KemaAkeの全国城めぐり
湯築城
ゆづきじょう
別名湯月城 家臣団居住区
形態平山城
築城年南北朝時代、天文4年(1535)
築城者河野通盛、河野通直
主な城主河野氏
所在地旧国名伊予
所在地愛媛県松山市道後公園
アクセス 松山市電 公園前
↓徒歩(約1分)
道後公園西口
アクセスのしやすさ☆☆☆☆☆
概要
-----------歴史------------
湯築城は源平合戦で源氏方として功績を上げ、伊予守護を務めた河野氏が居城とした。 その期間は南北朝時代(14世紀前半)から天正13年(1585)まで250年におよぶ。築城者は河野通盛とされる。
天文4年(1535)には河野通直が湯付掘(現在の外堀か)を造り二重の掘を持つ現在の形になった。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国平定に屈した河野氏は城を明け渡し、福島正則が城主となるがほどなく廃城となった。
---------構造・特徴--------
小高い丘陵を二重の水堀が囲む輪郭式の縄張りで、中世城郭らしく石垣のない土の城である。 外堀、内堀がほぼ現存し、土塁も多く残されている。
遺構 普請:水堀、土塁
作事:なし
天守:なし
登城日2014/4/30
感想など 日本最古の温泉のひとつである道後温泉のすぐそばに伊予守護河野氏250年の居城である湯築城はあります。 松山市電に乗ると松山駅から20分ほどで終点の道後温泉に到着しますが、手前の公園前の正面が道後公園として整備された湯築城です。 終点の道後温泉から歩いても5分もかかりません。道後温泉に驚くほど近いので、温泉上がりの散歩で昔に思いを馳せるのも粋ではないでしょうか。

湯築城は松山という大都市の市街地にありながら堀や土塁がよく残されています。 あまり広くない堀や曲線で構成された縄張りはいかにも中世の城と言った感じです。 一見すると平城のようですが、中心部は丘陵となっており、一部は岩がむき出しになった険しい地形となっています。 市街地に残る中世城郭としてよく整備がされており、資料館のほか、発掘成果をもとに室町期の武家屋敷や土塀などが復元されています。 土塁を輪切りにした土塁展示室は湯築城ならではの見どころとなっています。

松山城に比べると見劣りはしますが、近世城郭ばかり見ているとこういった素朴な城も良いものです。 資料館や武家屋敷内の展示はなかなかユニークでした。
登城記
1. 搦手口周辺
搦手口
搦手口
搦手口から見た外堀
搦手口から見た外堀
湯築城資料館
湯築城資料館
道後公園の模型
道後公園の模型
松山市電、公園前の正面が湯築城の搦手口で、現在は道後公園西口となっています。
湯築城の堀は広いところでも幅は18メートルほど、狭いところでは10メートルもありません。曲線状に続く土塁と相まって近世城郭にはない柔らかさ(?)を感じます。
西口を入るとすぐ右側には湯築城資料館があります。昭和63年(1988)から始まった発掘調査の概要、出土品、河野氏の歴史などをパネルや映像を使って展示しています。 道後公園の模型も展示されており、二重の堀に囲まれ中心が丘陵となっている湯築城の縄張りがよくわかります。
2. 家臣団居住区
武家屋敷1その一
武家屋敷1その一
武家屋敷1その二
武家屋敷1その二
武家屋敷1内部
武家屋敷1内部
円形石積遺構
円形石積遺構
武家屋敷2その一
武家屋敷2その一
武家屋敷2その二
武家屋敷2その二
猫足あと付かわらけ
猫足あと付かわらけ
家臣団居住区
家臣団居住区
外堀に囲まれた近世城郭で言うところの二ノ丸に当たる曲輪の南部一体は復元区域となっており、発掘成果に基づいた武家屋敷の復元、礎石建物の平面表示などが行われています。 西側は家臣団居住区で、武家屋敷が当時の工法で二棟復元されています。間取りは発掘で見つかった礎石から推定したとのこと。
武家屋敷1は門を設けた立派な造りで、主室には16世紀中頃に流行した連歌の場面、隣の台所では使用人が客人に茶を点てる準備をしている様子が再現されています。 武家屋敷1の前には一見すると井戸のような石積遺構がありますが、井戸にしては浅すぎるためその用途はわかっていません。
武家屋敷2には出土した「かわらけ」などが展示されており、その中に猫の足跡がついたものがありました。 猫がいたずらしたものを当時の人も可愛らしいと思い、そのまま焼き上げたのでしょうか。年百年も昔の文字通りの「猫の足跡」に微笑んでしまいました。
3. 内堀周辺
内堀
内堀
丘陵部の岩肌
丘陵部の岩肌
内堀の幅は11〜12メートル、深さは3メートルほどで、堀の外側に高さ2メートルほどの土塁が続いていました。土塁の一部が復元されています。
丘陵部の斜面の一部では天然の岩肌が露出し、見事な景色となっています。周囲は上級武士居住区だったようです。 付近の土坑からは備前焼や中国陶磁器が出土しており、この岩肌を眺めながら宴会を行っていたのでしょう。
4. 庭園・上級武士居住区
庭園の池
庭園の池
道路と排水溝
道路と排水溝
復元区域の東側は庭園・上級武士居住区です。この辺りは遺構が平面表示されています。
庭園の池は3メートル四方に小石を敷き詰めた浅い池と、大きな石を周囲に配置した大きな池が一体化しており、 周囲には建物の一部と思われる礎石が見つかっています。池を望む建物があり、庭園が造られていたと考えられています。
外堀土塁の内側には道路と排水溝が巡っています。道路の幅は3メートルほどで、道路脇の排水溝から前述した庭園の池に水が引かれています。
5. 土塁展示室
土塁展示室入口
土塁展示室入口
土塁展示室
土塁展示室
外堀土塁の構築
外堀土塁の構築
外堀土塁模型のできるまで
外堀土塁模型のできるまで
湯築城の見どころのひとつがこの土塁展示室です。その名の通り、外堀土塁の中に造られた展示室で、土塁の断面を見ることが出来ます。
FRP樹脂で土塁表面を固め、地層ごとにパネル状にして工場で補強を行い、再度この場所にパネルを設置したとのこと。 外堀土塁は基底幅が約20メートル、高さが約5メートルあり、総延長は約900メートルありました。土塁展示室に入るとその高さと幅を実感することが出来ます。
6. 大手口周辺
大手口
大手口
遮蔽土塁
遮蔽土塁
現在の道後公園東口は湯築城の大手口にあたります。この辺りは運動場となっており、外堀、内堀ともに一部が失われています。
大手口を入って左側は外堀と内堀の間が最も狭くなっており、大手口からの視線をさえぎるとともに、上級武士居住区の守りを固めるため遮蔽土塁が築かれました。 遮蔽土塁と外堀土塁の間には門があったと考えられています。
6. 丘陵部
展望台から見た松山城その一
展望台から見た松山城その一
展望台から見た松山城その二
展望台から見た松山城その二
内堀に囲まれた丘陵部は比高約30メートルで、なかなか険しい地形となっています。築城当時の城域はこの丘陵部と考えられています。 丘陵上の平地は少なく、手狭になったため平地部に城域が広がっていったのでしょう。
丘陵部の頂上には展望台があり、展望台からは松山城方面を見ることが出来ます。松山城本丸からの直線距離は2キロメートルほどです。 城を築くのであれば松山城のある勝山のほうが相応しい気がしますが、道後温泉を抑えるためにここに居館を構えたのかもしれません。

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