
城は高松駅の目の前、徒歩5分ほどとアクセスは抜群です。高松駅に最も近い入り口は西入口となりますが、藩政時代の大手門は旭門です。西入口の反対側となり少々距離があります。
宇和島城、
今治城、三原城なども高松城と同様の海城ですが、
現在では埋立て等で海が遠くなり海城らしさはあまり感じられません。
高松城も例に漏れず海との間に道路や港が造られたため若干海が遠くなっています。それでも天守台から海までの距離は150メートル程度で海城らしさを十分に感じることができます。
一説によると縄張りは黒田官兵衛が手がけたとも言われていますが、どうやら親正自身が行ったもののようで、後に親正が築城した丸亀城との共通点も指摘されています。
丸亀城も日本屈指の名城ですが、そう考えると生駒親正という人物はなかなかの名築城家なのかもしれません。
また、現存する二棟の三重櫓も高松城の魅力でしょう。いずれも1670年ころの建造で、無骨さや厳つさはなく層塔型ということもあってか、端正な趣で優雅さを感じます。
「乱世は遠くなりにけり」といったところでしょうか。これらの櫓は内部公開されていないのが残念です。
その他各所に見られる様々な技法の石垣や、礎石、水城ならではの水門など見どころの多い城です。
最近では天守復元計画が進行中のようで、四国最大の天守が再び姿を現す日も近いかもしれません。

各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は
城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示します。
1. 西入口と北面の石垣
西入口は高松駅に最も近い高松城の入り口で、かつては門を挟むように張り出した石垣上に簾櫓(れんやぐら)と弼櫓(ゆみだめやぐら)が建てられていました。
かつて高松城の北面は石垣が直接瀬戸内海に面していましたが、現在は埋め立てが進み水城通りとフェリー乗り場が瀬戸内海との間に造られ海は遠ざかっています。
現在、高松城には中堀の一部と内堀の大半が残っていますが、北面は瀬戸内海が天然の外堀になっていたわけです。
このあたりの石垣は豪快な野面積み、打込ハギ、算木積みなど様々な技法の石垣が組み合わされ面白い景観を造っています。
いつの時代のものかはわかりませんが既存の石垣の上に積み足した石垣もありました。
2. 月見櫓・水手御門・渡櫓
松平氏時代の改修で三の丸の北側に海を埋め立てて新曲輪が造られました。
月見櫓は新曲輪の北西隅に位置しており、松平氏二代目藩主、頼常の手により延宝4年(1676)に完成しました。南には水手御門と渡櫓が連なっています。
水手御門と渡櫓は生駒氏時代の海手門を改修して建てられました。
月見櫓は三重三階の層塔型でその構造には無駄がありません。
一方その外見は変化に富んでおり、一重目の出窓は向唐破風と切妻破風、二重目妻面は軒唐破風で飾られています。
窓には格子を入れず、軒下の垂木は漆喰で隠されているためすっきりとした印象を受けます。
さらには壁面に木材をそのまま出した長押を付け、白い壁面に変化をつけています。
これらが相まって月見櫓の名前にふさわしい上品な建物となっています。
しかし、松本城や岡山城に見られるように、月見櫓は廻縁などを設けた開放的な造りとなるのが普通で、高松城の月見櫓はこられとは趣が異なっています。
それもそのはずで、かつて月見櫓は「着見櫓」と呼ばれており、瀬戸内海から直接水手御門に出入りする船を監視する櫓だったようです。
水手御門はいわば高松城の海の大手門、大手門の脇に立派な櫓を建てることで威を誇るという目的もあったのでしょう。
しかしその上品な外観を見ていると「着見櫓」が「月見櫓」に変化していったのも頷けます。
3. 披雲閣
かつて高松城三の丸には高松藩政庁および藩主住居として披雲閣と呼ばれる広大な御殿が建てられていました。
しかしこれは明治時代に老朽化のため取り壊されています。
現在の披雲閣は高松松平氏十二代当主で貴族院議長も務めた松平ョ寿が、当時の金額で15万円(現在の約15億円ほどか)を投じて大正6年(1917)に完成させたものです。
これでも十分に大きなお屋敷なのですが、江戸時代の半分ほどの規模ということです。
松平家のお屋敷だけあって鬼瓦には葵の御紋が施されています。
現在は高松城跡とともに高松市に譲渡され、会議や茶会など様々な用途で使用されています。
残念ながら利用者以外の立ち入りはよろしくないようなので外観だけ撮影しました。
4. 桜御門跡
桜御門は三の丸の大手門にあたり、かつては写真の石垣上に渡櫓門が建てられていました。
太平洋戦争の高松空襲により惜しくも消失しており、現在でも石垣には火災により赤く焼けた痕跡が残っています。
礎石の保存状態は良好で、柱に使用された金具の錆跡が残っており当時の様子を偲ぶことが出来ます。
5. 水門
水城である高松城独特の施設がこの水門になります。潮の干満による水位の変化を防ぐためのもので、ここから海水を引き入れ広大な堀を満たしていました。
当時の姿のままではないようですが、石材などは当時のもののように見えます。かつての姿の復元図などがあると城好きとしては嬉しいところです。
6. 艮櫓(旧太鼓櫓跡)
艮櫓は桜の馬場の南東隅に建つ櫓です。南東は「巽」ですが、なぜ北東を示す「艮」なのかというと、もともとは東の丸の北東隅櫓であったためです。
昭和40年(1965)に現在の場所に移築されました。その際、石垣の改変や建物の向きを変えています。もともとこの場所にはほぼ同型の太鼓櫓が建てられていました。
月見櫓と同時期の完成で、三重三階の層塔型の櫓です。月見櫓と異なり鉄砲狭間や石落としなどが見られ実用性重視の印象を受けます。
7. 旭門枡形
三の丸の南には桜の馬場がありその東側には高松城主要部の大手門にあたる旭門があります。
かつては桜の馬場の南側中央に大手門がありましたが、寛文11年(1671)に三の丸に披雲閣が建てられると、この大手門は取り壊され新たな大手門として旭門が造られました。
大手門にふさわしい堅牢な造りで高麗門、内枡形、渡櫓門で構成されていました。渡櫓門は太鼓門とも呼ばれており、その脇(現在の艮櫓)には太鼓櫓が建てられていました。
渡櫓門は現存しません。
門前に架かる旭橋は筋違い橋となっています。
枡形石垣は多角形に整形された石材を積んだ切込ハギとなっており手が混んでいます。
枡形北側には埋門もあり、渡櫓門を攻撃する敵への不意打ちに使えそうですが、江戸時代も中頃のことなので裏口や近道だったのかもしれません。
8. 鞘橋
鞘橋は内堀にかかる橋で、本丸への唯一の動線となっていました。生駒親正による築城時から同じ位置に橋が架けられていましたが、当初は欄干橋と呼ばれ屋根のない橋でした。
1640年代なかばの絵図でも屋根は描かれておらず、文政6年(1823)の絵図で屋根付きの橋として描かれています。松平氏時代に改修が行われたようです。
現在の鞘橋は明治17年(1884)の天守解体時に架けかえられたものと伝わっており、昭和46年(1971)に解体修理を行っています。
平成18年(2006)には天守台石垣修理に伴って本丸側を一部修理しています。そのため解体前より橋の全長がやや長くなっているそうです。屋根の色が違う部分が延長部分でしょうか。
9. 天守台
高松城の本丸は東西に細長く唯一の動線である鞘橋を落とすと完全に孤立するようになっていました。現在本丸を囲む堀は西側以外が残っています。
天守台は本丸の東端にあり、かつては三重四階・地下一階、天守台からの高さ約29メートルの層塔型天守が建てられていました。
この天守の最大の特徴は張り出した一階部分と最上階です。
一階部分が張り出した例は
熊本城などに、最上階が張り出した「唐造」の例は小倉城などに見られますがこの両方を持つ天守は高松城のみです。
天守としては四国最大の規模で、向唐破風の出格子窓、比翼千鳥破風、最上階には大型の華頭窓とその上部に軒唐破風を設けるなど装飾性も非常に高いです。
一階と最上階が張り出しているということで、バランスに難ありと思いきや復元図を見るとこれがなかなか均整のとれた美しい姿だったようです。
残念ながら天守内部の詳細は不明ですが、最上階は「諸神の間」と呼ばれ、三十体以上の諸神、諸菩薩などが祀られていたと伝えられています。
天守内に神仏を祀る例は多々ありますが、これほど多くの神仏を祀る例はなくどのような空間になっていたか興味深いです。
明治17年(1884)に天守が解体された後、天守台には松平頼重を祀った玉藻廟が建てられてましたが、平成18年(2006)からの石垣修理工事に伴い玉藻廟を遷座しています。
石垣修理工事は平成24年(2012)に終了し、穴蔵があったことが確認されました。現在天守台は一般公開されています。
近年天守の外観古写真が新たに発見され、天守復元の議論が活発化しているようですが、復元の鍵は内部構造の解明が握っているようです。

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