣をよく観察すると猪目型の築石が使用されています。猪目型はいわゆるハート型ですがもちろんハートとは関係なく、猪目型という場合はハートを横倒した形となります。枡形正面右側には遊女石と呼ばれる鏡石があり蒲生氏郷が石の運搬時に遊女を乗せて踊らせたとの伝承があります。ですが、明らかに蒲生氏郷時代の石垣ではないためこの石が伝承の遊女石ではなさそうです。
椿坂
椿坂から見た太鼓門跡と天守
太鼓門跡石垣の隅石
遊女石
石塁の合坂
猪目型の築石
5. 走長屋・本丸表門・南走長屋・干飯櫓
会津若松城本丸は天守の南と東に続く石塁で分割されており城外と接続する外側を本丸帯曲輪、内側を本丸と呼んでいます。本丸帯曲輪と本丸に高低差はなくかつてはこの石塁上に多門櫓が延々と続き本丸北面と西面を守っていました。天守南の石塁上の走長屋と本丸表門は天守とともに昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート造で復元、南走長屋と干飯櫓は平成13年(2001)に当時の建築技法で木造で復元されました。天守からは走長屋、本丸表門、南走長屋、干飯櫓の順に接続しています。
・本丸表門
本丸表門は扉や柱が鉄板で覆われており鉄(くろがね)門とも呼ばれ、本丸の大手門にあたります。戊辰戦象では新政府軍の砲弾が飛んでくる東側からの陰になることから渡櫓門の内部を松平容保の御座所としていました。
・干飯櫓
天守南の石塁上の突端に内堀に面して建てられた二重二階の層塔型櫓で妻四間、平五間の規模です。天守から南に続く走長屋は武器庫として使用され、突端のこの櫓には非常食である糒(ほしいい)が貯蔵されていたようです。かなり大型の櫓という印象を受けました。
本丸表門
外側から撮影。左に走長屋、右に南走長屋、干飯櫓が続く。
本丸表門
正面(外側)から撮影。渡櫓門が建つ石垣は切込接となっており加藤氏時代に改修されたと考えられる。
瓦片
本丸表門近くには赤瓦の破片が落ちている。
本丸表門
裏面(内側)から撮影。
本丸表門と天守
南走長屋の坂(階段)側面の築石も簾打ちの化粧を施した丁寧な造りとなっている。
干飯櫓
6. 天守
天守台は蒲生氏郷が構築したもので規模は36m×28mもあります。これは豊臣大坂城の天守平面規模を超える巨大なものです。氏郷が築いた天守は元和2年(1616)に幕府に提出された"領国絵図"には層塔型の七重で描かれており、重数こそ異なりますがその意匠は現在の五重天守と同様に描かれています。ですが天守の創建時期から見て"領国絵図"に描かれたような層塔型天守ではなく、望楼型天守であったと考えられています。仮に天守が天守台いっぱいに建てられていたのであれば、豊臣大坂城どころか後の名古屋城天守にも匹敵する平面規模となりますが、さすがにそれは考えにくいかと思います。天守台は大きく造りそこに天守台より小さい天守を築く例は織豊期の城郭にはよくあるため会津若松城も同様だったのではないでしょうか。記録には天守に金銀が散りばめられていたとあり、発掘調査では実際に金箔瓦が出土しています。蒲生氏郷は豊臣政権における東北の重鎮として92万石の大大名となりますが、それにふさわしく豊臣大坂城や聚楽第同様の豪華な天守だったことがうかがえます。
蒲生氏郷の七重天守は慶長の大地震(1611)で大きく傾き、新城主となった加藤明成が規模を五重に縮小して寛永16年に再築したのが江戸時代を通して残った天守となります。天守台はそのままで規模の小さい天守を北東に寄せて周囲に土塀を建てたため、天守台上に大きな空白地ができているのが特徴です。典型的な層塔型天守ですが格式を高めるための廻縁、切妻造と入母屋造の張出し四つ設けてアクセントとしています。東北ならではの特徴として瓦は一般的な黒色の燻瓦ではなく、凍結による割れに強い赤瓦が使用されています。
天守台石垣は会津若松城で最も古いもので天正末〜文禄期の様相をよく示しています。反りは全くなく勾配も45度ほどと非常に緩やかで、これは関ケ原の戦い以前の古い石垣でよく見られます。野面の乱積みで、隅角部は算木積みを志向するものの、まだまだ未完成で隅石の尻が平石より陥没する"痩せ石垣"も見られます。合石はまばらですが、これは丸石を使用したため噛み合わせが弱くなり脱落したものが多いためと思われます。
天守
北西(本丸帯曲輪)から撮影
天守台石垣
北西隅角部。算木積みを志向しているが隅脇石はない。
天守
西(本丸帯曲輪)から撮影。装飾は三重目の入母屋造の張出しのみ。
天守
南西(本丸帯曲輪)から撮影。走長屋と土塀の切妻屋根、二重目の切妻造の張出しがあり賑やか。
天守と走長屋
会津若松城定番の風景。走長屋入口が現在の天守への出入口となる。
天守
南東から撮影。
天守台石垣
南東隅角部。天守台の四隅で最も隅石の結合が密ではあるが痩せ石垣となっている。
天守
東から撮影。天守穴蔵に続く入口がある。
あかべこと天守
天守
北(本丸帯曲輪)から撮影。
天守廻縁からの眺め
北出丸と太鼓門方面。
天守廻縁からの眺め
北側の風景。会津若松駅と磐梯山方面。
天守廻縁からの眺め
南東方面。かつては本丸御殿のあった本丸を見おろす。御三階跡と茶室"麟閣"が写る。
天守廻縁からの眺め
南方面。走長屋、本丸表門、南走長屋、干飯櫓を見おろす。
7. 本丸帯曲輪西中門跡
本丸帯曲輪西中門は西出丸と本丸帯曲輪を接続する門で古くは弓門とも呼ばれていました。本丸帯曲輪の他の門と同様に右折れの内枡形門となっていますが、二ノ門(渡櫓門)のみで外側の一の門は設けらていませんでした。
ここでは会津若松城で最も意匠を凝らした石垣を見ることができます。外側から見て枡形の右側にあるひときわ大きな鏡石ですが、表面は簾打ちの化粧を施して高度に加工がされていますが、その外形は自然石のままで上部に出っ張りがあります。この出っ張り部分を切り取ろうとした矢穴が残りますが、切り取りは行われず模様のようになっています。出っ張りの上にはちょこんと小さな合石を帽子のように被せています。意図的に行ったとしか思えない造りで石工の遊び心がうかがえます。
本丸帯曲輪西中門跡
外側から撮影。
本丸帯曲輪西中門跡の鏡石
会津若松城で最も意匠を凝らした石垣となっている。
本丸帯曲輪西中門跡
内側から撮影。
本丸帯曲輪西中門跡から見た天守
8. 本丸
会津若松城内堀の輪郭は中世城郭の様子を色濃く残す曲線的なもので、本丸と本丸帯曲輪は堤防状の武者走りで囲まれています。この土塁上には七棟の二重櫓が建てられ守りを固めていました。現在でも武者走りに登ると月見櫓跡と茶壺櫓跡の石垣を見ることができます。
・御三階跡
本丸御殿は本丸表門を潜った正面が玄関で、左奥に向かって表向き、中奥、奥向の殿舎が連なっていました。中奥には数寄屋風の御三階がありましたが、現在は市内の阿弥陀寺に移築現存しています。しばらく前までは近代になって築かれた御三階の櫓台石垣が残されていたようですが、復元計画のためか現在は解体され櫓台の輪郭が表示されています。
・麟閣
千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられた際、蒲生氏郷は利休の子である少庵を会津にかくまいましたが、そのときに建てられたとされる茶室が麟閣です。戊辰戦争後に城下に移築されましたが、平成2年(1990)に本来の場所に再移築されました。
月見櫓跡
二重二階の層塔型で名前とは異なり常に武器が収められていた。
月見櫓跡から見た本丸
右側の塀の内側に茶室麟閣がある。
茶壺櫓跡
二重二階の層塔型で名前の通り茶器類が収められていた。櫓の下には茶室麟閣がある。
麟閣入口
麟閣茶室
麟閣から見た天守
麟閣あかべこと天守
御三階跡
御三階は阿弥陀寺に移築したものはそのままにもとのこの場所に復元する計画がある。
9. 東走長屋跡・廊下橋門跡
・東走長屋跡
東走長屋は天守の東に続く石塁上に建てられた多門櫓で、その端は廊下橋門の枡形となっていました。南走長屋に比べ折れが多用され、より防御を重視した造りになっています。石垣は天守台と同様に蒲生氏郷時代に築かれたもので荒々しい野面積みとなっています。しかし本丸側の石垣を観察すると簾打ちの化粧が施されており打込接も見られることから、改修が行われたものと思われます。
・廊下橋門跡
廊下橋門は本丸帯曲輪の搦手にあたり、門自体は比較的簡素な平門でした。しかし枡形の周囲は東走長屋から続く多門櫓で囲まれ、門手前の高石垣と相まって堅固な造りだったことがうかがえます。廊下橋門の名前の通り門前には廊下橋があり会津若松城唯一の木橋となっていました。
枡形の石垣は築石同士の隙間を埋める合石が高度に加工されており、簾打ちの化粧まで施されています。合石に丁寧な化粧が施されているのを見たのは初めてです。築石同士の隙間が広いのは自然石を用いた野面積みの特徴ですが、ここでは築石もそれなりに整形されており一見すると打込接、場所によっては間石の加工度が高いことから隙間がほとんどなく切込接に見えるほどです。この合石の徹底加工というのが会津若松城の石垣の大きな特徴です。
東走長屋跡石垣
東走長屋跡石垣
猪目型の築石
東走長屋跡石垣の本丸側で発見。
廊下橋門跡
本丸を囲む武者走りから撮影。中央に平門が建てられていた。
廊下橋門跡
内側、本丸帯曲輪から撮影。
廊下橋門跡枡形の石垣
外側から見て枡形のほぼ正面にある。合石の加工度の高さと丁寧な化粧が目を引く。
廊下橋門跡枡形の石垣
矢穴のように見えるが土塀を固定するための木材が差し込まれていた貫穴。
廊下橋門跡
外側、正面から撮影。
10. 本丸東面高石垣
二の丸に面した本丸と本丸帯曲輪の東面は堀底から直接立ち上がる急勾配の石垣となっており、高さは約20mで城内で最も高く、会津若松城のみならず東日本屈指の見事な石垣です。築石は大きさが揃えられ目地が通った打込み接ぎの布積みのとなっており、城内で最も規格化された石垣です。
会津若松城では内堀に面した石垣は鉢巻石垣が基本となっていますが、地形の影響のためかここのみ堀底から立ち上がる高石垣としています。廊下橋門は搦手であり見せるための石垣というわけでもなさそうですが、両側に続く高石垣は大手である太鼓門より貫禄があります。
廊下橋南側の高石垣
廊下橋北側の高石垣
廊下橋と高石垣
廊下橋と高石垣
本丸を囲む武者走りから撮影。
11. 二の丸周辺
二の丸は内堀の東側に位置し、本丸帯曲輪とは廊下橋、さらに東側に位置する三の丸とは東門(不明門)で接続していました。二の丸は大きく南北に二つに分けられ南側には納戸蔵、文庫、米蔵などがありました。
北側は一段低くなっており伏兵郭とも呼ばれ、その名前の通り東門から侵入した敵兵の側面を攻撃できました。また伏兵曲輪の北西からは内堀越しに北出丸の大手門周辺に横矢を掛けることができました。実際に戊辰戦争では大手門に迫る新政府軍を伏兵曲輪からの横矢で大いに苦しめ大手門突破を阻止しています。現在伏兵曲輪のあたりはテニスコートとなり、あまり整備されていないため立ち入る人も少ないようです。
東門跡(不明門跡)
外側、正面から撮影。
東門跡石垣
縦筋がいくつか見えるがこれは門の部材を固定するための窪み。会津若松城のいたる所で見られる。
東門跡脇の空堀
かつては水堀だった模様。時期的に水が枯れているだけの可能性あり。
二の丸(南側)
他の曲輪と同様に外側は土塁状の武者走りを設ける。
12. 本丸・本丸帯曲輪南面石垣
内堀に囲まれた本丸・本丸帯曲輪の南側は総構となる外堀と接近し、緩衝地帯となる曲輪がなく城下町と接していたため虎口がありません。そのため高低差が他の面より大きいため、見上げるような高さの鉢巻石垣を見ることができます。茶壺櫓から干飯櫓までの石垣は細かな折れを多用し防御を固めています。
本丸・本丸帯曲輪南面石垣
櫓台は出隅としその他細かな折れを多用している。
天守と干飯櫓
13. 西出丸周辺
西出丸は本丸の西側に位置する曲輪で、北出丸と同様に小型の馬出を寛永16年(1639)に加藤明成が曲輪に改修しました。北側に西大手門、南側に内讃岐門、北西と南西の隅に二重櫓を設けており構成は北出丸と同様でした。曲輪内には蝋蔵、漆蔵、玉薬蔵、硝煙蔵などがあり、この点は建物がほとんどなかった北出丸とは異なっています。北出丸と同様に寛永年間の改修ということで、石垣の隅角部は完成された算木積みとなっており、築石は粗加工された割石を用いた打込接の布積みとなっています。現在は駐車場として利用されています。
会津若松城の特徴として通常は外側の一ノ門(高麗門)と内側の二ノ門(渡櫓門)で構成する枡形門のうち、一ノ門は建てずに両脇の石垣のみを築いて大腰掛と呼んでいる点が挙げられます。北出丸の大手門・棟門、西出丸の内讃岐門で見ることができ、内讃岐門の大腰掛はもっとも小規模ですが構造が一目でわかるものとなっています。
内讃岐門跡の大腰掛
外側、正面から撮影。
内讃岐門跡の大腰掛
西出丸武者走りから撮影。
内讃岐門跡の大腰掛
内側、西出丸から撮影。
武者走りから見た天守と干飯櫓
西大手門跡
外側、正面から撮影。
西出丸
左端に西大手門があり出隅には西出丸北西櫓があった。