KemaAkeの全国城めぐり

姫路城 ひめじじょう
別名 白鷺城
形態 平山城
築城年 南朝:正平元年、北朝:貞和2年(1346年)
築城者 赤松貞範
主な城主 赤松氏、黒田氏、羽柴氏、池田氏、本多氏、酒井氏
所在地旧国名 播磨
所在地 兵庫県姫路市本町68
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR山陽本線、同山陽新幹線 姫路駅から徒歩15分
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆☆
概要 姫路城は南北朝時代に赤松貞範が築いたとされているが、16世紀前半に黒田重隆が築城したという異説もある。少なくとも、姫山の地形を生かした中世城郭となったのは、黒田氏のころと考えられている。
天正4年(1573)に織田信長の命を受け、羽柴秀吉が播磨に侵攻、毛利氏と争うと、姫路城主の黒田孝高(官兵衛、如水)は織田方についた。最終的に織田方が勝利し、孝高の進言で秀吉は姫路城を居城とする。秀吉により姫路城は石垣を供えた近世城郭に改修され、三層の天守も築かれた。その後、天下統一を達成した秀吉は大阪城に移り、姫路城には弟の秀長が入った。
関ケ原の戦いで徳川家康が勝利すると、その戦功により池田輝政が播磨一国52万石を与えられ入城した。輝政は、豊臣恩顧の大名が多い西国を牽制するため、慶長6年(1601)から8年をかけて城を大改修し、広大な城郭となった。このとき現在まで残る、大天守をはじめとした多くの建物が築かれている。元和3年(1617)に池田氏が因幡鳥取に転封となると、本多忠政が15万石で入城し、西の丸が整備された。その後、城主は転々としたが、寛延2年(1749)に酒井氏が入城し、明治維新まで城主を務めた。だが、池田氏52万石時代に築かれた大城郭の維持は15万石の姫路藩には重荷であり、藩財政を圧迫していた。
幕末には姫路城主酒井忠惇は老中として徳川慶喜とともにあり、姫路藩も朝敵として新政府軍に包囲されたが、留守を守る家老たちが、新政府に恭順したため、姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。
明治時代には、全国の他の城と同様破壊の危機に瀕したが、陸軍大佐中村重遠の発案で、名古屋城および姫路城の保存が太政官に上申され、破壊は免れた。その後、明治の大修理、太平洋戦争での被災、昭和の大修理を経て現在にいたる。
城内案内図など 城内案内図(1400x1400)
登城日 2010/03/19
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 天守群、櫓、門など多数が現存しており、全てが見所といっても過言ではないでしょう。世界遺産、国宝指定も頷けます。
なお、平成21年(2009)10月から約5年をかけ大天守の修理工事が行われます。平成22年(2010)4月からは大天守を覆う素屋根が建設されるため、大天守の姿を見ることができなくなります。これにともない、場内の見学ルートも変更され、しばらく搦手口や切腹丸などの見学ができません。詳細は以下リンクをご覧ください。
姫路城大天守保存修理事業について

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の赤○、青○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示し、青はその写真の撮影場所を示します


姫路城の大天守が修理工事のためしばらく見ることができなくなる…という事で居ても立ってもいられず姫路城に向かいました。姫路駅北口を出ると、大手前通りの突き当たりに天守が見えます。まっすぐ歩いて約15分ほどで大手門に到着します。

大手門と桜門橋

大手門と桜門橋です。大手門と内濠に架かる桜門橋で、江戸時代の木橋をイメージし平成19年(2007)に架けられたものです。
大手門
城の地図:赤1

大手門です。桜門橋を渡ると大手門があります。昭和13年に(1938)に建てられらた大型の高麗門で、江戸時代のものとは位置も形も全く異なっています。かつて姫路城の大手門は三重の城門からなり、場内で最も拡張高く厳重な門でした。この高麗門は三重の城門の二つ目の城門の位置に建っています。人と比較すると大きさがお分かりいただけると思います。
大手門前から見た内濠

大手門前から見た内濠です。写真に写っている部分の幅は約40メートルあります。

三の丸から見た天守群と西の丸
城の地図:青1

三の丸から見た天守群と西の丸です。大手門の内側は三の丸になります。現在は広大な広場になっています。正面に天守群、左に西の丸が広がるパノラマに圧倒されます。酒井氏の時代、三の丸には城主が居住する御殿や厩などがありました。
三の丸から見た天守群と上山里曲輪の櫓群1

三の丸から見た天守群と上山里曲輪の櫓群です。右から大天守、西小天守です。その下は上山里曲輪にある「チの櫓」「リの一渡櫓」「リの二渡櫓」です。姫路城では櫓や門に“イロハニホヘト”または“いろはにほへと”で名前が付けられています。数が多いので、名前を考えるのが大変だったのでしょうか。
三の丸から見た天守群と上山里曲輪の櫓群2

同じく三の丸から見た天守群と上山里曲輪の櫓群です。少し角度を変えて撮影しました。角度を変えたことで、西小天守に隠れていた乾小天守が見えてきました。
旧西大柱
城の地図:赤2

旧西大柱です。菱の門への通路の右側にかつて大天守を支えていた旧西大柱が展示されています。下方がモミ材、上方がツガ材で三階床上で二本を継ぎ合わせ、一本の柱としていました。昭和大修理で柱真に腐りがあることがわかり、新しい柱に取り替えられました。当初は一本材の柱に取り替える予定でしが、運搬中に折れてしまったため、かつてと同じく二本継ぎの柱になりました。ところが、後から西大柱は構造上二本継ぎの柱しか使用できないことがわかり、運搬中に折れたことがむしろ幸いしました。東大柱が一本材の柱で、西大柱が二本継ぎの柱であったのには、ちゃんとした理由があったわけです。

菱の門
城の地図:赤3

菱の門です。櫓門形式で、冠木の上に花菱の紋があることからこの名前で呼ばれています。柱、貫、長押などの構造材を表面に浮き立たせ、上層に火頭窓、出格子、縦格子の窓を配置し、黒漆塗りの格子には飾り金具が付けられるなど、装飾性の高い華やかな門です。京都伏見城の門を移築したものという説もあります。
菱の門の火頭窓と飾り金具

菱の門の火頭窓と飾り金具です。
三国堀と天守群
城の地図:赤4

三国堀と天守群です。菱の門の内側の曲輪には三国堀があります。三国堀は単なる堀ではなく、貯水池としての役割も果たしています。天守がある姫山と、西の丸がある鷺山の間の谷間に位置し、元から水が集まりやすいうえ、さらに場内を縦横に走る瓦組みの排水溝により、雨水が三国堀に流れ込むようになっています。
三国堀石垣の切れ目

三国堀北面の石垣には写真のように石垣の切れ目を見ることができます。これは池田輝政による大改修前の縄張りを示す遺構として、注目されています。
菱の門から上山里曲輪を見る

菱の門から見た上山里曲輪です。菱の門から右側を見ると、上山里曲輪の「チの櫓」「リの一渡櫓」「リの二渡櫓」を見ることができます。この先の左側には石垣に穴を開けた、「るの門」があるのですが、立ち入り禁止となっており見ることができませんでした。写真左側にクレーンが移っていますが、これは大天守修理のためのもので、工事資材搬入用の足場を作っているようでした。
西の丸

西の丸です。菱の門の左側の坂道の上は西の丸になります。西の丸は池田氏転封のあと、姫路城主となった本多忠政により、嫡子忠刻、千姫夫妻のため元和4年(1618)に整備されました。千姫は二代将軍徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼に嫁いでいましたが、大阪夏の陣での豊臣家滅亡後、本田忠刻と再婚しました。将軍の娘を迎えるということで、西の丸には立派な御殿が建てられました。また、曲輪の西面から北面にかけて、約300メートルの長大な多門櫓が建てられており、百間廊下と呼ばれています。特に右のほうは長局と呼ばれ、千姫お付の女性たちが住んでいたと言われています。百間廊下にはヌからワまでの櫓、ヨからレまでの渡櫓が含まれます。百間廊下も修理中でしたが、内部の見学はできました。

カの櫓
城の地図:赤5

西の丸南東にある「カの櫓」です。
長局入り口の大戸

長局入り口の大戸です。建物内の戸とは思えない頑丈な扉です。長局には女性が住んでいたので、毎夜閉ざして厳しい守りをしていました。
長局内部

長局内部です。廊下は曲輪の外側方向に設けられ、何度も折れ曲がりながら延々と続いています。
百間廊下出入り口

百間廊下出入り口です。百間廊下には写真のような出入り口が何ヶ所か設けられています。
化粧櫓内部

化粧櫓内部です。百間廊下の端は化粧櫓と接続しています。化粧櫓は千姫が本多忠刻に嫁いだとき、徳川将軍家からもらった10万石の化粧料で建てられ、千姫が姫路城西方の男山天満宮を遥拝する際の休憩所であったと言われています。天井は杉柾張りで、壁面はすべて黒い木枠に紙を張ったものをはめるなど、技巧を凝らした邸宅様式になっています。現在は写真のように千姫の人形が展示されています。
ヌの櫓の瓦の紋

「ヌの櫓」の瓦の紋です。「ヌの櫓」をはじめとした百間廊下の屋根瓦には本多氏の家紋である立ち葵が彫られています。
西の丸から見た天守群
城の地図:青2

西の丸から見た天守群です。左下には「はの門」が写っています。姫路城は複雑な構成の天守群と、多くの建物のおかげで、少し角度を変えるだけで色々な姿を楽しむことができます。
咲き始めの桜と大天守

登城した3月19日はポカポカした陽気で、城内の桜もあるものはつぼみが膨らみ、あるものは花が開いていました。
いの門
城の地図:赤6

「いの門」です。菱の門の正面には「いの門」があり、「いの門」の内側は二の丸になります。姫路城の二の丸は規模が小さいため、御殿などは建てられていなかったようです。
ろの門
城の地図:赤7

「ろの門」です。「いの門」の正面には「ろの門」があり、「ろの門」をくぐると右側に「はの門」に続く階段があります。
はの門と大天守

「はの門」と大天守です。「ろの門」前から撮影しました。階段の上に見えるのが「はの門」で、「はの門」の内側は乾曲輪になります。ここでも桜の花が開き始めていました。
ロの渡櫓
城の地図:赤8

「ロの渡櫓」です。乾曲輪にあります。乾曲輪にはこの櫓の他に、二層の「いノ櫓」がありましたが、現在は失われています。
ロの櫓と天守群

「ロの櫓」と天守群と天守群です。乾曲輪から撮影しました。
ロの櫓の十字紋の鬼瓦

「ロの櫓」の十字紋の鬼瓦の十字紋の鬼瓦です。「ロの櫓」の鬼瓦には日本の城には珍しく十字の紋が施されています。キリシタンの名残ともいわれています。横棒が中心より上にあるので、漢字の十ではなさそうです。姫路城に関連するキリシタンだった人物に黒田孝高がいますが、池田輝政時代の櫓になぜ十時紋が…
にの門

「にの門」です。「にの門」は「ロの櫓」と一体となっており、中で通路がL字型に折れ曲がっているのが特徴です。これは池田輝政以前の古い縄張りが影響しているのではないかという説があります。
内側から見たロの櫓とにの門
城の地図:赤9

内側から見た「ロの櫓」と「にの門」です。複雑な形をしているのがわかります。
ロの櫓の波しぶき模様の鬼瓦

「ロの櫓」の波しぶき模様の鬼瓦です。「ロの櫓」の内側の鬼瓦には日除けのため、波しぶきが施されています。
ニの櫓と天守群

「ニの櫓」と天守群です。「ほの門」前から撮影しました。正面下が「ニの櫓」、左から乾小天守、大天守、西小天守となります。乾小天守は他の小天守より規模が大きく、大天守と建物の棟の向きを変えているため、他の小天守より格上の印象を受けます。姫路城の大天守と三つの小天守、およびそれらをつなぐ渡り櫓はすべて国宝に指定されています。
ほの門とイの渡櫓
城の地図:赤10

「ほの門」と「イの渡櫓」です。「ほの門」は天井が低いので注意。
油壁

「油壁」です。「ほの門」の内側は天守曲輪北側の腰曲輪になります。「水一の門」の脇に油壁と呼ばれる壁があり、ほとんどが白漆喰で塗りこんである姫路白の壁の中で珍しいものです。粘土に豆砂利を混ぜ、米のとぎ汁で固めたものといわれており、古い様式の築地塀です。秀吉時代の壁の名残と考えられています。
腰曲輪の多門櫓

腰曲輪の多門櫓です。腰曲輪には西の丸の百間廊下の半分ほどの長さの多門櫓があります。多門櫓の北側は姫山原始林と呼ばれ、昔のままの林が残っています。この多門櫓にはハ、ニ、ヘの渡櫓とホの櫓が含まれています。なお、2010年3月現在この写真から先の井戸曲輪などは大天守修理工事のため、立ち入り禁止になっています。再び入れるのは修理工事が完了する5年後となるようです。
多門櫓の瓦の紋

多門櫓の瓦の紋です。腰曲輪の多門櫓の瓦には、酒井氏の酢漿草(けんかたばみ)、池田氏の揚羽蝶、羽柴氏の五三の桐の紋が彫られています。ふと思ったのですが、江戸時代に秀吉のシンボルである五三の桐を使って幕府から睨まれたりしなかったのでしょうか?少し調べて見たころ、五三の桐はもともとは皇室由来の紋とのこと。秀吉はこの五三の桐の紋を諸大名に気前よく与え、その大名はさらに自分の家臣に与え五三の桐はどんどん増えていったそうです。そのため、皇室由来のこの紋がポピュラーな紋になってしまいました。こんな状態なので、幕府も問題にしなかったのかもしれません。

多門櫓の内部

多門櫓の内部です。多門櫓には篭城に備え米や塩を蓄えていました。内部には写真のように井戸もあります。
水一の門
城の地図:赤11

「水一の門」です。腰曲輪から先は現在立ち入り禁止となっているので、天守閣までの近道を行きます。この道には「水一の門」「水二の門」「水三の門」という小さな門が設けられています。「水三の門」をくぐって左側が天守群の入り口となります。
水三の門の瓦

「水三の門」の瓦です。ここには池田氏の揚羽蝶と木下氏の五七の桐の紋が施されています。城主が転々とした姫路城では、瓦がそれを物語るように、いくつもの紋が彫られています。
備前丸から見た天守群

備前丸から見た天守群です。「水三の門」の内側は姫路城の本丸に当たる備前丸になります。ここには池田輝政の住んだ御殿などがありましたが、明治時代に消失してしましいました。播磨なのになぜ備前丸と呼ばれるかというと、池田輝政の二男忠継が備前国を与えられたとき、まだ幼少であったため、しばらくここに住んでいたからといわれています。忠継はこの後、藩主として備前岡山城に入っています。写真左下の塀の下に「水三の門」があります。姫路城の大天守群は慶長14年(1609)に完成しました。天守曲輪の南東角に大天守、北東、北西、南西の角にそれぞれ東、乾、西の小天守を置き、それらを二層の渡り櫓でつないだ環立式天守です。また「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき、乾小天守三層目の火頭窓には格子がなく、形式上未完成状態となっているのも面白いです。

備前丸から見た西小天守と大天守
城の地図:赤12

備前丸から見た西小天守と大天守です。大天守は一、二層目の大入母屋の櫓の上に三層の望楼部を乗せた構造で、後期望楼型の建築となっています。後期望楼型は、犬山城などの初期望楼型天守から、弘前城などの層塔型天守への過渡期に当たる建築方式です。大天守の建つ石垣の高さは約15メートル、建物自体の高さが約32メートルあり、合計すると約47メートルになります。これはビル14階分の高さになります。
大天守二層目の唐破風と出格子

大天守二層目の唐破風と出格子です。この大きな唐破風と出格子の組み合わせは、姫路城大天守の大きな特徴です。かなりの存在感があります。これだけしっかりと白漆喰で塗り固められていると、木造建築であることを忘れてしまいそうです。
二の渡櫓と水五の門
城の地図:赤13

「二の渡櫓」と「水五の門」です。西小天守と大天守間は「ニの渡櫓」でつながれており、「ニの渡櫓」の下に「水五の門」があります。ぱっとみると三層の門のように見えます。
大天守入り口の戸

大天守入り口の戸です。鉄板で補強され、頑丈なつくりになっています。
大天守地階内部

大天守地階内部です。大天守は五層六階、地下一階の構造になっており、西と東の大柱が地下一階から六階床までを貫いています。地階には、天守には珍しく流しや厠があり、篭城を想定したつくりとなっています。写真は地階の様子で、東大柱と西大柱が写っています。実際はかなり暗いため、デジカメのシャッタースピードが遅くなり、ブレブレの写真になっています。

大天守一階内部です。大天守一階は地階とうってかわって外から光が差し込んでいます。天守一階、二階は周囲を武者走り廊下としています。
大天守三階内部

大天守三階内部です。大天守三階は大入母屋の屋根裏階になり、階の半分が屋根に埋まっているため、天井が高く、窓も高い位置にあります。そのため窓を攻撃に利用するため、武者走り棚が設けられています。
大天守四階内部

大天守四階内部です。大天守四階も三階と同じく、階の半分が屋根に埋まっているため、武者走り棚を設けています。また、四階には南面と北面に千鳥破風が二個ずつあり、それぞれに内室(うちむろ)と呼ばれる屋根裏部屋を設け、武者隠しまたは物置に使用し、空間を有効利用しています。
大天守大入母屋の鯱

大天守大入母屋の鯱です。大天守五階の西面、東面の窓からは、大入母屋の鯱を見ることができます。
大天守六階から見た姫路駅方面

大天守六階から見た姫路駅方面です。下に見える広場が三の丸です。かつての姫路城の外堀は現在の姫路駅のあたりにありました。規模の大きさが伺えます。
大天守六階から見た西の丸

大天守六階から見た西の丸です。菱の門も写っています。
大天守六階から見たにの門と乾小天守

大天守六階から見た「にの門」と乾小天守です。上から見るとにの門が複雑な形をしているのがよくわかります。また、写真右上には中濠にあった清水門跡が写っています。
台所櫓

台所櫓です。大天守と小天守、および渡櫓に囲まれた中庭には台所櫓があります。左は大天守、奥は乾小天守です。
大天守の軸組構造模型

大天守の軸組構造模型です。乾小天守内部には20/1の大きさの大天守の軸組構造模型が展示されています。これは昭和の大天守解体工事に当たり、構造の特徴や欠陥、各部材の補強方法などを検討するために作成されたものです。
控え壁を持つ塀

控え壁を持つ塀です。天守群を後にし「いの門」まで戻り二の丸、上山里曲輪に向かいます。写真は二の丸の「いの門」左側にある控え壁を持つ塀です。控え壁の役割は、敵の侵入と強風に対する壁の補強です。
控え壁を持つ塀の瓦

控え壁を持つ塀の瓦です。ここでは榊原氏の源氏車が彫られています。
ぬの門とりのニ渡櫓
城の地図:赤14

「ぬの門」と「りの二渡櫓」です。「ぬの門」は城内で唯一の三層の櫓門で、扉は木部をすべて鉄張りとした頑丈な門です。菱の門から左へ向かい、この「ぬの門」を通って備前丸へ向かうルートを下道といい、菱の門から直進し「はの門」を通って備前丸へ向かうルートを上道と呼びます。
ぬの門と大天守

「ぬの門」と大天守です。「ぬの門」の内側は上山里曲輪になります。上山里曲輪には「いちまい〜、にまい〜」で有名な怪談、播州皿屋敷で、殺害されたお菊の遺体が投げ込まれたといわれるお菊井戸があります。「ぬの門」の背後には備前丸の石垣がそびえています。
上山里曲輪の櫓群

上山里曲輪の櫓群です。左から「チの櫓」「りの一渡櫓」「りの二渡櫓」「ぬの門」となります。
りの門
城の地図:赤15

「りの門」です。上山里曲輪の東側には「りの門」があります。この門の先は井戸曲輪となります。写真のように「りの門」から先は、大天守修理工事のため立ち入り禁止となっています。
天守の庭
城の地図:赤16

天守の庭です。菱の門まで戻り、有料区域の外に出ます。出口の左側には天守の庭があります。大天守は350年もの間に、南東方面に約44センチ傾いてしまいました。対策として地盤沈下を防ぐため、昭和の大修理で基礎を一部コンクリートとし、不用となった礎石を、配置をそのままにこの天守の庭に展示しています。
御作事所跡から見た天守群と井戸曲輪
城の地図:青3

御作事所跡から見た天守群と井戸曲輪です。御作事所は堀を挟んで、三の丸の東側に位置し、現在は姫路市立動物園となっています。ですので、ここから写真を撮るために若干のお金を使いました。時間があればたまには動物でも眺めようとも思ったのですが、この後中濠めぐりと男山に向かう予定なので急ぎ姫路市立動物園を後にしました。
南勢隠門跡
城の地図:赤17

南勢隠門跡です。ここからは姫路城の中濠にあった門跡をめぐっていきます。姫路城は大きく分けて、三の丸、西の丸、備前丸などがある内濠より内側を内曲輪、中濠より内側を中曲輪、船場川も含む外濠より内側を外曲輪としていました。現在でも中濠の一部は残っており、中濠にあった門の跡もいくつか残っています。はじめは南勢隠門跡です。内濠を挟んで西の丸の西側に位置しています。
清水門跡
城の地図:赤18

清水門跡です。船場川沿いに設けられた城門です。名前の由来は、写真に写っている井戸、鷺の清水です。鷺の清水は古くから播磨十水の一つに数えられており、風味がよく茶の湯にも利用されていたようです。ただ、この場所は、清水門の外門内であり、一般の人は水が汲めないため、船場川に流れ落ちる涌水で茶をたてていたといわれています。
清水門跡から見た天守群

清水門跡から見た天守群です。ここは天守群の北西にあたります。写真中央の石垣の切れ目に、北勢隠門跡が写っています。かつてはこの切れ目にも石垣が続いており、清水門で中曲輪に入り、北勢隠門で内曲輪に入る形になっていました。
北勢隠門跡
城の地図:赤19

北勢隠門跡です。清水門のすぐ横にあり、西の丸の北側に位置しています。ここには門とともに「おの櫓」がありました。城の中枢に向かうには、清水門を通りこの北勢隠門に進むことになります。
男山山頂から見た天守群と西の丸
城の地図:青4

男山山頂から見た天守群と西の丸です。清水門から船場川を渡り5分ほど歩くと、男山の入り口があります。男山は姫路城の北西に位置する標高59メートルの小山で、中腹には千姫が西の丸の化粧櫓から遥拝した男山天満宮があります。山頂には姫路市で最も古い配水池があり、男山配水池公園として整備されています。山頂から見る姫路城は格別です。ただし小山といってもかなり急な階段を二百段ほど登る必要があるので、私も含め運動不足の方は注意。
男山山頂から見た天守群

男山山頂から見た天守群です。大天守の下、左から東小天守、乾小天守、東小天守となり、左下には腰曲輪の櫓群が写っています。こうしてみると、これだけ目立つ建物がよく太平洋戦争を生き残ったものだと感心します。このページを作るにあたって調べたところ、実は大天守にも姫路大空襲の際、焼夷弾が着弾したそうですが、幸運なことに不発でした。空襲の翌日、焦土の中無事残った天守群を見て姫路市民は涙したといわれていますが、その気持ちが理解できます。名古屋城、岡山城、福山城などの貴重な天守が太平洋戦争で消失した中、姫路城は本当に幸運だったといえます。

中曲輪跡、北側から天守群を見る
城の地図:青5

中曲輪跡、北側から見た天守群です。現在このあたりはシロトピア記念公園として整備されており、敷地内には兵庫県立博物館などがあります。大天守の下、左から東小天守、西小天守、東小天守となり、東小天守の下には腰曲輪の「ホの櫓」と多門櫓が写っています。
野里門跡
城の地図:赤20

野里門跡です。中曲輪の北東に位置し、脇門付高麗門の外門と脇門付櫓門の内門からなり、その間に枡形を形成していました。写真のように現在その名残はありません。
野里門跡から見た北側中濠

野里門跡からみた北側中濠です。現在、姫路城の中濠は南側を除いてほぼ原型を留めており、野里門跡からも写真のように中濠を見ることができます。かつてはもっと規模が大きかったのではないかと思います。
喜斎門跡
城の地図:赤21

喜斎門跡です。喜斎門は内曲輪東側に位置する門です。喜斎門跡からは、馬で登城した藩士が下城まで馬をつないでおく柵状の施設である「駒寄」の支柱用と思われる柱の穴が発見されています。
喜斎門跡から見た井戸曲輪と天守群

喜斎門跡から見た井戸曲輪と天守群です。大天守の下が通称「切腹丸」と呼ばれる井戸曲輪です。東、西面から大天守を見ると、二層目上の大入母屋破風が、望楼型天守から層塔型天守への過渡期の天守であることを物語ります。
久長門跡と大天守
城の地図:赤22

久長門跡です。奥には大天守が見えます。久長門跡は中曲輪東側に位置する門です。中濠には土橋を架け、脇門付高麗門の外門と脇門付櫓門の内門をほぼ直線に並べ、その間に枡形を形成していました。現在は石垣の一部が残っています。
東側中濠
城の地図:赤23

東側中濠です。奥には久長門跡が写っています。幅も深さもあまりありませんが、かつては左に写っている石垣にふさわしい幅と深さがあったのでしょう。
内京口門跡
城の地図:赤24

内京口門跡です。中曲輪東南にあり、京都方面に通じる道に向いて開かれているため、この名前で呼ばれていました。中濠には土橋が架けられ、脇門付高麗門の外門と脇門付櫓門の内門からなり、その間に枡形を形成していました。現在は学校の裏門になっており、石垣の一部が残っています。このご時勢ですから、学校の回りでカメラを持って歩いていると不審者に間違われないかドキドキです。
城見台公園から見た大天守
城の地図:青6

城見台公園から見た大天守です。城見台公園は姫路警察署の道路向い、かつての東御屋敷の南に位置しています。この鯱は、大天守の大棟に乗っていたものを復元したものです。高さは約190センチメートル、重さは約250キログラムあります。
イーグレひめじ屋上から見た姫路城
城の地図:青7

イーグレひめじ屋上から見た姫路城です。ここからは姫路城を南側から一望することができます。イーグレ姫路は大手前公園の南側に建てられた複合商業施設で、レストラン、姫路市国際交流センター、放送大学姫路サテライトスペースなどが入っています。屋上は夜9時まで開いているため、夜景もねらえます。ちなみにこの施設、レストランなどは建物の北側に入っているため、姫路城を眺めながらの食事はできません。これができれば儲かると思うのですが…
総社門跡
城の地図:赤25

総社門跡です。総社門は中曲輪の南側の東方にあり、総社の西門筋にあったためこの名前で呼ばれていました。中濠には土橋が架けられ、南を向いた高麗門の外門と東を向いた櫓門の内門からなり、その間に枡形を形成していました。現在は東側に姫路市民会館、北側にNTT西日本などがあり、市街地に埋もれ、石垣を残すのみとなっています。手前を横切っている道路は国道2号線で、南側中濠を埋め立てた上に作られています。写真左側の石垣と土塁は、かつての中濠である国号2号線に沿って東西に延々と続いています。
南側中濠の石垣と土塁
城の地図:赤26

南側中濠の石垣と土塁です。この石垣と土塁は、中濠を埋め立てて作られた国道2号線に沿って、総社門跡から真っ直ぐ埋門跡まで続き、そこで北に折れ曲がり、船場川沿いに延々と続いています。
中ノ門跡
城の地図:赤27

中ノ門跡です。中曲輪南側にある五つ門の中央にあるためこの名前で呼ばれていました。現在、姫路駅から姫路城へのメインストリートになっている大手前通りから西へ一本目の通りにあります。中濠には土橋が架けられ、南を向いた脇門付高麗門の外門と東を向いた脇門付櫓門の内門からなり、その間に枡形を形成していました。さらに内門の濠側に接して一層の櫓が設けられていました。
G門跡
城の地図:赤28

G(くまたか)門跡です。G門跡は中曲輪南側の西方にあります。中濠には土橋が架けられ、南を向いた脇門付高麗門の外門と脇門付櫓門の内門からなり、その間に枡形を形成していました。
埋門跡
城の地図:赤29

埋門跡です。埋門は中曲輪南西角にあり、船場川沿いに設けられた城門のひとつです。中濠には土橋が架けられ、南を向いた脇門付高麗門の外門と脇門付櫓門からなり、その間に枡形を形成していました。内門の船場川側に二層の埋門櫓を儲け、中曲輪の南西角櫓としていました。
車門跡
城の地図:赤30

車門跡です。車門は中曲輪西側にある門のひとつです。埋門から中濠は北側に折れ曲がり、中濠沿いに進み最初にある門がこの門になります。埋門は枡形を二重に設け、手前に木端を架け、その北に車道門があったところから、この名前で呼ばれていました。外門にあたる第一の門と第二の門はそれぞれ西向き、南向きの脇門付高麗櫓門で、内門の脇門付櫓門は南向きでした。現地案内板の復元図を見ると、この三つの門の他に、船場川に向かって直接門が設けられていたようで、船場川を行く船から物資を搬入していたのかもしれません。
西側中濠
城の地図:赤31

西側中濠です。西側の中濠はすぐ外側にある船場川と平行して設けられています。写真の右側に船場川が流れています。奥には車門跡が写っています。
一ノ橋門跡と大天守
城の地図:赤32

一ノ橋門跡と大天守です。西の丸の百間廊下も写っています。一ノ橋は中曲輪西側に位置する門のひとつで、すぐ西方にある一之橋にちなんでこの名前で呼ばれていました。この辺りは中濠と船場川が最も接近しており、この門は直接外濠の外に通じていました。
一ノ橋門跡から見た船場川と中濠

一ノ橋門跡から見た船場川と中濠です。手前の低い水面が船場川で、奥の高い水面が中濠です。写真のように一ノ橋門の辺りでは船場川と中濠がかなり接近しています。船場川と中濠の間の隙間は現在千姫の小径として整備されており桜並木となっており、埋門跡から清水門跡のあたりまで南北に続いています。

以上写真86枚にわたる姫路城登城記でした。ずいぶんと長くなりましたが、それだけこの城が素晴らしいということです。本当に空襲で焼けなくて良かった…
これからしばらく大天守の姿は見ることができなくなりますが、工事の様子を見学できるようにするそうなので、普段見ることができない、千鳥破風のアップなどを見ることができるかもしれません。修理後の大天守の姿も含め楽しみです。
ここから先はおまけとして姫路城の夜景をご覧ください。昔の人が決して見ることができなかった風景です。現代人の特権ですね。

三の丸から見た夜の天守群1

三の丸から見た夜の天守群です。撮影時間は18時42分、日没後30分ほどなので、まだ空に明るさが残っています。
三の丸から見た夜の天守群2

同じく三の丸から見た夜の天守群です。少し角度を変えて天守群を撮影しました。うろうろしていたら時間がたったので、空は真っ暗になりました。
三の丸から見た夜の大天守

同じく三の丸から大天守をアップで撮影しました。
シロトピア記念公園から見た夜の天守群

シロトピア記念公園から見た夜の天守群です。
大天守と三日月
城の地図:青8

大天守と三日月です。この日は天気がよく三日月がきれいに見えました。この写真は内濠をはさんで、天守の東側、姫路市立美術館の裏から撮影しました。
喜斎門跡から見た夜の天守群1

喜斎門跡から見た夜の天守群です。
喜斎門跡から見た夜の天守群2

同じく喜斎門跡から見た夜の天守群です。手前の濠に逆さ城が写っています。クレーンがなければ最高なんですが…文化財を守るためなら仕方がないです。
地図が表示されない場合は、F5キーでページを更新してください。


より大きな地図で 姫路城 を表示


前の城へ TOP 近畿の城 次の城へ