「御用米曲輪発掘調査」カテゴリーアーカイブ

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2023年11月25日)

小田原城御用米曲輪では2011年から断続的に発掘調査と整備事業が続いています。11月25日(土)に2015年以来実に8年ぶりの発掘調査現地説明会が行われました。
前回、第9回説明会の記事では”最後”の説明会と記載しましたが最後ではなかったですね。想定外の大発見もあり発掘調査が伸びているのでしょうか。発掘と整備はまだまだ続くようです。

これまでの説明会については以下を御覧ください。
第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)
第8回(2014年11月8日)
第9回(2015年3月7日)

御用米曲輪では平成に入って第2次調査から現在進行中の第8次調査が行われています。第3次調査(2011年)では江戸時代の絵図通りの蔵跡を検出しました。
特に第4次調査では戦国時代の礎石建物跡、切石敷遺構や石組水路、池などが確認され、これらは北条氏時代の会所と庭園と考えられています。庭園は様々な種類の石材をタイル状に敷き詰めた全国に類を見ないもので北条氏独特の文化があったのではと戦国ファンの間で大きな話題になりました。私自身も小田原城主要部から北条氏時代の施設跡がついに見つかったと興奮しました。詳しくは第7回第8回の記事をご覧ください。

御用米曲輪南東部模式図(北条氏時代を推定)
御用米曲輪南東部模式図(北条氏時代を推定)

現在進められている第8次調査では、第4次調査で確認された北条氏時代の庭園の東側の調査を行い、これまで確認された北条氏時代の石組水路がどこまで展開しているかを明らかにすることが目的となっています。

8次調査区域の位置
8次調査区域の位置

今回公開された8次調査Ⅱ区は、何回も折れ曲がる石組水路、砂利敷遺構、玉石敷遺構、井戸、礎石跡などが確認されました。

8次調査Ⅱ区(東から撮影)
8次調査Ⅱ区(東から撮影)
8次調査Ⅱ区(南から撮影)
8次調査Ⅱ区(南から撮影)

・石組水路
石組水路は、方向が北西-南東、北東-南西のものが見つかり、これらはクランク状に曲がった一連の水路である可能性があります。今回の調査で見つかった石組水路はこれまで隣接する調査区で見つかった石組水路とつながる可能性があるとのことです。石組水路からは多数のかわらけの破片が見つかっており、水路周辺でなんらかの儀式が行われていたのではないかと考えられています。

石組水路(北条氏時代)と井戸(北条氏時代以降と思われる)
石組水路(北条氏時代)と井戸(北条氏時代以降と思われる)
石組水路(北条氏時代)
石組水路(北条氏時代)

・砂利敷遺構・礎石跡
調査区の北東側では砂利敷と玉石時期が見つかりました。砂利が円形に抜けている範囲には礎石があった可能性があるとのこと。

砂利敷遺構と礎石跡か(北条氏時代)
砂利敷遺構と礎石跡か(北条氏時代)

・井戸
調査区の中央では石組の井戸が見つかりました。井戸の上層からは江戸時代の瓦が出土しており、井戸が埋まったのはこの時期と考えられています。

井戸(北条氏時代より後のものと思われる)
井戸(北条氏時代より後のものと思われる)

以上が今回の第8次調査で確認された遺構です。

・整備状況
今回は整備状況についての説明も行われました。特に目についたのは瓦積塀周辺の整備です。
瓦積塀は御用米曲輪西側、本丸斜面で見つかった小田原城唯一の江戸時代の構造物です。整備に当たってはオリジナルの遺構は保護のため埋め戻し、その上に盛り土を行い周囲で見つかった石垣は復元し、瓦積塀はレプリカを設置しています。

瓦積塀と石垣(江戸時代)
瓦積塀と石垣(江戸時代)
瓦積塀(江戸時代)
瓦積塀(江戸時代)
瓦積塀周辺の整備状況
瓦積塀周辺の整備状況

当初、御用米曲輪は江戸時代の姿で整備を行うという方針になっていましたが、北条氏時代の遺構が数多く見つかったことで江戸時代、戦国時代それぞれのエリアを設けて整備を行う方針に変わりました。
江戸時代エリアの目玉は瓦積塀、戦国時代エリアの目玉は切石敷庭園になるかと思いますが、現時点では遺構保護のため埋め戻されています。個人的にはオリジナル遺構を露出展示してほしいというのが本音ですが、大規模な覆屋や展示施設で遺構を保護する必要があり、他の城跡や遺跡の整備状況などを考えるとなかなか難しいのではと思っています。

石材への環境影響調査
石材への環境影響調査

遺構の露出展示については御用米曲輪の環境調査エリアで、発掘調査で出土した遺構の露出展示の可能性を検討するため、各種石材に基質強化剤や撥水剤を塗布して長期間設置し、石材への影響を調査しています。この調査結果によってはオリジナル遺構の露出展示もあり得るかもしれません。
詳しくは史跡小田原城跡御用米曲輪戦国期整備検討部会のページの会議録をご覧ください。

最後に、御用米曲輪の端に発掘で見つかった瓦片が山積みになっていました。これだけの瓦片が見つかったことに驚きです。

出土した瓦片の山
出土した瓦片の山

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2015年3月7日)

小田原城の御用米曲輪では今年の3月まで史跡整備のための発掘調査が行われています。最後の現地説明会が3月7日(土)に行われました。

今回は昨年度確認され、歴史ファンの間で大きな話題となった切石敷庭園から続く石組みの溝や、江戸時代の地震による地割跡などが確認されました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)
第8回(2014年11月8日)

  •  切石敷き庭園に続く石組み水路
    現在は遺構保護のため埋め戻された切石敷き庭園には、石組みの溝のようなものが続いていることが確認されていました。今回は江戸時代の蔵の遺構を壊さないように、その石組みの溝の続きを探る調査が行われました。その結果、石組みの溝は曲がりながら北西へと続き、礎石建物の周りをおよそ20メートルの長さで続いていました。
    江戸時代以降に壊されている部分がありましたが、これにより切石敷き庭園とセットになっていたであろう礎石建物の存在が明確になりました。
    これら切石敷き庭園・石組み溝は北条氏時代の終わり頃には埋め立てられ、その跡に礎石建物が建てられていたことがわかりました。このことから小田原合戦の時にはすでに切石敷き庭園は土の下で、秀吉や家康、後の小田原藩主らも目にすることはなく、420年以上の時を経て現代の私達の目の前に現れたわけです。
    切石敷きの庭園から続く石組み構
    切石敷きの庭園から続く石組み構
    石組み水路と数々の礎石
    石組み水路と数々の礎石
  • トレンチ再調査の成果
    今回は昭和57年度に調査されたトレンチの再調査も行われました。以前の調査は江戸時代の深さまでしか行っていませんでしたが、今回は戦国時代の深さまで調査が行われました。
    その結果、戦国時代の建物礎石跡、石組み水路、金製の飾り金具などが見つかりました。特に石組み水路は御用米曲輪で確認された他の石組み水路よりもしっかりとした造りで一見すると近世のもののように見えます。これらの発見から御用米曲輪北側にも戦国時代の遺跡が濃密に分布していることが確認できました。
    戦国時代の少し上の地層からは地震による地割れの跡が確認されました。これは寛永地震の痕跡と考えられ、小田原城と地震の関係を考える上で重要な発見となりました。
    立派な石組み水路
    立派な石組み水路
    礎石
    礎石
    地震による地割れ跡
    地震による地割れ跡
  • 結び
    足掛け3年におよぶ御用米曲輪の発掘調査も3月末で一区切りとなり、調査の場は発掘現場から室内へと移ります。現地説明会もこれが最後です。
    今回の調査での最大の成果はなによりも小田原城中心部で初めて見つかった大規模な戦国時代の遺構になるでしょう。しかもそれは全国にも類例のない切石敷き庭園で、後北条氏独特の切石文化ともいうべきものも見えてきました。
    非常に貴重なこれらの遺構ですが、保護のため埋め戻されることになります。数百年ぶりに姿を現したこれらの遺構が再び人々の目に触れるのはいつになるのでしょうか。数百年に一度の貴重な景色を見ることができ非常に感慨深いものがあります。
    今後、御用米曲輪は戦国時代エリアと江戸時代エリアに分けて整備が行われ、切石敷き庭園も同じ場所に復元展示されるそうです。はやく戦国時代の御用米曲輪の再現イメージを見てみたいものです。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2014年11月8日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。約8ヶ月ぶりの現地説明会が11月8日(土)に行われました。

今回は前回までの発掘説明会での目玉であった切石護岸の池(2号池)の大半が埋め戻されていましたが、それによりこれまで発掘の出来なかった部分が発掘可能となり、池の北側護岸が確認されています。切石敷庭園でも新たな発見がありました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)

  • 切石護岸の池周辺
    これまで切石護岸の池と呼ばれていた池は、周囲を切石で護岸した下段の池(2号池)、下段の池と水路で接続し、水を流していた池を上段の池(1号池)と呼ぶようになりました。
    2号池は遺跡保護のため大半が埋め戻されていますが、新たに北側に10メートルほど護岸を確認することが出来ました。これによりおおよそ池の3/4の範囲が確認出たと考えられています。
    1号池はこれまでの調査で確認されていましたが、今回その下層に切石敷きの池が存在していたことがわかりました。池は楕円形の小さなもので根府川石や箱根安山岩を立てて護岸としています。この1号池には西側の石組み遺構から水を引いており、1号池から水路を経て西側の2号池に滝のように水を流していたと思われます。これらは戦国時代のものとは思えないとても凝った造りです。
    2号池北側護岸
    2号池北側護岸
    2号池と1号池
    2号池と1号池
    1号池と石組み遺構
    1号池と石組み遺構

     

  • 切石敷庭園
    御用米曲輪南側のほぼ中央で確認された切石敷きの庭園は、全国的にも類例のない極めて珍しい形状で、歴史ファンの間で大きな話題になりました。切石敷きは鎌倉石と風祭石、安山岩によって造られその規模は最大で東西6メートル、南北9メートルを測るものと考えられています。
    切石敷庭園の中央で出土した板状巨石は本来は立っていたことがわかりました。この巨石には仏像と梵字が刻まれていたようですが、これらは丁寧にノミで削り取られています。誰が何のために削ったのかは謎で、北条氏独特の思想があったのかもしれません。
    切石敷庭園
    切石敷庭園
    仏像の削られた巨石
    仏像の削られた巨石
    巨石に刻まれた梵字の様子
    巨石に刻まれた梵字の様子

     

  • 建物群
    これまでの調査で御用米曲輪の南西部では濃密に建物群が広がっている様子が確認されています。これまでに礎石建物跡が8棟、掘立柱建物跡が7棟を数え、戦国時代の終わりごろの建物跡と考えられています。
    建物群の中心であると思われる最も大きな建物には小さな礎石建物が付随しています。今回の調査で、切石・板石敷きの排水施設が確認され、傍らに切石敷井戸があることからこの建物は湯屋(蒸し風呂)の可能性が高いそうです。蔵と思われる建物も見つかりました。氏政に家督を譲った氏康は「御本城様」と呼ばれ、「大蔵」の管理を行っていたとの記録があります。大蔵とは税収の管理であり、氏康の隠居館には「大蔵」が伴っていたと考えられています。もし御用米曲輪が大蔵を伴う「御本城」であったとすると、全体的には庭園などを伴う居館的な様相を持ちながら、蔵も備えるという発掘結果と合致します。
    南側から見た発掘現場全景
    南から見た発掘現場全景

    いつかの記事で私見として書きましたが、北条氏時代、現在の本丸に当主、本丸の真下に位置する御用米曲輪に前当主が居住し、八幡山は詰城的な位置づけで普段の生活には使用していなかったのでは、といったことを再び想像する今日このごろです。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2014年3月8日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。今年最初の現地説明会が3月8日(土)に行われました。

本説明会の後、第5次調査で御用米曲輪の西から南にかけて確認された戦国時代の遺構は保存のため埋め戻されます。戦国小田原城の貴重な遺構の数々を直接目にすることが出来る最後の機会となりました。今後も御用米曲輪の発掘調査は引き続き行われますが、ひとつの区切りを迎えたと言ってよいでしょう。
これまでの発掘成果ですでに埋め戻されているものもあり、今回はまだ見ることが出来る戦国時代の遺構についてのまとめ記事としました。写真は過去のものも混ざっているのでご了承ください。これまでの説明会については以下をごらんください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)

  • 切石護岸の池
    第5次調査最大の目玉がこの切石護岸の池です。御用米曲輪の南端に位置し、調査範囲内だけでも外周45メートル以上あり、周囲を湾曲させて岬や入江の景色を作り出しています。最大の特徴は護岸に石塔(五輪塔や宝篋印塔)の部材を、二次的な加工を加えながらきれいに並べてタイル上に貼り付けていることで、これは全国にも類例がなく大きな話題となりました。池底から16世紀後半の「かわらけ」が出土しており、北条氏時代に造られたものと考えられています。石塔の部材を意識して使用しており、他に類例がないことから北条氏独特の文化や美意識があったのではないかと考えられています。また、使える石材は墓石であろうと使用していることから当時の人々の価値観を考える良い資料にもなります。池底からは舟の木材も発見されています。
    切石敷きの池
    切石敷きの池
    舟の木材
    舟の木材
    出土した石塔の部材
    出土した石塔の部材
  • 切石敷きの庭園
    切石敷きの庭園は御用米曲輪の南側、昨年の調査で確認された庭状遺構とつながるものです。こちらも切石護岸の池と同様に、地面に多角形の切石をタイル上に敷き詰めています。切石は「鎌倉石」と呼ばれる三浦半島の凝灰岩、「風祭石」と呼ばれる箱根の凝灰岩、安山岩で造られています。一部は江戸時代の土坑によって破壊されていますが、その規模は最大で東西6メートル、南北9メートルになると考えられています。黄色い「鎌倉石」と黒い「風祭石」を幾何学的に加工し、モザイクのように不規則に組み合わせている点は近代的な印象さえ受けます。ところどころに置かれた安山岩の巨石が目を引きます。中央には井戸のような穴があり、切石から水を落としていたとか、通路として用いられたなどさまざまな説がありますが、その目的はわかっていません。切石護岸の池と同様に全国的にも類例がないことから北条氏が斬新な発想を持っていたことを示す貴重な遺構です。
    切石敷き庭園
    切石敷き庭園
    切石敷き庭園
    切石敷き庭園
  • 切石敷きの井戸
    御用米曲輪の南西部では切石敷きの庭園と同様に、切石を用いた井戸が確認されています。井戸は直径0.8メートル、円礫を4メートル以上積み上げた石積み井戸で、周囲には井戸を囲むように約2.5メートル四方に切石が敷かれています。切石には「鎌倉石」と「風祭石」が使われており、極めて丁寧な作りであるため特別な井戸であったと考えられています。発掘範囲の奥にあるため近くから見ることが出来なかったことが悔やまれます。
    切石敷井戸2
    切石敷井戸2
    切石敷井戸1
    切石敷井戸1
  • 礎石建物群と石組水路
    御用米曲輪の南西部、切石敷きの井戸の周囲には建物群が広がっていたようで、建物跡が10棟以上確認されました。最も大きな建物は7間(12メートル)以上の規模がある礎石建物です。これらの建物の周囲には溝や石組水路、石列が整然と配置されています。これらの遺構を境に砂利や玉石が敷分けられており、それぞれ役割や敷地の性格の違いを示していると想定されています。
    南西部の建物群跡
    南西部の建物群跡
    石組水路
    石組水路

これまでの第5次調査の結果から、戦国時代の御用米曲輪は庭園や礎石建物を備えた非常に格式の高い空間であったことが想定されています。全国でも類例のない切石を多用した作庭方法は北条氏独特の文化として「北条切石文化」と呼んでも差し支えないかもしれません。
また、戦国時代の大名居館としては大友氏館跡、大内館跡、一乗谷朝倉氏関連遺跡などが有名ですが、御用米曲輪のように内部の構造が垣間見えた例は極めて稀です。これらのことから文化庁や専門家の方々からも大変希少な遺跡であるとの評価を得ており、北条ファンとしては嬉しい限りです。

これまでの貴重な発掘成果が再び埋め戻されるのは残念ですが、貴重だからこそ埋め戻す必要があるのでしょう。400年ぶりの「お目見え」に立ち会えたことを幸運に思います。今後も御用米曲輪での発掘調査は続きますが、これから何が見つかるのか全く想像ができません。次の説明会が楽しみです。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2013年12月21日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。先月に引き続き1ヶ月間の発掘成果の現地説明会が12月21(土)に行われたので行って来ました。 前回の現地説明会の投稿はこちらです。

今回の現地説明会では、先月からの1ヶ月間の調査で北条氏時代の「池」の西側から確認された北条氏時代の切石敷遺構、切石敷井戸を見ることが出来ました。

  • 切石敷遺構
    鎌倉石や風祭石を用いて構築されています。これらの石を巨石を配しながら幾何学的に敷き詰め、独特の景色を作り上げています。中心部には井戸のような穴がありますが、高低差を考えると周りの切石からの水がこの穴に流れ込んでしまうため、井戸ではないと考えらます。この遺構の用途は不明ですが、これまでに見つかった池の護岸とともに、北条氏の志向として方形の切石をタイルのように用いる考え方があったのは間違いなさそうです。

    切石敷遺構1
    切石敷遺構1
    切石敷遺構2
    切石敷遺構2
    切石敷遺構3
    切石敷遺構3
  • 切石敷井戸
    風祭石の切石を幾何学的に組み合わせて造られており、井戸の内部は円礫を4メートル以上積み上げています。遺物が出土していないことから、井戸の時期を特定する要素は少ないですが、北条氏時代の石組水路が並行に走っていること、近世の遺構面より80センチメートルほど低い位置にあることから戦国期の井戸と考えられます。小田原城には同様の井戸が馬屋曲輪で確認されていますが、江戸時代のものになります。今回は発掘調査の都合上、近くから見ることは出来ませんでしたが、遺構の写真が展示されていました。
    切石敷井戸1
    切石敷井戸1
    切石敷井戸2
    切石敷井戸2

今回の説明会で3ヶ月連続説明会ラッシュは終了となります。これまでの発掘により北条氏時代の御用米曲輪南側の全容が明らかになってきました。 おおまかには東から順に池(五輪塔・宝篋印塔の部材を護岸に使用した全国的に類例のないもの)→掘立柱建物→砂利敷および石組井戸→切石を使用した庭園(今回の説明会部分)→掘立柱建物→大規模な礎石建物(詳細未発掘部分)という構成になっているようです。

近世蔵跡から見た発掘現場全景
近世蔵跡から見た発掘現場全景(拡大画像は右クリックメニューから新しいタブを開いてください)
鉄門坂から見た発掘現場全景
鉄門坂から見た発掘現場全景

次回の調査説明会についてはまだ未定ですが、新たな発見があり次第説明がを行いたいとのことでした。今後の調査でも驚くべき新発見があることでしょう。引き続き小田原城御用米曲輪は私のような城マニアの注目を集めそうです。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2013年11月23日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。先月に引き続き1ヶ月間の発掘成果の現地説明会が11月23(土)に行われたので行って来ました。

前回の現地説明会の投稿はこちらです。

今回の現地説明会では、これまでに確認された北条氏時代の「池」の水を抜いた状態を見ることが出来ました。また先月からの1ヶ月間の調査により、舟と思われる木材、橋の柱穴、石組井戸、暗渠水路、新たな礎石建物跡が確認されました。

これまでの調査でこの池は西側が上段、東側が下段に分かれており上段の池から滝のように下段の池に水を流していたと推測されています。
先月の現地説明会以降の調査成果は以下のとおりです。

  • 下段の池の護岸に貼り付けられた石塔部材は最大15段、190センチメートル程度の高さで積み上げられている
  • 下段の池の中央に突出した岬部分から本丸方面に向かって柱穴が見つかった。池にかかっていた橋のものと推測される
  • 下段の池から舟の木材(底板、側板)が見つかった。水に浸かっていた部分のみが腐らずに残ったものと推測される
  • 上段の池付近から石組井戸、暗渠水路が見つかった。掘立柱建物跡も見つかっており、この建物の地下を通し池に水を流していたものと推測される

鉄門坂から見た池
鉄門坂から見た池
舟の木材
舟の木材
橋の柱穴
橋の柱穴
石組井戸
石組井戸
暗渠水路
暗渠水路

また、上記の他にも上段の池付近から新たな礎石建物跡が見つかったそうで、来月の現地説明会までに調査を進めるとのことでした。

実際に現地に行ってみると確認された部分だけでも池の規模に目を見はります。御用米曲輪にはこの池に釣り合うのような立派な建物があったであろうことが想像できます。450年近い時を越えて北条氏康や氏政といった名だたる武将が見たであろう光景が明らかになりつつあります。来月の現地説明会が楽しみです。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2013年10月19日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。2013年2月の発掘説明会から2013年10月までの発掘成果の現地説明会が10月19(土)に行われたので行って来ました。

前回の現地説明会の投稿はこちらです。

今回の現地説明会は、昨年度確認された北条氏時代の庭状遺構に続く部分で確認された北条氏時代の「池」についての説明となりました。

御用米曲輪ではこれまでの発掘調査で大きく3箇所の庭跡が確認されましたが、今回確認された北条氏時代の池は曲輪南東部に位置しています。

確認された池は、調査範囲内だけでも外周が45メートル以上あり、東側に続く未確認部分を含めると70メートル以上になると想定されます。この池の珍しいところは、護岸に石が貼り付けてあるところです。さらに、その石材はほぼすべてが石塔(供養塔)の限られた部分だけを使用し、うまく組み合うように再加工してあります。池の規模からおそらく2000個位上の石材が用いられていたと想定されます。

発掘現場
発掘現場
崩された石
崩された石
鉄門坂跡から池を見下ろす
鉄門坂跡から池を見下ろす
発掘現場(パノラマ)
発掘現場(パノラマ)
出土した石塔の部材
出土した石塔の部材
出土した石塔の部材
出土した石塔の部材

今のところこの池には、池が作られた状態の時期(Ⅰ期)と、一部を砂利で埋め立てて使っていた時期(Ⅱ期)の2時期があると想定されます。Ⅰ期は、池底から16世紀後半のかわらけ(素焼きの土器)が出土していることから戦国時代、Ⅱ期は池が17世紀前半には存在する鉄門坂の下にまで続いており、池の覆土上層で江戸時代の瓦が出土していることから江戸時代に入ってからであろうと考えられています。

池、Ⅰ期想定復元図
池、Ⅰ期想定復元図
池、Ⅱ想定復元図
池、Ⅱ想定復元図

このような構造の池は全国的にも例がなく、小田原北条氏の文化や技術を知るうえで大変重要な成果と言えます。また、織豊系の武将が石垣に墓石などを使用していることはよく知られていますが、北条氏の城である興国寺城や箕輪城でも石塔を転用した遺構が確認されています。さらに今回の御用米曲輪の池のように、多量に石塔が使われている状況から、当時は使える石材はなんでも使うという考え方は一般的なものだったという見方もできます。

今後の調査で、戦国時代の小田原城の実態が除々に解明されていくことを期待します。なお御用米曲輪では2013年11月23日(土)、12月21日(土)にも現地説明会が開催されます。1ヶ月ごとに調査が進んで行く様子を一緒に体感できるという小田原市の粋なはからいです。もちろん参加しますので、その様子もご紹介する予定です。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2013年2月16日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。2012年8月の発掘説明会から2013年2月までの発掘成果の現地説明会が2月16(土)に行われたので行って来ました。

御用米曲輪については前回8月の発掘説明会の投稿を御覧ください。
小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会

昨年8月以降、北条氏時代の庭や建物礎石が発見されました。
これらの発見により北条氏時代の御用米曲輪が、これまで考えられていた以上に重要な曲輪であり、城主の居館に相当する建物があった可能性がさらに高まって来ました。

ここでは、今回発見された戦国期の遺構をご紹介します。

・礎石建物跡(地図#1)
この礎石建物は、桁行11メートル、梁間5.5メートルで小田原城周辺で初めて見つかった戦国期の礎石建物です。当時礎石を設けて建てられるのは大規模な瓦葺きの建物や、寺院建築が中心でした。これは礎石を設けたこの建物が重要な建物であったことを物語ります。建物の規模、後でご紹介する庭との位置関係から、御用米曲輪にあったであろうなんらかの大規模建築物(御殿か?)の付属的な建物ではないかとのことです。
礎石建物の下には、礎石建物と直交した玉石道路と石組水路がありました。道路の幅は役1.8メートルで、拳大の石を敷き詰め、その隙間を「目潰し石(砂利)」で埋めています。この丁寧な造りから重要な道路であったと思われます。石組水路は礎石建物の下に入り込んでおり、礎石建物よりも古い遺構であるようです。

礎石建物
礎石建物
玉石敷道路と石組水路
玉石敷道路と石組水路

・庭状遺構
今回の調査では庭状の遺構が3箇所で発見されました。現状ではこれらの庭のつながりが不明瞭なため、今後の発掘調査で解明していくそうです。

三箇所の庭状遺構で最も北に位置するここ(地図#2)では石組水路と石垣付方形竪穴が発見されました。
南側の堀と溝で繋がる石組水路の北側・西側には砂利が濃密に敷き詰められています。そして石組水路に面して、明日香村の酒船石を思わせる凝灰岩の切石が置かれています。
この切石には水路に対して溝があることから、雨水などの処理に用いられたのではないかと考えられています。ただ、全国的にも類例がない遺構のため、同様の遺構をご存知の方はお知らせくださいとのことでした。
また石組水路の北側には、石垣を持つ方形竪穴状遺構が発見されました。壁面の石垣は、10~13段で役1.6メートルの深さがあります。石と石の間は土で固められており、一般的な石垣のような裏込め石がないことが特徴です。小田原城周辺で見つかった戦国時代の石垣はこれで3箇所目となりますが、北条氏の石積み技術を考える上でも貴重な遺構です。

庭状遺構:酒船石(?)と石組水路
庭状遺構:酒船石(?)と石組水路
庭状遺構:石垣付方形竪穴
庭状遺構:石垣付方形竪穴

三箇所の庭状遺構で中間に位置するここ(地図#3)では北の石組水路から続くとおもわれる石組水路が発見されました。この当たりではこの石組水路より南側(本丸側)に、戦国時代には一段高い部分があることがわかりました。どうやらこの石組水路は斜面の裾を巡るように造られていたようです。同例として、福井県の一乗谷朝倉氏関連遺跡の「湯殿跡庭園」が挙げられます。この庭園は斜面を借景としており、ここでは立石などが失われていますが、「湯殿跡庭園」同様に手のこんだ庭であったと考えられます。では、立石などはどこにいったか?というと、豊臣秀吉による小田原攻めで小田原城は無血開城となったため、立派な物品は豊臣方に「分捕り」されたのではないかとのことでした。
石組水路にはさまざまな石が使われています。黒い石は、箱根火山に起因する凝灰岩で「風祭石」と呼ばれています。白い石礫も箱根火山に起因する安山岩です。そして、黄色い石は「鎌倉石」とも呼ばれる三浦半島周辺の砂岩です。ここは庭の裏手に位置するため、色合いの異なる石を使い意識してモザイク模様のようにしているか、あるいは適当に石を配置したのかは不明です。当時独特の美的感覚があったのかもしれません。

庭状遺構:石組水路と玉石敷
庭状遺構:石組水路と玉石敷
庭状遺構:石組水路
庭状遺構:石組水路
庭状遺構:石組水路拡大
庭状遺構:石組水路拡大

三箇所の庭状遺構で最も南に位置するここ(地図#4)では、池、切石積、護岸遺構が発見されました。池は上段、下段からなり、昨年度の調査で見つかった障子堀を半分まで埋め立て、そこに砂利を敷いて導水路としています。背後には、風祭石の切石が2・3段に積み上げられ、背後斜面の土留の役割を果たすとともに、庭の借景となっています。そして切石の前には景色を造るように庭石が配置されています。障子堀からの水は更に下段の池に落ち、下段の池も上段の池と同様に砂利が敷かれ、庭石を配置して景色を造っています。
下段の池は更に法面を守るため、四角い石が貼られ護岸しています。その石は五輪塔の火輪や宝篋印塔の笠を裏返しにして用いています。その数は70個を超え、底面の砂利の下にも続いています。このような構造の護岸遺構は、全国的にも例のないものです。明らかに意図してこのような石材を使用しており、北条氏独特の文化のようなものがあったのかもしれません。

庭状遺構:切石積
庭状遺構:切石積
庭状遺構:護岸遺構
庭状遺構:護岸遺構
庭状遺構:切石積と護岸遺構
庭状遺構:切石積と護岸遺構

だいぶ適当ですが、地図上にこれらの場所をプロットしました。

より大きな地図で 小田原城御用米曲輪発掘調査説明会(2013/2/16) を表示

今回の発掘調査による成果で、戦国期のものをまとめると以下となります。
・戦国時代の礎石建物が確認できた。
・戦国時代の曲輪の形が確認できたとともに、曲輪南辺に沿って大規模な庭が造営されていたことがわかった。

ここからは私見となります。
これまで御用米曲輪で発見された戦国期の遺構を見て、ふと思ったのが江戸城の西の丸の事です。もしかしたら北条氏時代末期、平時は現在の本丸に当主氏直(八幡山古郭は詰の城として使用?)、御用米曲輪に隠居氏政が居住していたのではないかと…御用米曲輪が小田原城の重要な曲輪であったことは間違いないでしょう。しかし、目の前に一段高い本丸があるのだから、そこを差し置いて本丸機能を有していたとはちょっと考えにくい。となると、本丸をしっかりと発掘調査すれば、さぞや戦国期の貴重な遺構が出てくるのではないかと思います。
市の職員の方も本丸をしっかりと掘ってみたいと仰っていましたが、史跡発掘の原則として、史跡の保護を最優先することが国で定められています。戦国期の遺構を探そうとして、先に江戸時代の遺構が見つかるとその先を掘ることは難しくなるそうです。個人的には戦国時代の小田原城の姿が明らかになることを望みますが、江戸時代の遺構も大事なものです。史跡発掘は難しいですね。
今後も御用米曲輪での発掘調査は続きますが、次は庭状遺構のそばから戦国期の御殿礎石を発見!というのを期待したいです。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。2012年2月の発掘説明会から8月までの発掘成果の現地説明会が8月18(土)に行われたので行って来ました。

御用米曲輪については前回の2月の発掘説明会の投稿を御覧ください。
小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会

発掘現場の様子
発掘現場にはいくつかのトレンチ(試掘坑)が掘られ、それぞれについて説明が行われました。その中のいくつかをご紹介します。

出土品
出土品

・第1次調査:第1トレンチ
曲輪の北に位置し、昭和57年に行われた第1次調査のトレンチを最発掘したものです。礎石群が3箇所確認できました。中でも南側の礎石群は7間(約13メートル)以上の大型建物跡で、北条時代の当主居館あるいは城館の中心的建造物と考えられる規模のものです。一部に火災の痕跡も確認されており、永禄12年(1569)の武田信玄による小田原城攻めで、放火された痕跡の可能性もあります。

第1次調査:第1トレンチ
第1次調査:第1トレンチ

・第12トレンチ
曲輪の北に位置し、曲輪の入り口から最も奥まった場所です。曲輪の形を明確にするために設定されました。
調査の結果、土塁の裾を確認することができました。また、2つの「瓦積塀」、石垣と石列、7基の柱穴列に囲まれた砂利敷きの空間を確認することができました。「瓦積塀」はその名の通り瓦を積み上げて造った塀で、このような塀の出土例は全国的にも稀です。この塀こそ今のところ小田原城唯一の江戸時代の現存建造物ということになります。
この瓦積塀に囲まれた砂利敷きの空間は、焔硝蔵あるいは宗教施設であったと考えれらます。ただ、焔硝蔵だとすると他の蔵に近すぎるとのことでした。曲輪の最も奥まった場所に位置し、塀の丁寧な造りなどから祠のような宗教施設であった可能性が高いそうです。

第12トレンチ
第12トレンチ
瓦積塀
瓦積塀

前回の発掘調査説明会から約半年ですが、新発見が続いているようです。今回の目玉は小田原城初の江戸時代の現存建造物「瓦積塀」の発見でしょう。
また、北条時代の居館がこの場所にあったという可能性も出てきました。私個人としては本丸の発掘調査もして欲しいところです。北条時代に居館が御用米曲輪にあったのなら本丸には何があったのでしょう…
今後の調査に期待です。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。
2012年2月4日(土)に現地説明会が行われたので、ちょっと出掛けてきました。

御用米曲輪とは
小田原城本丸の北側に位置する曲輪で、江戸時代に幕府の蔵が建てられていたことからこの名前で呼ばれています。北条氏時代の様子は定かではありませんが、江戸時代初期に描かれた絵図には百間蔵と描かれており、北条氏の朱印状にも百間蔵という言葉が見られることから、北条氏時代から蔵があり、その形も大きく変わらなかったと考えられています。近世以降の小田原城で、最も北条氏時代の様子が残されている曲輪とされています。
明治以降は野球場や駐車場として利用され遺構らしさが失われていましたが、平成22年に駐車場を閉鎖し史跡整備のための発掘調査を行なっています。

発掘現場の様子
発掘現場にはいくつかのトレンチ(試掘坑)が掘られ、それぞれについて説明が行われました。その中のいくつかをご紹介します。

出土品
出土品

・第1トレンチ
曲輪の北東に掘られました。曲輪北側の土塁はこれまで北条氏時代以来のものと考えられていましたが、今回の調査で江戸時代に造られたものであることがわかりました。
以前は北東の曲輪上がクスノキに覆われた散歩道になっていました。

・第1次調査:第2トレンチ
昭和57年に行われた第1次調査のトレンチを最発掘したものです。底の玉石は戦国時代の遺構と考えられています。

第1次調査:第2トレンチ
第1次調査:第2トレンチ

・第4トレンチ
曲輪の南に掘られたトレンチで、曲輪南の法面と地盤高を確認するために設定されました。
調査の結果、関東大震災で崩落した土砂に埋もれた石垣が見つかり、さらにその下から大規模な掘らしき遺構が見つかりました。この掘らしき遺構は絵図にもない謎の遺構で、今後の調査で正体解明に務めるそうです。

第4トレンチ
第4トレンチ

・第7トレンチA区
曲輪の北一帯に掘られた第7トレンチはA区~G区に分けられて調査が行われています。A区は昭和時代に切通しとなった土塁の跡に設定されました。
調査の結果、北条氏綱・氏康時代の素焼き「かわらけ」が多く出土し、少なくとも土塁が氏綱・氏康時代にはなかったことがわかりました。
以前はここに駐車場の入口があった事を覚えている方も多いのではないでしょうか。

第7トレンチA区1その1
第7トレンチA区その1
第7トレンチA区その2
第7トレンチA区その2

・第9トレンチ
第9トレンチは曲輪の南の法面、生垣を抜根した際に集石が見つかったため設定されました。坂の上には関東大震災で崩落した鉄門の石垣があります。鉄門へ続く階段の側溝らしき遺構が見つかりました。ここは特に穴を掘ったわけではなく草や樹木に覆われていたため、遺構が埋もれていました。私も以前から気になっていて、いずれ鉄門跡まで登ってみようかと思っていました。特に立ち入り禁止にはなってなかったはずです…

第9トレンチその1
第9トレンチその1
第9トレンチその2
第9トレンチその2

・第10トレンチ
曲輪の南に掘られたトレンチで、野球場のフェンス解体に伴って設定されました。
調査の結果、石積みを伴う障子掘が見つかりました。この石積みと障子掘が同時代のものかどうかの判断は今後の課題だそうです。ちなみに現在の小田原城址公園内で障子掘が見つかったのは、馬屋曲輪の住吉掘に続いて二例目となります。

第10トレンチ
第10トレンチ

御用米曲輪整備計画
発掘現場での説明会の後、市民会館で御用米曲輪整備計画についての説明がありました。その内容をいくつかご紹介します。

・御用米曲輪の概要
中世小田原城の面影が残り、緑に囲まれた中に史跡が息づく
緑豊かな土塁に囲まれた曲輪
大手筋の石垣とは異なり、戦国時代の面影を残す土塁と掘の姿
明治時代以降、本来の形を失う
適切な管理を怠り、樹木環境が悪化

赤字項目については、今回の発掘調査の結果、現在の曲輪の様子は江戸時代に形作られたものであり、中世のものとはだいぶ様子が異なる可能性が高い。

・整備基本方針
土塁や平場の修景を基本とする
平面表示にとどめた整備
曲輪の形を明確にする
市街地の貴重な広場として活用

・植栽については植栽専門部会を開き慎重に検討を行う

質問事項
貴重な機会なので今後の小田原城史跡整備について質問してみました。

Q1  本丸周辺の関東大震災で崩れた石垣の積み直しなどは行うのか
A1  今後長いスパンで検討する。本丸南面(市立図書館側)の石垣については、そのままの形で滑り落ちており、江戸時代の石積みや排水口などの遺構を見ることができ、小田原城で江戸時代そのままの石積みを見ることができる貴重な場所。このまま保存する事も考えている。

Q2  御用米曲輪の整備後、次はどのあたりの整備を行うのか
A2  まだ明確には決まっていない。ただ、二の丸についてはいつまでも現状のイベント広場として使っていくか要件等。今後は八幡山古郭の史跡整備に力点を移すことも考えている。

以上、小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会のご紹介でした。
今後の小田原城の史跡整備計画に注目です。