KemaAkeの全国城めぐり
KemaAkeの全国城めぐり
五稜郭
ごりょうかく
別名亀田御役所土塁、柳野城 五稜郭全景
形態平城
築城年と築城者安政4年(1857)江戸幕府
主な城主箱館奉行
住所と所在地旧国名北海道函館市五稜郭町44(蝦夷)
アクセス JR函館本線 函館駅
↓徒歩(約5分)
函館市電 函館駅前
↓函館市電「湯の川行」(約15分)
函館市電 五稜郭公園前
↓徒歩(約10分)
五稜郭タワー

函館市電 五稜郭公園前から五稜郭タワーまでの道順は城の地図をご確認ください。
概要
もともと松前藩領だった箱館には箱館山の麓に奉行所が置かれていた。 開港にともない箱館は幕府直轄領とされたが、その際、外国人の遊歩区域内である箱館山から見下されず、 かつ函館湾内からの艦砲射撃の射程外となる亀田に奉行所を移転することとなった。
奉行所を守る堀や土塁の設計は伊予大洲藩出身の蘭学者、武田斐三郎が行い、 ヨーロッパの城塞都市を参考とした星形五角形の縄張りを持つ日本初の稜堡式城郭となった。 財政的事情から一部規模が縮小されたが、それでも広大な規模の水堀や土塁によって周囲を囲い込み強固な防衛ライン築き上げた。

-----------歴史------------
・安政元年(1854)箱館開港により亀田への奉行所移転が決定する
・安政4年(1857)五稜郭の築造開始
・元治元年(1864)五稜郭にて箱館奉行所の業務を開始
・慶応2年(1866)五稜郭の築造完了
・明治元年(1868)旧幕府軍が五稜郭を占領
・明治2年(1869)明治新政府軍へ五稜郭を明渡し
・明治4年(1871)五稜郭内の建物取壊し
・大正3年(1914)公園として一般公開
・平成22年(2010)箱館奉行所の一部が復元される
遺構 普請:曲輪、水堀、土塁、石垣
作事:土蔵
天守:なし
登城日2022年9月21日
おすすめ度☆☆☆☆☆
過去の登城記2015年9月30日
感想など
・アクセス
五稜郭への公共交通機関でのアクセスは、JR函館駅から函館市電(路面電車)あるいはバスで五稜郭公園まで行くことになります。 路面電車のある街では路面電車が便利で確実な交通期間です。函館も例に漏れず電車の本数も多く適当に行けばすぐに乗車できます。
ちなみに函館本線のJR函館駅の一つ手前に五稜郭駅がありますがここは五稜郭の最寄り駅ではないので注意してください。

・感想
五稜郭は日本に数多くある城の中でも珍しいヨーロッパ式縄張りの「稜堡式城郭」です。 地上から星形であることを確認するのは難しいですが、五稜郭タワーに登れば北の大地に刻まれた巨大な星を見下ろすことができます。 日本国内の稜堡式城郭は五稜郭の他に、五稜郭近くの四稜郭、長野県佐久市の龍岡城のみとされています。
縄張りは完全にヨーロッパ風で、砲撃からの防御と砲撃による攻撃を念頭に置いています。 しかし、堀や出入り口付近は石垣で固められており、従来の日本式築城術も用いられています。 見上げるような高石垣、累々と続く土塀、通路の屈曲はありませんが、実際に奉行所庁舎まで歩いてみると、四方から攻撃を受ける場所がいくつもあります。 単郭のみの比較的小規模な城ですが、シンプルかつ質素、それでいて機能的なまさに戦いのための城といった印象を受けました。

なお、今回の登城記の一部で前回登城時の写真を使用しています。ご了承下さい。
登城記
1. 五稜郭タワー
撮影場所1 五稜郭タワー
五稜郭タワー
五稜郭全景
五稜郭全景
半月堡
半月堡
五稜郭と函館市北部の山々
五稜郭と函館市北部の山々
函館山と函館市街
函館山と函館市街
五稜郭模型
五稜郭模型
土方歳三銅像(展望フロア)
土方歳三銅像(展望フロア)
土方歳三銅像(アトリウム)
土方歳三銅像(アトリウム)
五稜郭タワーは五稜郭築城100周年を記念して昭和39年(1964)に高さ64メートルの初代タワーが建造されました。 その後、函館空港の高さ制限緩和にともない平成18年(2006)に高さ107メートルの現在のタワーが建設され、旧タワーは解体されました。
展望フロアからは五稜郭全景を見下ろすことができ、反対側に回れば函館山や函館市街中心部を見渡すことができます。 土方歳三の銅像や五稜郭の歴史を再現したジオラマ「五稜郭歴史回廊」もあり、眼下に広がる五稜郭を眺めながら往時を偲ぶことができます。 「五稜郭歴史回廊」は立体紙芝居といった趣で、かなり詳しい内容となっており歴史好きも満足できると思います。
五稜郭タワーは厳密には五稜郭や箱館奉行所とは関係のない施設ですが、いまや五稜郭になくてはならない施設になっています。。 箱館奉行所との共通券がないのが不思議なくらいですが、それぞれ函館市と民間業者が運営している事情があるようです。
ともかく、五稜郭を訪れたらまずは五稜郭タワーに登りその特徴的な星型を確認してから五稜郭に向かうことをおすすめします。 実際にこれから自分が歩く場所のイメージがしやすくなります。
2. 半月堡
撮影場所2 半月堡
半月堡
半月堡石垣と刎ね出し
半月堡石垣と刎ね出し
半月堡から見た大手口
半月堡から見た大手口
撮影場所3 枝堀と半月堡
枝堀と半月堡
半月堡先端部
半月堡先端部
大手口本塁から見た半月堡
大手口本塁から見た半月堡
半月堡は日本城郭の馬出しにあたり、大手口に攻め込む敵の勢いを削ぎ横矢を掛けるための曲輪です。 稜堡式城郭では主郭部の凹部(稜堡の間)に半月堡を設けることで防御を高めています。
五稜郭では半月堡外側を本塁から分岐した枝堀で囲み側面を石垣で固めています。 また、日本の城でも珍しい刎ね出しを設けることで防御力を高めています。
当初五つの凹部すべてに半月堡を設ける予定でしたが、工事規模の縮小などから実際にはこの大手口の一ヶ所のみ造られました。
3. 大手口周辺
二の橋から見た本堀
二の橋から見た本堀
撮影場所4 正面
正面
空堀と本塁石垣
空堀と本塁石垣
本塁石垣
本塁石垣
見隠土塁正面
見隠土塁正面
本塁から見た見隠土塁
本塁から見た見隠土塁
半月堡から二の橋を渡ると正面が大手口で、主郭部星形の凹部に位置しており二の橋を渡る際に左右の本塁から横矢を掛けられます。
日本城郭のような枡形や折れはなく通路はまっすぐ続いていますが、正面の見隠土塁が行く手を遮ります。 見隠土塁は外側から中を見透かせないようにするのと同時に、通路正面から敵を攻撃するための拠点となり、日本城郭での「蔀(しとみ)」にあたります。
寄せ手は左右の土塁、正面の見隠土塁から攻撃されこの数十メートルの間で甚大な被害を被るでしょう。そういった意味では大手口全体が枡形になっていると考えられます。
大手口周辺の本塁は石垣で固められ、半月堡と同様に刎ね出しが設けらています。 石垣の積石は小ぶりで積み方は谷積みとなっており隅部の算木積みも完成度が低めです。 谷積は江戸時代後期の新しい石垣に見られ、江戸時代初期の打込ハギや切込ハギに比べ技術的に退化したものとされています。 やはり石垣技術は慶長の築城ラッシュ期が最高峰のようです。
もっとも五稜郭のような稜堡式城郭では大砲からの防御を重視しており、大砲が直撃したとき破片が飛び散る石垣は向いていません。 それでも門周辺や半月堡などの重要部分に石垣を用いたのは、日本城郭の発想と言えそうです。
4. 箱館奉行所庁舎
撮影場所5 正面
正面
裏面
裏面
廊下
廊下
用場小用所清所
用場小用所清所
大広間
大広間
大広間壹之間
大広間壹之間
表座敷
表座敷
中庭越しに見た太鼓櫓
中庭越しに見た太鼓櫓
奉行所庁舎は元治元年(1864)から明治4年(1871)までの10年に満たない間でしたが、江戸幕府の蝦夷統治、開港地箱館における外交拠点となっていた建物です。 平成22年(2006)に一部が木造復元されました。
復元されたのは玄関、大広間を中心とした1000平方メートルほどで往時の三分の一にあたります。それでもかなりの広さがあり往時を偲ぶには十分です。
玄関上部には物見櫓を兼ねた太鼓櫓が設けられています。このような太鼓櫓はこの頃に築かれた御殿や役所に多く見られ前橋城などにも同様のものがありました。 ただ、基本的に高い建物を設けない稜堡式城郭において、この太鼓櫓は目立つ存在で箱館戦争では新政府軍の艦砲射撃の標的となり、五稜郭への射撃角度を知られることになってしまいます。
大広間は4つの部屋からなる書院造りで、襖を開け放つと72畳の広さになります。各国外交官との接見や公の行事が行われていました。 天井は竿縁天井で欄間も質素で日本城郭の御殿とは趣が異なっており、奉行所らしさが感じられます。
大広間の奥には奉行の執務室である表座敷があります。その他、役人が政務を執り行う部屋などが復元されました。
面白かったのは「用場小用所清所(ようばしょうようどころきよめどころ)」という部屋で、要するにトイレなのですが、若干大きさの異なる二ヶ所がありました。 身分によってトイレも使い分けていたのでしょうか。
5. 土蔵と大砲
撮影場所6 土蔵
土蔵
土蔵
土蔵
大砲
大砲
低塁
低塁
土蔵は五稜郭築城時から現存している唯一の建物です。箱館戦争後いつのころからか「兵糧庫」と呼ばれるようになりました。 五稜郭が公園として整備された大正時代には「懐旧館(かいきゅうかん)」という箱館戦争の展示資料館となっていました。 平成の修理工事の際に文献資料や発掘調査成果に基づき庇野が復元されました。
かつてはこのあたりに数件の蔵が立てられていたようで、これらを囲むように低塁が残っています。
土蔵の手前にはふたつの大砲が展示されています。左は旧幕府脱走軍のブラッケリー砲(イギリス製)で射程約1キロメートル、 右は新政府軍艦載砲のクルップ砲(ドイツ製)で射程役3キロメートル、とされています。
6. 本塁と稜堡スロープ
本塁
本塁
撮影場所7 北西稜堡スロープ
北西稜堡スロープ
撮影場所8 南東稜堡スロープ
南東稜堡スロープ
撮影場所9 北東稜堡スロープ
北東稜堡スロープ
星型の五稜郭主郭部は本塁で囲まれています。 本塁は大手口などの出入口周辺は石垣で固められていますがその他の部分は土塁となっています。 本塁は石垣で石塁を築いた後に土をかぶせて土塁としているらしく、なぜこのように手間のかかることをしたのかは不明です。
また、星型の突出部を「稜堡」と呼びますが、五つある稜堡内側には本塁の上に続く緩やかなスロープが設けられています。 これは防御用の大砲を運ぶためのもので、轍の後が確認されています。
7. 東門周辺
撮影場所10 全景パノラマ
全景パノラマ
正面
正面
本塁から見た空堀
本塁から見た東門空堀
見隠土塁
見隠土塁
撮影場所11 本堀越しに見た東門
本堀越しに見た東門
現在の五稜郭には大手口(表門)と裏門の二つの出入口がありますが、東側にもう一つ出入口の跡があります。ここでは便宜上これを東門と呼びます。
この東門、古絵図や書籍によって橋の有無が異なっており、いつごろ橋がなくなったのか、そもそも橋があったのか、出入口として機能していたのかが判然としません。
ですが、東門周辺は通用口となっている大手口と異なり構造物や木々が少ないため、五稜郭の出入口の様子をじっくり観察することができます。 本堀の畔に立ち真正面から中心方向を見ると低塁、本塁、見隠土塁と続く防衛線の様子が伺えます。 本塁からは木々や構造物のない見隠土塁全体を見ることがもできます。
8. その他
撮影場所12 裏門石垣
裏門石垣
撮影場所13 本堀外側の長斜坂
本堀外側の長斜坂
撮影場所14 本堀と五稜郭タワー
本堀と五稜郭タワー
東門付近の本堀外側には堀からあげられた土を盛った長斜坂(ちょうじゃざか)が残っています。 外側から内側に向かう緩やかな上り坂を造ることで、攻撃側から直接本塁を見通せなくし、大砲の直接射撃を防ぐためのものです。

城の地図
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