
上田城は戦国モノの小説やゲームに引っ張りだこの真田氏の居城です。
城は一度、徳川家康により破壊されていますが、仙石氏の時代に再建が行われ、石垣や堀の一部は現在まで残されています。
縄張りは真田氏時代のものを再現したようです。しかし、城の再建は、江戸時代にありがちな財政難により最後まで行われませんでした。
真田氏時代の城は織豊期の城らしく、金箔瓦を施した天守や多くの櫓がある壮大なものだったとも伝わりますが、真田氏がそれほど大きな大名ではないため真相はわかりません。
この城のハイライトと言えばやはり二度に渡る上田合戦でしょう。徳川軍の大軍を翻弄した戦いぶりは実に痛快です。
徳川軍の主力38000を関が原の本戦に参加させなかったことは、西軍が勝利していたら、徳川領をまるごと拝領しても良いくらいの戦功だと思います。
このような痛快な戦いの舞台となった近世城郭というのはなかなか珍しいのではないでしょうか。
アクセスについても申し分なく、上田駅のお城口から歩いて15分ほどで二の丸東虎口に到着します。駅からの道はゆるやかな坂道となっており、思った以上に比高があると感じました。
私が登城した日は「上田城けやき並木紅葉まつり」が行われており、沢山の人で賑わっていました。尼ヶ淵の広場では、真田幸村コンテストなるものが開催されていました。
昨年の優勝者は名古屋の女性だったそうです。

各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は
城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 二の丸東虎口
二の丸には東、西、北に虎口がありました。東虎口は大手門に当たります。かつては枡形を形成していましたが、一部の石垣が破却されたため枡形は失われています。
二の丸の虎口はいずれも簡単な木戸が作られていただけで、櫓門は建てられていませんでした。
二の丸の三方を守る二の丸堀は空堀で、その延長は約1.2キロメートルに及びます。昭和47年(1972)までは、上田温電北東線が堀底を走っていました。
二の丸橋の下にはその頃のものと思われるガイシが残っています。今は綺麗なけやき並木となっています。
2. 尼ヶ淵から見た櫓群
本丸の南側は千曲川の分流である尼ヶ淵に面した断崖で、天然の要害になっていました。現在、尼ヶ淵は埋め立てられ広場となっていますが、断崖はそのまま残っています。
上田城は南側以外の三方は、本丸を二の丸が囲む梯郭式の縄張りとなっています。南側はこのように本丸が直接城外に接していますが、尼ヶ淵と断崖により防御には事欠かなかったようです。
現在の上田城の櫓や石垣は、江戸時代に仙石忠政によって築き直されたものですが、縄張りは築城時と大きく変わっていないと考えられています。尼ヶ淵から現存する西櫓と南櫓を見上げると、徳川軍が攻めあぐねたのも納得できます。
3. 平和の鐘
上田城下には少なくとも延宝5年(1677)には、時を知らせるための鐘があったと記録されています。
大正時代にはその役割をサイレンに譲り、鐘楼もこの場所に落ち着きました。
しかし、太平洋戦争時に金属不足のため軍に徴用され鐘はその姿を消し、鐘楼のみが寂しく残されていました。
昭和47年(1972)に市民の協賛のもと、鐘が復元され再び鐘楼に収められました。
その際、末永く平和が続くことを願い「平和の鐘」と名を改め現在に至っています。
4. 本丸東虎口櫓門と南櫓、北櫓
本丸東虎口は本丸の大手門に当たります。下見板張の南櫓、櫓門、北櫓が一列に並ぶ姿は上田城の代表的な景観となっています。
上田城には現存櫓が3棟あります。仙石忠政による上田城再築は未完に終わりましたが、本丸には7棟の二階櫓と、2棟の櫓門が築かれました。
●本丸東虎口櫓門
本丸東虎口櫓門と袖塀は、古写真や石垣の痕跡、発掘調査結果に基づいて平成6年(1994)に木造復元されました。
合わせて虎口に続く土橋も整備され、両側に武者立石段と呼ばれる石積みが設けられ、本丸大手の格式を高めています。
また、櫓門正面向かって右側の石垣には「真田石」と呼ばれる大きな石があります。
真田昌幸の子、信之が松代に転封となったとき、この石だけは父の形見として持って行こうとしましたが、どうしても動かせなかったという伝承が伝えられています。
しかし、現在の上田城の石垣は、江戸時代に仙石忠政が造ったもので、このような伝承が生まれたのも、上田の人々の真田びいきを物語っているのではないでしょうか。
●南櫓・北櫓
本丸南櫓と北櫓は民間に払い下げられ、金秋楼と万豊楼という遊郭になっていました。その際、建具を設置するためか、櫓内の柱が丸柱から角柱に改造されています。
今でも柱はそのままで、天井の小屋組が丸材なのに対して柱のみが角材のため、改造されたことを伺うことができます。
南櫓の内部には上田城の古写真が展示されており、その中には遊郭時代の南櫓と北櫓の写真もあります。
この写真を見ると改造こそされていますが、同じ建物であることがわかります。
昭和18年(1943)から昭和24年(1949)にかけて市民の寄付により買い戻され、現在の場所に移築復元されました。
5. 真田神社
上田城本丸の南半分は真田神社の敷地となっています。明治時代に松平神社として創建された歴代城主を祀った神社で、いつのころからか真田神社と呼ばれるようになりました。
明治維新後、政府は全国の城の民間払い下げを進めました。このとき、将来本丸が変貌するのを恐れた丸山平八郎氏が、本丸付近を一括で買い取り、遊園地として庶民に開放し、最初期の民間公園のひとつとなりました。
明治26年(1893)までに本丸は丸山氏から神社に寄付され、神社の創建となりました。
境内には「真田赤備え兜」という巨大な兜があります。これは同じく境内にあった真田杉の切り株を守るためのもので、兜の内側の箱に切り株が収められています。
かつて上田城には老杉が林立していましたが、現在は数本が残るのみです。その中の一本が倒木の恐れがあったためやむなく伐採したところ、樹齢450年の杉であるがわかりました。
まさに上田城築城当初からあった杉であったため、なんらかの形で保存しようということで、このように神木として後世に伝えることになったそうです。
神社本殿の横には真田井戸と呼ばれる井戸があり、この井戸に抜け穴があり、城の北にある砦に通じていました。籠城時には兵糧の搬入、城兵の出入りにも使用されたと伝えられています。
6. 西櫓
真田神社の奥には西櫓があります。江戸時代初期の寛永3年(1626)〜寛永5年(1628)にかけて、仙石氏によって建てられました。
上田城で建築当初のまま残されている唯一の建物です。
本丸西虎口を守る重要な櫓ですが、江戸時代は平和が続いたため、倉庫となっていました。
「西櫓」という名称も南櫓、北櫓の移築時に付けられた名前で、江戸時代には名無しの櫓でした。
建物の内部は、中央に丸太材の心柱が立ち、仙石氏の「仙」の字の焼印が押されているそうです。
また、現在の屋根に乗っている鯱は、昭和になってから寄付されたもので、江戸時代の上田城の櫓に鯱はなかったそうです。
7. 二の丸北虎口
案内板等がなかったため詳細はわかりませんが、二の丸北虎口です。見たところ石垣は新しいようで、調べてみたところ、発掘調査の結果にもとづいて復元さた石垣のようです。
案内図によるとこの外側には百間堀と呼ばれる堀があったようですが、現在は運動場になっています。
8. 内堀
本丸を囲む内堀は、水堀となっており幅は広いところで20メートル以上あります。上田城付近は東側の城下町が城郭部分よりやや高くなっています。
そのため内堀の堀も東から取り入れ、その水源は城より4キロメートル東を流れる神川となっています。