KemaAkeの全国城めぐり

弘前城 ひろさきじょう
別名 鷹岡城
形態 平山城
築城年 慶長16年(1611年)
築城者 津軽為信
主な城主 津軽氏
所在地旧国名 陸奥
所在地 青森県弘前市大字下白銀町1
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR奥羽本線 弘前駅から徒歩35分
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆
概要 弘前城は津軽統一を成し遂げた津軽為信が関ヶ原の戦いで東軍に付いたことにより成立した津軽藩の本拠として慶長8年(1603年)に築城が開始された。当初工事は進まず慶長9年(1604年)に為信が死亡すると中断されてしまう。慶長14年(1609年)に2代信牧により工事が再開され、津軽氏の城で一国一城令により廃城となった大浦城や、本拠であった堀越城の資材を流用してわずか一年一ヶ月後の慶長16年(1611年)に完成した。その後明治維新まで津軽藩の居城としての役割を果たした。明治時代初めには東北鎮台の分営が置かれ、廃城令により廃城となると、本丸御殿などが取り壊された。明治27年(1894年)旧藩主津軽氏が城跡を公園として公開するために城地の貸与を願い出て、これが許可され翌年には弘前公園として市民に一般公開された。このころから城地に桜が植えられ桜の名所となる。現在城内には弘前市民会館や弘前城植物園などが造られ市民の憩いの場となっている。
城内案内図など 城内案内図(1200x730)
登城日 2009/08/11
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 日本最北端の現存天守。現存櫓三基、楼門形式の現存門が五棟あります。また、堀は内堀、中堀、外堀がほぼ完全に残っています。

登城記
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東北城めぐり最終日です。前日夕方に弘前に到着し一泊、朝からの登城となりました。前日までの天気は雨でしたが、今日は見事に回復。青空の下で登城が出来ました。今回は歩いての登城になります。

三の丸東門

100円循環バスのバス停がある文化センターの前に三の丸東門があります。現存する弘前城の門はすべて楼門形式の門となっています。これらの門は明確な建築年代を示す資料はありませんが、江戸時代初期のものと考えられています。
外堀

東門から追手門に向かって外堀沿いに歩きます。弘前城の外堀および中堀はほとんどが土塁で形成されています。西日本の城では石垣が当たり前ですが、東日本の城では徳川御三家の水戸城ですら石垣がほとんど使用されていないことから、石垣が貴重なものだったことが伺えます。
三の丸追手門

三の丸追手門です。棟高は約12メートルあります。弘前城には築城当初十棟の城門があったとされています。その中で現在残るのは四の丸北門、三の丸東門、三の丸追手門、二の丸東内門、二の丸南内門の五棟で、いずれも重要文化財に指定されています。城門はいずれも、内外に土塁で枡形を設けた二層の楼門で、門の前面に他の城に見られるような高麗門などを設けていないこと、一層目の屋根を高くし簡素な素木造りとしていることから古式の門として注目されています。
内側から見た三の丸追手門

内側から見た三の丸追手門です。弘前城の建物はいずれも寒さ対策のため屋根が銅版瓦で葺かれています。普通の瓦だと寒さで割れてしまうとか。また銅版瓦のほう軽いそうです。
三の丸追手門の鯱

三の丸追手門の鯱です。
三の丸追手門の小さい扉

三の丸追手門の小さい扉です。
三の丸追手門の格子窓

三の丸追手門の格子窓です。
二の丸辰巳櫓

二の丸辰巳櫓です。一、二層目は四間(約7.2メートル)四方で三層目を小さくしています。二の丸辰巳櫓では藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列などを見たそうです。現在、藩主が見た山車が通ったであろうと思われるあたりは弘前城植物園があり、弘前城とは別料金で入城できます。弘前城の櫓はこの他に二の丸未申櫓、二の丸丑寅櫓が現存しており、いずれも重要文化財に指定されています。
内側から見た二の丸辰巳櫓

内側からみた二の丸辰巳櫓です。
二の丸未申櫓

二の丸未申櫓です。弘前城の特徴として門と櫓がどれも同じ企画で造られていることが上げられます。大きさや細部の造りは若干異なっていますが、基本的には同じ外観であり、一見すると違いがわかりません。例に漏れず二の丸未申櫓も先にご紹介した二の丸辰巳櫓と瓜ふたつです。昔も共通化するとコスト削減できたのでしょうか?
内側から見た二の丸未申櫓

内側から見た二の丸未申櫓です。
杉の大橋と二の丸南内門

杉の大橋です。二の丸の南側と三の丸を結んでいます。杉材を用いた橋といこうことでこの名前が付いたようです。文政4年(1821年)に堀の両側を石垣にした際に、桧材によって架け替えられました。よって、現在の橋は本当は桧の大橋ということになります。奥に見えるのは二の丸南内門です。
二の丸南内門

二の丸南内門です。これまでご紹介した門と瓜二つです。写真を使い回ししてもわからないかも…
二の丸南内門の鯱と瓦

二の丸南内門の鯱と瓦です。瓦には津軽氏の家紋である牡丹紋が施されています。軒丸瓦(沢山ある小さい瓦)に施されているのは巴紋で、どの城でも使われる一般的なものです。津軽氏は現在お寺の地図記号に使われている卍も家紋として使用しており、弘前市の市の紋章にもなっています。
天守と下乗橋

天守です。有名なアングルですね。手前の赤い橋は下乗橋で、本丸南側と二の丸を結んでいます。その名の通り、この橋の二の丸側に下馬札があり藩士は馬から降りるように定められていました。以前は擬宝珠が十二支をかたどったものだったそうです。
天守最上階の入母屋破風

天守最上階の入母屋破風です。波のような模様で飾られた面白いつくりになっています。調べたところこの波模様のことを青海波と呼ぶようです。
本丸内側から見た天守

本丸内側からみた天守です。飾りが一切無く外側から見るのとは印象がだいぶ異なります。窓の大きさも外側は小さいものでしたがこちら側は大きく、銅版で閉じることが出来るようになっています。棟高は16メートルであまり大きくはありません。現在の天守は文化7年(1810年)に九代藩主寧親(やすちか)により本丸辰巳櫓を解体新造したもので、東北地方に残る唯一の現存天守です。もちろん重要文化財に指定されています。
天守一層の窓

天守一層の窓です。
天守台の石垣

天守台の石垣です。天守台の石垣は堀に面した外側は打ち込み剥ぎになっていますが、内側は見事な切り込み剥ぎになっています。
天守の鯱

天主の鯱です。
本丸未申櫓跡

本丸未申櫓跡です。築城当初はここに五重天守が建っていましたが、寛永4年(1627年)に落雷で焼失したため隅櫓が建てられました。弘前城では以後200年近く天守がない時代が続きます。石垣の規模は小さいですが、築城当初は五重天守が建っていたのでもっと大きかったのでしょう。
本丸西側から見た岩木山

本丸の西側からは岩木山の雄姿を見ることが出来ます。
本丸北面の石垣

本丸北面の石垣です。野面積みと打ち込み剥ぎの中間といったところでしょうか。弘前城で石垣が大規模に使用されているのは本丸のみで、その他はほとんど土塁のみで形成されています。
本丸北面の堀と鷹丘橋

本丸北面の堀と鷹丘橋です。鷹丘橋は本丸北面と北の郭を結んでいます。北の郭には武徳殿という休憩所があります。
館神跡から見た天守

館神跡から天守を撮影しました。館神とは二代藩主信牧が豊臣秀吉の木造を御神体として安置した場所で、藩主や城内の安全などにかかわる加持祈祷が行われていました。ここへ出入りが許されたのは藩主やその家族など限られた人でした。ただ、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後どのような扱いを受けたかは案内版には記載されていませんでした。もともと限られた人しか出入りできなかったということなので、隠れ豊臣信者?を続けたのでしょうか?
二の丸東門与力番所

二の丸東門与力番所です。与力番所とは見張り所のことで、城内の主要な場所に建てられました。建築年代は定かではありませんが、梁などに残された墨書きは江戸初期に建てられた三の丸東門のものと酷似し、構築手法は江戸時代中期の様相であることから、古材を利用して江戸時代中期に改修したものではないかと考えられています。この与力番所の横には日本最古のソメイヨシノがあります。
二の丸東内門

二の丸東内門です。
二の丸丑寅櫓

二の丸丑寅櫓です。やはり他の櫓と瓜二つです。
内側から見た二の丸丑寅櫓

内側からみた二の丸丑寅櫓です。
四の丸北門

最後に四の丸北門です。弘前城に現存する五棟の門の中で最も規模が大きい門です。大光寺城の城門を移築したもので、保存修理工事の際、柱などから多数の矢傷跡が発見されています。また、矢狭間や鉄砲狭間などが無いのも特徴です。
内側から見た四の丸北門

内側から見た四の丸北門です。

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