
丸亀駅から北を見るとほぼ正面に丸亀城のある亀山が見えます。アーケード街を通りぬけ徒歩15分ほどで大手門に到着します。
高松城の支城として生駒親正によって築城された丸亀城ですが、支城にしてはあまりにも立派すぎる城です。
それもそのはずで、現在の丸亀城は丸亀藩成立後に本城として大改修された姿であり、石垣も多くがこの頃のものと考えられています。
ですが丸亀藩の石高は五万石ほど、石高の割に頑張りすぎな気がしますが…
四段の高石垣で固められたその姿はまさに石の要塞で、日本屈指のスケールと美しさを誇ります。
高石垣は総高60メートルで、最も高い石垣は22メートルほどです。石垣は亀山の標高2分の1あたりから立ち上がり、木々に囲まれた麓には石垣はありません。
しかしそのスケールから麓から山上まですべてが石垣で固められているような錯覚を受けます。
現存する天守は現存十二天守のうち最も小さいものですが、総高60メートルの石垣の上にあるため、実際の大きさ以上の存在感があります。かつてはこの周りに多門櫓や二重櫓
が続いていたそうで、さぞや見応えのある景色だったことでしょう。

各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は
城の地図と対応しています。青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 大手門
内堀に囲まれた山下曲輪の北面中央に丸亀城主要部への大手門があります。
高麗門、内枡形、渡櫓門で構成され、高麗門から右折で渡櫓門に続く動線となります。この形式の門は最も守りの堅い門と言われています。
内枡形は三方からの攻撃が可能です。右に折れる動線は攻め手正面に当たる渡櫓門からの弓・鉄砲による攻撃に適しています。右利きの人間は弓・鉄砲を構えるとき、自分の左側に標的があるほうが狙いやすいためです。
加えて枡形は約18メートル×約20メートルと大阪城などの幕府の大城郭にも匹敵する規模を誇ります。これらから丸亀城大手門は枡形門の理想型と言えそうです。
築条時の大手門は内堀南面、現在の搦手にありましたが、京極氏の入城直後に現在の位置に改められました。枡形を囲む石垣は巨石を数多く使用しており「見せる門」として大手門にふさわしい造りとなっています。
大手一の門の壁は下部は厚く、上部が薄くなっています。これは太鼓壁と呼ばれるもので、関ヶ原の戦い以後に築城された城に多く見られるものです。
大砲への備えとして壁の下部内側に瓦礫などを詰めて厚さを確保することで防弾性を高めています。当時の大砲弾は小さく炸裂しないためこの程度の備えで十分だったようです。
この日は運良く大手一ノ門内部が公開されており、この太鼓壁を見ることが出来ました。
2. 御殿表門・番所長屋
御殿表門はその名の通り、山下曲輪の西にあった藩主居館の正門になります。武家の正門に使用される格式高い大型の薬医門で、間口は五間(約9メートル)あります。
大手門と同様に京極氏時代のものです。
番所長屋は御殿表門の西に接しL字状に南へ続いています。解体修理の際に発見された板札にとってお駕籠部屋にも使用されていたことがわかっています。随所に無双窓を開き、庇屋根付きの広い出入口を作っています。
これらの手法は慶長期の特徴を示しており、城内で最も古い建物と言われています。
3. 見返り坂
亀山南面の大手門から山上の三の丸へ向かう坂は見返り坂と呼ばれています。あまりにきついことからついつい休憩して後ろを振り返ってしまうことからこの名前で呼ばれるようになったとか。
見返り坂をしばらく登ると三の丸北側の石垣が目に飛び込んできます。この辺りの石垣が丸亀城内で最も高い石垣で、高さは22メートルあります。扇の勾配の石垣で見事な曲線美を見せてくれます。
4. 三の丸東石垣
さきほどの石垣と見返り坂を挟むように三の丸東石垣がそびえています。石垣上部の色が異なるのは近年修理工事が行われたためです。
天守に展示してある復元図によると見返り坂のこの辺りにはなんらかの門があったようです。三の丸から岬のように付きだした高石垣はなかなか印象的です。
この造りから多重櫓があったと思いきや、特に櫓等の建築物の遺構は発見されていません。
5. 三の丸・二の丸
見返り坂を登り切ると三の丸です。三の丸は一段高い二の丸をぐるりと囲み、南側とこのあたり(西側)が広くなっています。
海抜約50メートルに位置しており東方には讃岐富士と呼ばれる飯野山を望めます。
かつて南東隅には二重の月見櫓が建っていました。月見櫓から月明かりの讃岐富士を眺めていたのでしょうか。さぞや風流な景色だったことでしょう。
二の丸西面のほぼ中央には喰違虎口の城門が開かれており、復元図によると渡櫓門ないし楼門が建てられていたようです。二の丸の正門のようですが、案内板等がなく門の名前は不明です。
6. 天守
本丸北面のほぼ中央には三重三階層塔型の小ぶりな天守があります。万治3年(1660)に京極高和によって建てられたもので、現存十二天守のひとつに数えられています。四国にある現存天守の中では最も古いものです。
高さは15メートルほどですが、遠くから見ると亀山を囲む高石垣の上にあるため存在感があり小ささを感じさせません。
外観の特徴としては一階の三面を下見板張りとしていること、三階妻面の向きが通常の建物とは逆になっている点が挙げられます。
妻面とは屋根をかける際にできる三角形の壁面で、外形が長方形であれば通常は短辺に設けられこの面を建物の正面とします。
しかし丸亀城では妻面が長編(北面、南面)に設けられています。そのためか天守を西面、東面から見るとひょろりとしておりアンバランスな印象を受けます。
これは天守正面を城下町のある北面にするための苦肉の策で、城下町からの見栄えを重視したためと言われています。
内部は江戸時代の天守らしく、柱が多く畳を敷いた形跡もなく天井も貼られていません。こららのことから他の城と同様に居城目的では使用されず、物置等として使用されていたと考えられています。
7. 本丸から見た丸亀市街
海抜約70メートルの本丸からは眼下に山下曲輪、中堀の周りに広がる丸亀市街を一望できます。市街地の向こうには瀬戸内海とそこに浮かぶ島々、東に目をやると延々と続く長大な瀬戸大橋を遠望できます。
8. 本丸・二の丸の高石垣
三の丸からは本丸と二の丸の高石垣を間近に見ることが出来ます。時間が許すならばぐるりと三の丸を一周することをおすすめします。石垣の城としての丸亀城をを満喫できます。
本丸北西隅のあたりの石垣をよく観察すると石垣に刻印を見つけることができます。
天守の直下にはかつて二の丸搦手門があり天守唯一の石落しがこの門を見下ろしていました。門の左側には二重の長崎櫓があり天守とともに二の丸搦手門の守りを固めていました。
本丸西面の石垣には石垣を継ぎ足した跡があります。
本丸南西隅の石垣はちょっとした一二三段の石垣になっており幾重にも重なる石垣が美しいです。近くには抜け穴伝説の残る大きな三の丸井戸があります。
9. 搦手口周辺と三の丸高石垣
亀山の南に位置する搦手口は山崎氏時代までは丸亀城の大手口とされ、城内で最も堅固に作られています。
通路は折れ曲がり周囲の石垣は通路を見下ろすようにそそり立っており威圧感を感じます。
石積み技術は搦手口の作られた山崎氏時代が頂点と言われており、このあたりの石垣は巨石を使用し、算木積みも完成域に達しています。
帯曲輪は三の丸の西と南を守るように築かれており、ここからは三の丸の高石垣を間近に見ることが出来ます。
亀山の南側では丸亀城では珍しい野面積みの石垣を見ることが出来ます。生駒親正による築城当時の石垣なのかもしれません。
10. 内堀
山下曲輪を囲む内堀は東西約540メートル、南北約460メートルの規模で幅は約40メートルあります。
搦手方面の南側は土塁で、大手方面の北側は石垣で固められています。
このことからも大手方面、瀬戸内海方面からの見栄えを意識した丸亀城の築城思想をうかがい知ることが出来ます。
登城した日は端午の節句が近く、堀の上には色とりどりの鯉のぼりが泳ぎ、天守と鯉のぼりのコラボ写真を撮ることが出来ました。