田丸城へのアクセスはJR参宮線、田丸駅から歩いて15分ほどと駅からの距離は非常に近いです。線路に隣接しているため車窓からも見ることが出来ます。
ただ田丸駅は基本的には普通列車しか停車しないため電車の本数は1時間に1〜2本と少ないので注意が必要です。
城は主要部が野面積みの石垣で固められており、一部には10メートル近い高石垣もあり見ごたえがあります。
苔むした様子、完成域に達していない算木積みなど、石垣の細部を見ると、織豊期初めの信雄時代の石垣のように見えますが、信雄時代の石垣ではないそうです。
野面積みということでより一層の古めかしさ醸し出しているのでしょう。
縄張り図を見ると各曲輪は狭く、塁線も曲線が多くこのあたり典型的な織豊期の城のように感じます。
三重県にはこの他にも松阪城や赤木城など、比較的規模の小さい石垣の名城が多く、さすがのお城先進地域です。
1. 田丸駅
田丸駅
田丸駅から見た田丸城
田丸駅は平成24年(2012)までは有人駅でしたが、現在は無人駅となっています。木造のレトロな駅舎が旅情を誘います。
駅舎側ホームには跨線橋でつながっており、この跨線橋から松阪方面を見ると正面に小高い丘が見えます。そこが田丸城になります。
田丸城の南側は参宮線に隣接しており、参宮線の車窓からも南面の高石垣を一瞬ですが見ることが出来ます。
2. 大手口と二の門
大手口
二の門
二の門石垣
二の門から大手口を望む
田丸城の大手口は外堀に面し、堀の幅は50メートルに達します。周辺は石垣造りとなっています。かつては右折の食い違い虎口となっていましたが、現在は正面の石垣が破壊され直線状に二の門へ進むことが出来ます。
二の門は左折れの食い違い虎口で、複雑に折れ曲がり、高低差があり、三の丸からの侵入に対して横矢を仕掛けることができます。石垣の隅を見ると未発達な算木積みとなっています。
二の門の内側は三の丸で、現在は玉城中学校の校地となっています。
3. 富士見門
富士見門その一
富士見門その二
田丸城の廃城時、城内には八ヶ所に門があり、富士見門は三の丸から二の丸に向かう門でした。
明治初年の城外への移築時に両側に続いていた長屋が取り除かれました。昭和59年(1984)に城内のこの場所(元の場所とは異なる)に最移築されました。
改変著しいとはいえ田丸城の現存建物はこの富士見門と奥書院の一部のみで、貴重な遺構となっています。
4. 本丸虎口
本丸虎口その一
本丸虎口その二
三の丸から本丸へ至るにはいくつかの門を抜けます。ここから内側はほぼ石垣造りとなっており田丸城の主要部になります。
この通路は平成14年(2002)度の遊歩道整備工事に伴う発掘調査で確認されたものです。石垣、門や建物礎石、出土した瓦や土師器片などから江戸時代のものであると考えられています。
これらのうち建物礎石や石垣は宝暦年間(1751〜1764)の古絵図と一致しています。しかし一部ではこの古絵図に見られない遺構も発見されています。
5. 北の丸周辺
北の丸南側堀切
北の丸
北の丸東側石垣
北の丸入口から本丸を見る
田丸城の縄張りはおおまかに丘陵上に北から北の丸、本丸、二の丸が連郭式に並び、東側の平地に三の丸を設けています。
現在北の丸には城山稲荷神社があります。北の丸と本丸の間には堀切を設け、東側は折れを多用した石垣としています。
6. 本丸
本丸虎口
本丸
天守台
天守台からの眺め
田丸城の本丸へは二の丸から入る経路と三の丸から帯曲輪を経て入る経路のふたつがあります。
この日は二の丸で工事をしており立入禁止となっていたたため、帯曲輪からのルートで本丸に入ります。
本丸の北端には独立した天守台があります。穴蔵のある古い形式で、規模は東西約17メートル、南北約18メートル、高さは約4メートルとなっています。
扇状の階段がありますが、これは当時のものではなく明治以降に改造されたものです。
写真の天守らしき建物は毎年この時期に行われている「田丸城イルミネーション」のためのもので、特に歴史的根拠はないように見えました。
このイルミネーションのため天守台は立入禁止になっており、上まで登ることは出来ませんでした。
本丸の西側は眺望が良く、平野部を一望することができます。
7. 各所の石垣
西側帯曲輪の石垣
本丸西面の石垣
二の丸南面の石垣その一
二の丸南面の石垣その二
田丸城にはこれまでにご紹介した本丸を初め、各所に見事な石垣が残されています。
野面積みで算木積みも未発達なためかなり古い石垣のように見えますが、これらの石垣は織田信雄時代のものではなく、稲葉道通によって慶長5年(1600)以降に築かれたものです。
また天守台を初めとして、その後の改修や積み直しも多いようで見た目とは異なり比較的新しい時代の石垣が多いようです。
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