KemaAkeの全国城めぐり
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松前城
まつまえじょう
別名福山城 本丸御門表面と天守
形態平山城
築城年と築城者慶長5年(1600)松前慶広
嘉永3年(1850)松前崇広
主な城主松前氏
住所と所在地旧国名北海道松前郡松前町字松城144(蝦夷)
アクセス JR、道南いさりび鉄道 木古内駅
↓函館バス 521系統 松前出張所行(約1時間30分)
松城
↓徒歩(約10分)
松前城資料館

函館バスへのリンクはこちらをご確認ください。
概要
松前城は松前藩祖慶広の時代に築かれた福山館が前身で、嘉永2年(1849)に外国船からの沿岸警備を目的として松前崇広が幕府の命令により大規模改修し築城された。 松前湾を見下ろす台地上に本丸、そこから津軽海峡に向かって二の丸、三の丸がひな壇状に築かれ、三の丸には7基の砲台が設けられた。 沿岸警備を目的とした城ではあるが、和式城郭として石垣や天守が設けられ日本最後の和式城郭とされる。
海に面した大手側は江戸軍学に基づいて枡形や折れを多用した厳重な縄張りであったが、背後は本丸が直接城外に接し石垣も低く直線的で守りが薄かった。 そのため箱館戦争では旧幕府軍の土方歳三隊に搦手方面から攻撃され1日持たずに落城した。

-----------歴史------------
・慶長11年(1606)松前慶広が福山館を築城する
・嘉永2年(1849)松前崇広が幕府から新城の築城を命じられる
・安政元年(1854)松前城が完成する
・明治元年(1868)旧幕府軍により占領される
・明治2年(1869)新政府軍が占領。城内が炎上する
・明治8年(1875)城内のほとんどの建物が解体される
・昭和24年(1949)天守が焼失する
・昭和36年(1961)復興天守が完成する
登城日2022年9月22日
おすすめ度☆☆☆
感想など
・アクセス
かつては松前町にも鉄道が走っていましたが現在はバス路線のみとなり、最寄り駅は道南いさりび鉄道・北海道新幹線の木古内駅となります。
木古内駅から松前町までのバスは2022年9月現在、6時から17時までおおむね1時間に1本の頻度で運行され、函館から直通している便もあります。 同様に松前から木古内駅までのバスも午前5時から18時までおおむね1時間に1本の頻度で運行されています。
1時間に一本のバスがあるということで、北海道の公共交通機関としては比較的運行頻度が多くアクセスは悪くはないと思います。 最大の問題は北海道自体が遠くて大きいということでしょうか。

・感想
江戸軍学に基づいて縄張りされていますが、海に向かって砲台が築かれ幕末期らしい特徴もあります。 奇妙な造りの本丸御門が現存しており、個人的にはこれが松前城一番の見どころかと思います。
本丸からは津軽海峡を一望でき、北海道の南端に来たということもあり感慨深いものがありました。 厳密には北海道の南端はもう少し東の白神岬ですが、バスで通過したので行ったということで…

アクセスにも記載しましたが最寄り駅が遠くバス必須のため、松前に宿泊して1日たっぷり松前観光をするか、函館あるいは木古内に宿泊して鉄道・バスで往復するのが現実的かと思います。
私の場合は函館に宿泊し、道南いさりび鉄道木古内行き始発電車で木古内へ、そこからバスに乗り換え10時半ごろ松前着。 帰りは14時半頃のバスで木古内へ戻り、そこから北海道新幹線で本州へ渡り帰宅というスケジュールでした。
松前宿泊も考えたのですが、私のような男一人旅向けのお手頃な宿がなく五稜郭登城もあったことから函館に宿泊しました。 松前は小さな街なので宿自体が少ないというのもありますが、旅館がメインでホテルがないようで一人旅にはツラいところです。
登城記
1. 天神坂門周辺
天神坂
天神坂
撮影場所1 天神坂門表面
天神坂門表面
天神坂門石垣
天神坂門石垣
天神坂門裏面
天神坂門裏面
三の丸
三の丸
五番台場
五番台場
七番台場
七番台場
松前城模型
松前城模型
天神坂門は三の丸東側に位置する門で平成14年(2002)に復元されました。三の丸ということで枡形門のような大規模な門ではなく簡素な高麗門となっています。
三の丸は五稜郭と同様に砲弾の飛散を防ぐため土塁で外周を固めていましたが、やはり門の周りだけは威厳のためか石垣を使用しています。 また、松前城の特徴である7基の砲台が設けられていましたが、現在は五番台場と七番台場の基壇のみが残っています。
松前城の石垣には近くから採掘できる柔らかく加工しやすい緑色凝灰岩が使用されており、切込み接ぎや亀甲積といった加工度の高い積み方となっています。
2. 搦手二の門
搦手二の門入口
搦手二の門入口
水堀
水堀
搦手二の門枡形
搦手二の門枡形
撮影場所2 搦手二の門表面
搦手二の門表面
搦手二の門裏面
搦手二の門裏面
搦手二の門雁木
搦手二の門雁木
搦手二の門裏面全景1
搦手二の門裏面全景1
搦手二の門裏面全景2
搦手二の門裏面全景2
搦手二の門は二の丸東側に位置する門で平成12年(2000)に復元されました。 搦手門のため簡素な高麗門となっていますが、門前には堀と土塀に囲まれた枡形のような空間があり、折れや横矢掛りを重視する江戸軍学に基づいた縄張りの様子がわかります。 この空間の中央にある円形の石塁は古絵図には描かれていないため後世のもののようです。
搦手二の門外側の土塀は白漆喰塗籠となっていますが、裏面が板張りとなっているのは珍しいです。 この板張りは天守の壁と同様に防弾性を高めるためのものかもしれません。
3. 天守
撮影場所3 天守
天守
天守軒裏
天守軒裏
天守上重
天守上重
鯱
松前城の天守は本丸南東隅、城全体のほぼ中央に建てられましたが、江戸時代の小藩にありがちな御三階櫓として古絵図には記載されていました。
天守台は緑色凝灰岩製の亀甲積で約2.5メートルの低石垣で築かれており、天端には幅約1メートルの犬走り状の空白地を設けています。 天守台が低いのは砲撃の的になることを避けるためのようですが、それならば天守のような目立つ建物を建てるべきではありません。 このあたりは松前氏念願の築城ということでどうしても天守が欲しかったのではないかと思います。
天守は三重三階の層塔型天守で、高さは約16.5メートルで宇和島城天守をわずかに上回ります。 白漆喰総塗籠で最上階の入母屋破風を除いて一切の破風がないシンプルな造りで、各階の窓上下の長押形が唯一の装飾となっています。 屋根は北海道の寒さと雪の重さに耐えるため瓦葺きではなく銅板葺き、軒裏も総銅板包になっていますが、往時は白木のままだったとの記録もあります。 天守の内側壁面には厚さ約6センチの欅板を張って、防弾性を高めていたようです。
築城時の天守は廃城や第二次世界大戦の戦禍も免れ旧国宝に指定されましたが、昭和24年(1949)に城内にあった町役場の火災が飛び火し焼失、 失われた最後の現存天守となってしまいました。
その後、昭和36年(1961)に鉄筋コンクリート造で外観復元されましたが、築後60年を過ぎ老朽化が進んでおり木造復元の機運が高まっています。

余談ですが、天守には松前家の家宝として一つの硯が展示されており、名前は「銅雀台瓦硯(どうじゃくだいがけん)」といいます。 あの三国志の曹操が築いた銅雀台の瓦で作られたと伝わっているようですが、果たして本当でしょうか…
4. 本丸御門
本丸御門裏面
本丸御門裏面
本丸御門側面
本丸御門側面
門扉と潜戸
門扉と潜戸
本丸御門裏面と天守
本丸御門裏面と天守
撮影場所4 本丸御門正面
本丸御門正面
本丸御門表面1
本丸御門表面1
本丸御門表面2
本丸御門表面2
本丸御門表面と天守
本丸御門表面と天守
本丸御門は城内に現存する唯一の建物で天守西横に位置しています。本丸大手門にあたり門を潜ると本丸御殿の玄関がありました。
渡櫓門形式で屋根が銅板葺きである点は天守と同様ですが、二階部分の階高は正面で約2メートルと極めて低く、裏面では屋根が直接石垣に乗っており階高は前代未聞の0メートルとなっています。 二階内部は半分小屋組みに埋もれ、非常に窮屈な空間になっていることでしょう。これは全国でも唯一無二の極めて特異な構造です。 また、高い格式を持つ渡櫓門でありながら入母屋造ではなく切妻造となっているのも特徴的です。
この構造を文章で説明するのは難しいですが、1枚目、2枚目、5枚目の写真を見ていただけるとその特異さが一目瞭然でしょう。 このような構造になったのは極端な建築資材節約のためで、城外からは見えない裏面の手を抜いたためと思われます。
内部は一般公開されておらず、ネットや書籍でも内部写真が見当たりませんでした。この特異な櫓門の内部をぜひとも見てみたいものです。
5. 本丸御殿玄関
撮影場所5 本丸御殿玄関
本丸御殿玄関
本丸御殿玄関蟇股
本丸御殿玄関蟇股
本丸御殿は明治期には小学校の校舎として利用されていましたが、明治33年(1900)に玄関のみを残して取り壊されました。 その後も引き続き小学校の玄関として使用されていましが、昭和57年(1982)の小学校移転にともない本丸御門近くの現在の場所に移築されました。
二条城や川越城と同様に大きな唐破風を正面に向け、その下に庇をつけた典型的な御殿玄関の造りとなっています。
6. 松前藩屋敷
撮影場所6 松前藩屋敷の街並み1
松前藩屋敷の街並み1
松前藩屋敷の街並み2
松前藩屋敷の街並み2
松前藩屋敷の街並み3
松前藩屋敷の街並み3
北前船模型
北前船模型
松前藩屋敷は藩屋敷の名前がついてはいますが、松前町が運営する藩政時代の松前を再現したテーマーパークです。 歴史的建造物ではなく松前城とも直接の関係はありませんが、旅籠や武家屋敷といった建物の中に自由に入ることができます。 家具や調度品も凝っており、北前船の寄港地として栄えた当時の松前をしのぶことができます。
松前城や松前中心街からはやや離れており徒歩15分ほどかかりますが、松前城とのセット入場券もあり定番の松前観光スポットとなっています。
7. その他
撮影場所7 松前城遠景
松前城遠景
撮影場所8 福山波止場跡と白神岬
福山波止場跡と白神岬
撮影場所9 松城バス停
松城バス停
松前市街遠景
松前市街遠景
松前城からほど近い海岸には松前城関連史跡の福山波止場跡があります。
本州に最も近い北海道の港町である松前は北前船の寄港地として栄えましたが、港湾としての条件はあまりよくありませんでした。 湾の奥に街があるわけでもなく、海岸は岩礁地帯で水深は浅く、函館山のような波風を遮る遮蔽物もないため、荒天による破船・沈船が数多く記録されています。
そのため明治時代になると廃城となった松前城の石材を再利用し、モルタルを使用した練り積みによって東西二つの波止場が造られました。
明治30年代には北前船もなくなりましたが、松前波止場は昭和28年(1953)まで使用され松前の物流をささえました。 北海道に残る近代港湾としては実は函館よりも古く貴重な遺産です。

城の地図
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