KemaAkeの全国城めぐり

伊賀上野城 いがうえのじょう
別名 白鳳城
形態 平山城
築城年 天正13年(1585)
築城者 筒井定次
主な城主 筒井氏、藤堂氏
所在地旧国名 伊賀
所在地 三重県伊賀市上野丸之内106
アクセス 伊賀鉄道伊賀線、上野市駅
↓徒歩(役15分)
本丸
アクセスのしやすさ ☆☆☆☆☆
概要 ●筒井定次による築城
天正12年(1584)に豊臣秀吉から伊賀国を与えられた筒井定次がこの丘に築城し最高所に本丸を置いた。このとき三重の天守築かれたと伝えられる。
●藤堂高虎による拡張
慶長13年(1608)に筒井定次は関ヶ原の戦いで西軍に通じていたことが発覚し、伊賀国を没収される。定次に変わり、伊賀・伊勢八郡を与えられた藤堂高虎が城主となる。 高虎は大阪の豊臣方との決戦に備え、筒井氏の故城を自らの縄張りで大きく拡張した。新たに拡張した場所に天守の建設も進められたが、完成間近に大暴風により倒壊した。ほどなく大阪夏の陣により豊臣氏が滅亡したため、天守建設の機会が失われ天守のない城となり、城の拡張も中止され未完成のままとなった。 この後、江戸時代を通して藤堂氏が城主を努め城代が置かれた。
●明治時代以降
廃城令により全国の他の城と同様に建物の大部分が取り壊された。 明治29年(1896)に公園として整備された。 昭和10年(1935)に地元出身の衆議院議員。川崎克によって天守台上に伊賀文化産業城として木造で模擬天守が建てられた。
遺構 普請:石垣、堀
作事:なし
天守:昭和10年(1935)築、木造模擬天守
登城日 2012/1/12

感想など
アクセスについては最寄り駅である上野市駅からは歩いてすぐです。私のように遠くから公共交通機関で行く場合は、名古屋方面または大阪方面から近鉄特急に乗り換え、伊賀神戸駅で伊賀鉄道に乗り換えるのが便利です。 伊賀鉄道は30分に一本程度ですが、近鉄特急の到着時間と伊賀鉄道の出発時間は調整されているようで、急げば乗り遅れることはないと思います。近鉄のホームから伊賀鉄道のホームが見えるため迷うこともありません。 また、帰りは上野市駅で近鉄の切符を買うことができます。(近鉄の駅で伊賀鉄道の切符を買うことはできない模様)

伊賀上野城は築上の名手、藤堂高虎が大拡張しようとしていた城です。 豊臣家の滅亡により、堅固な城の必要性はなくなり、二の丸以下はほとんど手を加えられず未完成のまま終わりました。 しかし、本丸西面の高石垣には高虎のこの城にかける意気込みを感じることができます。 この高石垣は日本一の高さという話をよく耳にしますが、僅かの差で大阪城の高石垣が日本一の高さだそうです。ですが、日本一でなくても素晴らしいことに変わりはありません。 伊賀上野城では他の部分が比較的小規模なため余計にこの高石垣が際立ちます。

また、伊賀は奥の細道で有名な松尾芭蕉の故郷であり、伊賀上野城内にも俳聖殿という芭蕉を祀る建物があります。この建物がなかなか可愛らしく、伊賀上野城に行った際は是非立ち寄ってください。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 城代屋敷跡
城代屋敷跡石垣1
城の地図:撮影対象1
城代屋敷跡石垣2
本丸東側は天守台のある本丸西側より一段高くなっており、筒井定次が築いた故城の本丸跡になります。江戸時代にはここに城代屋敷が置かれました。 普通、天守台は城内最高所に築かれますが、高虎はここを西側に拡張し、そこに天守台を築きました。そのため城代屋敷跡からはほぼ並行に天守を見ることができます。 城代屋敷は南向きに建てられ、手前に公的な建物(表向)、奥に私的な建物(奥向)が造られていました。江戸時代を通して、修理増築を繰り返しましたが、明治6年(1873)の伊賀上野城の廃城令とともに破却されました。
城代屋敷跡の門礎石
城代屋敷跡から見た天守
2. 天守
北西から見た天守
南東から見た天守
城の地図:撮影対象2
天守台には五重天守が築かれる予定でしたが、慶長17年(1612)の暴風雨により建築中の五重天守は倒壊してしまいました。時を同じくして大阪夏の陣により豊臣氏が滅亡、幕府は諸大名の城普請を制限しました。 そのため以後天守が再建されることはなく、現役時代は天守台のみの城でした。
天守台には昭和10年(1935)に地元出身の衆議院議員、川崎克氏が私財を投じて木造模擬天守を築きました。 当時すでに大阪城天守が鉄筋コンクリートで復興されていたこともあり、"鉄筋コンクリート造りにすべき"との声もある中、克氏はあくまで日本建築にこだわり、桃山様式の木造建築となりました。
写真を見ると大天守の階高が高いためアンバランスな印象を受けますが、実際に見てみると違和感はなく模擬天守でありながら貫禄があります。 残念なのは軒下に地垂木がないため、のっぺりとした感じになっていることでしょうか。
正面から見た天守
大天守の鯱
3. 大天守内部
大天守内部一階
大天守内部二階
大天守は正式には伊賀文化産業城と呼び、内部は藤堂家ゆかりの兜や武具、調度品の他、天守復興者である川崎克氏の遺品などが展示されています。
現存天守と比べると梁などが細いため、城というよりは立派な日本家屋といった感じです。建築後80年が経ちながら、びくともしない様は日本建築の堅牢さを物語ります。
天守三階は格子天井になっており、格子の一つ一つに天守復興当時の文化人、著名人による書画が掲げられています。中には近代日本画壇の巨匠、横山大観による月の絵もあります。 欄間も弓矢や槍がモチーフになっており目を引かれます。
余談ですが、大天守の床は板張りのため、真冬に行くと恐ろしく冷たくじっとしていると足の裏が痛くなります。そのため各階のところどころにホットカーペットが敷かれています。城側の配慮に感謝です。
大天守内部三階
大天守の欄間
4. 俳聖殿
俳聖殿山門
俳聖殿
城の地図:撮影対象3
本丸の北には伊賀出身の松尾芭蕉を祀った俳聖殿があります。昭和17年(1942)に建てられ、下層が平面八角形、上層が平面丸形、屋根は檜皮葺のユニークな外見です。 俳聖殿は芭蕉の旅姿を表現し、上層屋根が笠、上層が顔、下層の屋根が蓑と衣、下層が脚部、下層を囲む柱が杖となっているそうです。
なるほど、そう言われるとそう見えてくるのが不思議で、上層の屋根はもう笠にしか見えません。ちょこんとした可愛らしい姿です。
5. 本丸西面の高石垣
本丸西面の高石垣(北西端)
城の地図:撮影対象4
本丸西面の高石垣
本丸西面の石垣は日本有数の高石垣で、高さは水面下を含め30メートルあります。これは大阪城の石垣にも匹敵する高さです。
伊賀上野城では本丸西面のみ他の石垣に比べて大規模な造りとなっており、大阪城の豊臣氏への牽制とも言われています。ただ伊賀上野城は大拡張の途中の状態、いわば未完の城であることから、もし築城が続いていたら他の部分もこのように大規模な造りとなり、日本有数の"石垣の城"になっていたのかもしれません。
本丸西面の高石垣と天守
本丸西面の高石垣上から堀を見る
6. 旧崇廣堂
正面から見た旧崇廣堂
城の地図:撮影対象5
旧崇廣堂の鬼瓦
本丸の南、かつて武家屋敷が広がっていた場所にある藩校が崇廣堂です。津藩の領地である、伊賀、大和、山城の藩士の子弟を教育するために、文政4年(1821)に津の藩校有造館の支校として建てられました。
創建当時の建物として講堂などが残っています。講堂は採光のために独立して建てられ、庇は高く、軒は短くおさえられています。崇廣堂では学科によって部屋を分けず、講堂で一同に講義が行われていました。 そのため生徒は玄関からでなく講堂正面の階段から直接出入りしていました。なかなかオープンな設計ですね。
旧崇廣堂の講堂
旧崇廣堂の門
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