高田城 たかだじょう |
別名 | 鮫ヶ城、高陽城 |
形態 | 平城 |
築城年 | 慶長19年(1614) |
築城者 | 松平忠輝 |
主な城主 | 松平氏、稲葉氏、榊原氏 |
所在地旧国名 | 越後 |
所在地 | 新潟県上越市本城町 |
アクセス |
●徒歩によるアクセス JR信越本線 高田駅から徒歩20分 城までの道順は城の地図の青線を参照してください。 |
アクセスレベル |
●徒歩でのアクセスレベル ☆☆☆☆ |
概要 | 高田城は慶長19年(1614)に徳川家康の六男、松平忠輝が築いた平城である。慶長15年(1610)、御家取り潰しとなった堀氏に変わって、忠輝が75万石で越後に入封。その4年後に新城、高田城の築城に着手した。国役普請(幕府の命による工事)で築城され、総裁には忠輝の舅、伊達政宗が就任し、上杉景勝、前田利常などの大藩が普請約に任命された。特筆点として、60ヘクタールを超える城郭が、竣工まで役4ヶ月という突貫工事で築かれたことが上げられる。その背景には、大阪夏の陣を控え、江戸の背後を固めたものと言われている。天守は築かれず、石垣も積まれず、土塁のみの巨大城郭となった。忠輝以後、城主は転々とし、榊原氏の時代に明治維新を向かえた。明治41年(1908)には陸軍第13師団司令部が設置され、城郭は変形したが、外堀の半分と、内堀が現在まで残っている。 |
城内案内図など | 城内案内図(800x900) |
登城日 | 2010/05/01 |
撮影カメラ | RICOH CX1 |
みどころ | 広大な水堀が残り、天守代用となった三重櫓が復元されています。 |
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の赤○、青○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示し、青はその写真の撮影場所を示します。 |
城の地図:青1 |
妙高山と西堀橋です。堀からたくさん出ているのは蓮の茎です。現在では西堀をはじめとした外堀の大半に蓮が植えられています。これは明治維新で失職した旧士族のための蓮根栽培の名残です。夏には蓮の花で埋め尽くされますが、オフシーズンだと少々寂しいです。 |
城の地図:赤1 |
極楽橋です。二の丸から本丸に通じる橋で、明治41年(1908)の陸軍入城時に破壊されたものを、発掘調査の結果を踏まえ、平成14年(2002)に復元したものです。橋長38.4メートル、幅員5.46メートルのヒバ造りです。 |
|
本丸の土塁です。極楽端を渡って右側にあります。土塁もかつては本丸を囲んでいましたが、明治41年(1908)の陸軍入城時に破壊され、その一部が残されています。 |
城の地図:赤2 |
三重櫓西面です。三重櫓は本丸南西角の土塁上に築かれ、当時は御三階櫓と呼ばれ、天守にかわる城の象徴でした。明治19年(1886)頃に取り壊されましたが、発掘調査と資料調査の結果を踏まえ、平成5年(1993)に復元されました。三層目の切妻破風の出窓が目を引きます。 |
|
三重櫓南面です。三重櫓は三層三階、高さは15メートルで、一階、二階は展示室となっており、高田城に関する資料が展示され、最上階は展望室になっています。 |
|
徳川家のお約束、三つ葉葵の紋が彫られています。 |
|
三重櫓の鯱です。 |
地図が表示されない場合は、F5キーでページを更新してください。 |
前の城へ | TOP | 甲信越の城 | 次の城へ |