小倉城に登城しました

5月の大型連休に久々の九州へ行ってきました。目的はもちろん城めぐりです。まずは九州の入口、小倉城へ登城です。
数年前(もっと前かも…)に小倉まで足を運んだことはあったのですが、そのときは悪天候と体調不良で引き返した苦い思い出があります。ようやくリベンジ達成です。

KemaAkeの全国城めぐり – 小倉城

北東から見た天守
北東から見た天守

小田原城の桜【2018】3月31日編

3月25日(日)から約一週間、まだ満開ではなかった小田原城の桜がどうなったのか、3月31日(土)も朝6時半に家を出発し、撮影に行ってきました。
私は仕事で藤沢まで通勤しているのですが、藤沢の桜はすでに散り始めていたので、小田原の桜が持っているか心配でしたが、杞憂だったようです。
一週間で見事に花が開き、満開、まさに花盛りでした。
今年は満開、休日、晴天が重なり、ここ数年で一番綺麗な桜を見ることが出来ました。お城の近くで「今年の桜は凄いねぇ」とご近所さんの井戸端会議を耳にしましたが、まさにそのとおり桜でした。これだけ見事な桜は一生に何回も見られるものではないと思うほどでした。

小田原城の桜(3月31日)#1
小田原城の桜(3月31日)#1
小田原城の桜(3月31日)#2
小田原城の桜(3月31日)#2
小田原城の桜(3月31日)#3
小田原城の桜(3月31日)#3

何年も小田原城で桜を撮影してきて、今頃になって気がついたのですが、隅櫓近くのこの当たりはソメイヨシノの他に濃いピンク色で小さい桜があるようです。花には詳しくないので種類はわかりませんが、ピンクのグラデーションが美しいです。

小田原城の桜(3月31日)#4
小田原城の桜(3月31日)#4

馬出門を入った馬屋曲輪にも桜があります。以前はここに桜はなかったような記憶があります。ここからは銅門、常盤木門、天守が一列に並ぶ姿を見ることが出来、そこに桜がくわわり絶景となってます。私のお気に入り桜ポイントになりました。

小田原城の桜(3月31日)#5
小田原城の桜(3月31日)#5
小田原城の桜(3月31日)#6
小田原城の桜(3月31日)#6

そして本丸の常盤木門を入ったところに小田原城の桜の標本木があることを今年になって知りました。今年はその木に「標本木」と張り紙がしてあったためです。3月25日(日)の時点では、この標本木とお堀端の桜ではだいぶ開花具合に差があり、標本木はかなり先行して花が開いていました。3月31日(土)にはどちらも満開でした。

小田原城の桜(3月31日)#7
小田原城の桜(3月31日)#7
小田原城の桜(3月31日)#8
小田原城の桜(3月31日)#8
小田原城の桜(3月31日)#9
小田原城の桜(3月31日)#9
小田原城の桜(3月31日)#10
小田原城の桜(3月31日)#10

天守の裏手、現在は遊園地になっている屏風岩と呼ばれる当たりの桜も見事です。ここからはピンク色の絨毯に浮かぶ天守を見ることが出来ます。
ちょっと寂れた遊園地と桜の組み合わせもなかなか良い雰囲気です。今年は遊園地のメリーカップが撤去され、残る乗り物は豆汽車とゴーカート、その他の電動遊具のみとなりましたが、昔はここに観覧車や飛行塔があったことを覚えています。

小田原城の桜(3月31日)#11
小田原城の桜(3月31日)#11
小田原城の桜(3月31日)#12
小田原城の桜(3月31日)#12
小田原城の桜(3月31日)#13
小田原城の桜(3月31日)#13

最後に小田原城の様々な場所で撮影した桜です。それぞれの撮影場所がわかったらかなりの小田原城マニアだと思います。

小田原城の桜(3月31日)#14
小田原城の桜(3月31日)#14
小田原城の桜(3月31日)#15
小田原城の桜(3月31日)#15
小田原城の桜(3月31日)#16
小田原城の桜(3月31日)#16

 

小田原 歴史的町名碑めぐり その六

小田原 歴史的町名碑めぐり その五の続きです。
これで歴史的町名碑めぐりは終了です。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三
小田原 歴史的町名碑めぐり その四
小田原 歴史的町名碑めぐり その五

077 山上横町(やまがみよこちょう)2018/03/25撮影
「町名の由来は、小田原北条氏の家臣山上強右衛門の屋敷があったためといわれている。この横町は、一丁田町と台宿町の境を東西に延びる通りで、誓願町寄りをいう。」

077-01-01_山上横町
077-01-01_山上横町
077-01-02_山上横町
077-01-02_山上横町

078 誓願町(せいがんちょう)2018/03/25撮影
「町名の由来は、誓願寺の門前にあたるためといわれている。この小町は、一丁田町の東寄りの地域をいう。」

078-01-01_誓願町
078-01-01_誓願町
078-01-02_誓願町
078-01-02_誓願町

079-01 台宿町(だいじくちょう)2018/03/25撮影
079-02 台宿町(だいじくちょう)2018/03/25撮影
「この町は江戸時代からの商人町で、後には衣類を扱う店が多かった。町内の東には、山上横町という横町があり、林角(林学)小路がこの町と一丁田町との境を西に向っている。」

079-01-01_台宿町
079-01-01_台宿町
079-01-02_台宿町
079-01-02_台宿町
079-02-01_台宿町
079-02-01_台宿町
079-02-02_台宿町
079-02-02_台宿町

080-01 大工町(だいくちょう)2018/03/25撮影
080-02 大工町(だいくちょう)2018/03/25撮影
「小田原北条氏時代、この町は、大工(この時代、鋳物師や左官、鍛冶工などの諸職の職人頭を大工といった)が住む町であったために、大工町とよばれたと伝えられている。江戸時代からは大工だけではなく商人も住むようになった。」

080-01-01_大工町
080-01-01_大工町
080-01-02_大工町
080-01-02_大工町
080-02-01_大工町
080-02-01_大工町
080-02-02_大工町
080-02-02_大工町

081 本源寺前(ほんげんじまえ)2018/03/25撮影
「地名の由来は、小田原城主大久保忠朝が貞享三年(一六八六)に下総佐倉城(千葉県)から移封された時に移した内庵の一つであった「本源寺」にちなむものである。本源寺前は、「堀川通り」、「内川通り」などとも呼ばれていた。」

081-01-01_本源寺前
081-01-01_本源寺前
081-01-02_本源寺前
081-01-02_本源寺前
081-01-03_本源寺前
081-01-03_本源寺前

082 八反畑(はったんばた)2018/03/25撮影
「小田原北条氏時代、この地には「大雲軒」(市内板橋の興徳寺の前身)という寺があった。稲葉氏時代には藩の蔵屋敷や菜園、茶園などになった。後期大久保氏時代には藩士の屋敷が多く、本源寺の東横から裏手にかけては割屋敷があった。」

082-01-01_八反畑
082-01-01_八反畑
082-01-02_八反畑
082-01-02_八反畑

083 手代町(てだいちょう)2018/03/25撮影
「地名の由来は、この地内の北西の角に「手代」が住んでいたためといわれる。ここでいう「手代」は商家の者ではなく、奉行や代官の配下の藩士たちのことである。」
石碑の脇には笠守稲荷という巴御前にゆかりのある神社があります。神社の由来書きによると小田原市内栢山の善栄寺には巴御前の墓があるとのこと。調べたところ、善栄寺には巴御前ばかりではなくその夫である木曽義仲、北条氏康夫人、二宮尊徳とその一族の墓もあるそうです。北条氏康夫人や二宮尊徳は小田原にゆかりのある人物なので驚きませんが、まさか木曽義仲と巴御前の墓が小田原にあるとは知りませんでした。

083-01-01_手代町
083-01-01_手代町
083-01-02_手代町
083-01-02_手代町
083-01-03_手代町
083-01-03_手代町

歴史的町名碑めぐり終了
一年以上をかけてサボりサボりようやくすべての歴史的町名碑をめぐることができました。
整理したところ町名数は83、石碑の数は105でした。
小田原に30年以上住んでいながら、これまで一度も足を踏み入れたことがない場所もあり、あらためて小田原城とその城下町の広大さを実感できました。
そして、それぞれの場所にかつて意外なものがあったり、今まで知らなかった小田原のエピソードを知ることができました。何気ない街並みを記録することもでき、何年か後にこの写真を見て小田原の街並みの移り変わりを感じることができればなお良いかなと思っています。

小田原城の桜【2018】3月25日編

今年も桜の季節がやってきました。
3月に入ってからも暑かったり、寒かったりとなかなか安定しない気候でしたが、ようやく安定して暖かくなってきました。
というわけで、毎年恒例の小田原城早朝桜見物に行ってきました。
開花宣言直後だったので、全体的には三分咲きといったところで満開まではまだまだでしたが、同じ小田原城址公園内でも場所によっては六分咲きくらいのところもあり、桜の環境に対する敏感さにあらためて驚かされました。

小田原城の桜(3月25日)#1
小田原城の桜(3月25日)#1
小田原城の桜(3月25日)#2
小田原城の桜(3月25日)#2
小田原城の桜(3月25日)#3
小田原城の桜(3月25日)#3

#3の写真のあたりは確か去年は桜の木がなかった場所だったので、最近植えられた桜だと思います。銅門、常盤木門、天守が一列に望める場所でお気に入りの場所です。

小田原城の桜(3月25日)#4
小田原城の桜(3月25日)#4

#4の写真の桜は本丸にある小田原城の桜標本木です。今年は木の幹に堂々と「標本木」の張り紙がしてありました。この木を基準にして開花宣言がされるようで、この木だけは六分咲から七分咲きといったところで、開花がかなり進んでいました。

小田原城の桜(3月25日)#5
小田原城の桜(3月25日)#5
小田原城の桜(3月25日)#6
小田原城の桜(3月25日)#6

3月25日の時点では、まだ満開ではありませんでしたが数日中に満開になりそうな様子でした。次に早朝桜見物ができるのは3月31日(土)なので、そのころにちょうど満開になっていることを期待しています。しかし、ここ数日はかなり気温が高いので満開は過ぎて散り始めているかもしれません…
まあ全部散っていることはないと思うので、31日にまた早朝桜見物に行って、写真を沢山撮ってきます。

小田原城 堀の水抜き

テレビ東京で放送されている「池の水ぜんぶ抜く」のターゲットに小田原城のお堀が選ばれたそうです。水抜きをしての清掃と特定外来生物の駆除が主な目的で、おまけとして池の底から新発見があるかも…といった番組です。
私はこの番組を見たことはないのですが、なかなか面白いようで噂は聞いていましたが、まさか小田原城がターゲットになるとは思いませんでした。ちなみに小田原城の堀の水が抜かれるのは38年ぶりとのことです。
早速、水が抜かれた小田原城のお堀の様子を撮影してきました。

3月17日(土)にはすでに水抜きが始まっており、水位が50センチほど下がっていました。水面下の石垣は日焼けや汚れがなく綺麗な状態でした。このような様子は昔と比べて堀の水位が大幅に下がった大坂城でも見ることが出来ます。小田原城の堀の水はお世辞にも綺麗とは言えず、鯉やらアヒルやらが住んでいます。深さもそれほどではないですが、水抜きをしてはじめてその深さを実感することができました。

二の丸東側の堀(3月17日)
二の丸東側の堀(3月17日)
馬出門と隅櫓周辺(3月17日)
馬出門と隅櫓周辺(3月17日)

水位が下がったため石垣が少し高くなったように見え、ちょっと嬉しいです。
ちなみに、関東大震災前の小田原城の石垣は全体的に今よりかなり高かったのですが、震災後の復興時に低く積み直してしまいました。

学橋(3月17日)
学橋(3月17日)
馬屋曲輪東側の堀(3月17日)
馬屋曲輪東側の堀(3月17日)
馬屋曲輪南側の堀(3月17日)
馬屋曲輪南側の堀(3月17日)

今回の水抜きで堀底から何が出てくるのか楽しみでしたが、銅門が復元される前にかけられていた端の橋脚跡が現れました。この橋は現在の馬出門正面から銅門の場所に掛けられていたもので、工事用の仮設の橋だったと記憶しています。

銅門付近の橋脚跡(3月17日)
銅門付近の橋脚跡(3月17日)

翌3月18日にも水位がどのくらい変わっているかを確認しましたが、ほとんど水位は変わっていないようでした。
この日は隅櫓脇から馬出門の場所にかけられていた橋の橋脚跡を見ることが出来ました。この橋は確か「隅櫓橋」で、学び橋と同じ造りの赤い橋で、学橋と同様に近代になってかけられた橋でしたが、馬出門復元にあたり取り壊されたものです。

二の丸東側の堀(3月18日)
二の丸東側の堀(3月18日)
隅櫓脇の橋脚跡(3月18日)
隅櫓脇の橋脚跡(3月18日)

そして番組収録当日の3月21日(水)、本降りの雨に加え、3月とは思えない寒さの中、お堀の様子を見に行くと…
大混雑でした。

お堀端通り(3月21日)
お堀端通り(3月21日)

もともと番組の収録にはあまり興味がなく、混雑と寒さも想像以上だったため、水位の確認をして帰宅することにしました。

隅櫓周辺(3月21日)
隅櫓周辺(3月21日)

水位は3月17日に比べて若干下がったといったところでしょうか。堀の水を抜くということで、完全に干上がらせるのかと思っていたのですが、そうではないようです。

38年ぶりのお堀の水抜きということで、小田原城の珍しい姿を見ることができました。かつての小田原城のなごりである二つの橋脚跡を見ることができたのがなによりでした。
番組の放送は4月22日(日)ということなので、今から楽しみです。

小田原 歴史的町名碑めぐり その五

小田原 歴史的町名碑めぐり その四の続きです。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三
小田原 歴史的町名碑めぐり その四

063-01 弁財天(べざいてん)2018/03/18撮影
063-02 弁財天(べざいてん)2018/03/18撮影
「江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。しかし、元禄十年(一六九七)に蓮池の南側にあった「評定曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に六・七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。」

063-01-01_弁財天
063-01-01_弁財天
063-01-02_弁財天
063-01-02_弁財天
063-02-01_弁財天
063-02-01_弁財天
063-02-02_弁財天
063-02-02_弁財天

064 元蔵(もとぐら)2018/03/18撮影
「小田原城主が稲葉氏であった江戸時代前期、小田原城外の北方に新しく米蔵が建設され、これを「新蔵」と呼んだ。そのため以前から三の丸の弁財天曲輪にあった米蔵は「元蔵」と読んで区別したらしい。元蔵は江戸時代後期廃止され、五軒ほどの藩士屋敷に分割された。やがてその地名も「弁財天」に含まれるようになった。」

064-01-01_元蔵
064-01-01_元蔵
064-01-02_元蔵
064-01-02_元蔵

065 天守裏(てんしゅうら)2018/03/18撮影
「この地は、もと小田原城の天守台の裏手に直接続いていたのでこの地名がある。現代に入り東海道線の開削工事によって東西に分断された。ここは「八幡山古郭群」と呼ばれる小田原城創始期の城跡の残る地域に続き、小田原城の核心部として重要な地域であったことが知られる。」

065-01-01_天守裏
065-01-01_天守裏
065-01-02_天守裏
065-01-02_天守裏

066 小峰畑(こみねばた)2018/03/18撮影
「この盆地状の土地は、古くは城の要害として利用されたと考えられ、江戸時代には、この地の土砂を小田原城の低地部の改修用に運び出したという伝承もある。また、相模湾岸などの警備が重視される幕末のころ、ここには「小峰畑調練場」となり、小田原藩兵の軍事訓練が行われた。」
現在ここには小田原競輪場がありますが、競輪場の地形は盆地状になっています。幕末の小田原城絵図「文久図」を見るとやはりこの競輪場の場所が調練場だったようです。

066-01-01_小峰畑
066-01-01_小峰畑
066-01-02_小峰畑
066-01-02_小峰畑
066-01-03_小峰畑
066-01-03_小峰畑

067 小峰(こみね)2018/03/18撮影
「小峰と呼ばれていた地域はかなり広く、また時代によってその範囲が著しく伸縮したが、武家屋敷としての小峰はこのあたりを指し、江戸時代中期ごろには藩の重臣屋敷が並んでいた。」

067-01-01_小峰
067-01-01_小峰
067-01-02_小峰
067-01-02_小峰

068 天神山(てんじんやま)2018/03/18撮影
「地名の由来は、この地の南側中腹に天神社が祀られていたので、この名があると考えられる。この社には室町時代の天神画像が伝えられており、この地名の古いことがわかる。なお、天神山には社の背後に小田原北条氏時代の三の丸の空堀が東西に伸びていた。」

068-01-01_天神山
068-01-01_天神山
068-01-02_天神山
068-01-02_天神山
068-01-03_天神山
068-01-03_天神山

069-01 新道(しんみち)2018/03/18撮影
069-02 新道(しんみち)2018/03/18撮影
「この道は、小田原城三の丸堀沿いの道で、文化十四年(一八一七)小田原の大火のとき逃げ道がなくて多数の焼死者が出たことから新たに造られたので新道といった。西の出口は箱根口へ、東は宮前町高札場(こうさつば・幕府の法令などを掲示する場所)の北側に通じている。」

069-01-01_新道
069-01-01_新道
069-01-02_新道
069-01-02_新道
069-02-01_新道
069-02-01_新道
069-02-02_新道
069-02-02_新道

070 隅屋敷(すみやしき)2018/03/18撮影
「小田原城の二の丸と三の丸の堀に挟まれた場所は、江戸時代には藩の重臣たちの、長方形の区画の屋敷が並んでいた。しかし、南西角のこの地だけは、三の丸の堀が曲折するため方形にならず三角形の土地になり、屋敷地としては軽視された。そのため稲葉氏が城主の頃には細分して足軽の住む割屋敷とした。大久保氏時代の文政年間(一八一八~二九年)には五軒ほどの藩士の住まいがあった。」

070-01-01_隅屋敷
070-01-01_隅屋敷
070-01-02_隅屋敷
070-01-02_隅屋敷

071 御用所(ごようしょ)2018/03/18撮影
「地名の由来は、この地に藩の御用所があったのでこの名がついた。御用所とは、藩士の執務所で、始め(元禄の頃)箱根口門の東隣にあったが、その後(文政の頃)この地に移された。幕末には母屋(おもや)を囲んで敷地内に六棟の建物があった。」
現在ここはお堀端通りとなっており、小田原観光のメインストリートとなっています。石碑の目の前には小田原公共職業安定所があります。この建物もなかなか古い建物で、昭和レトロの趣があります。

071-01-01_御用所
071-01-01_御用所
071-01-02_御用所
071-01-02_御用所
071-01-03_御用所
071-01-03_御用所

072-01 大手前(おおてまえ)2018/03/18撮影
072-02 大手前(おおてまえ)2018/03/18撮影
「町名の由来は、ここが小田原城大手門に通じていたためといわれ、当時は重臣屋敷が並んでいた。大手前から東に走る道路は、甲州道と交差し、そこには柵門(大手先黒門)があり、その先は唐人町に通じていた。」
現在ここには箱根駅伝で有名な国道1号線、小田原のクランクがあり、突き当りには小田原市民会館が建っています。

072-01-01_大手前
072-01-01_大手前
072-01-02_大手前
072-01-02_大手前
072-02-01_大手前
072-02-01_大手前
072-02-02_大手前
072-02-02_大手前
072-02-03_大手前
072-02-03_大手前

073-01 一丁田町(いっちょうだちょう)2018/03/18撮影
073-02 一丁田町(いっちょうだちょう)2018/03/18撮影
「この町は、商人町の色が濃く、郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)も数軒あった。町内の東北部に誓願町という小町があるが、この名は、誓願寺の門前にあったためといわれている。」

073-01-01_一丁田町
073-01-01_一丁田町
073-01-02_一丁田町
073-01-02_一丁田町
073-02-01_一丁田町
073-02-01_一丁田町
073-02-02_一丁田町
073-02-02_一丁田町

074 林学小路(りんがくこうじ)2018/03/18撮影
「林学小路は、小田原城三の丸堀端から一丁田町と台宿町の境とを東西に結ぶ小路をいう。この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。」

074-01-01_林学小路
074-01-01_林学小路
074-01-02_林学小路
074-01-02_林学小路

075 林学横町(りんがくよこちょう)2018/03/18撮影
「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。林学横町は、大工町から林学小路まで南北に走る横町をいう。」

075-01-01_林学横町
075-01-01_林学横町
075-01-02_林学横町
075-01-02_林学横町

076-01 林学(りんがく)2018/03/18撮影
076-02 林学(りんがく)2018/03/18撮影
「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。なお、この地は「林角」や「林岳」とも表記された。」

076-01-01_林学
076-01-01_林学
076-01-02_林学
076-01-02_林学
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076-02-02_林学
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城めぐりやその他のちょっとした事を適当に…