KemaAkeの全国城めぐり

小牧城 こまきじょう
別名 なし
形態 平山城
築城年 永禄6年(1563年)
築城者 織田信長
主な城主 織田氏、徳川氏
所在地旧国名 尾張
所在地 愛知県小牧市堀の内1-1
アクセス ●徒歩によるアクセス
名鉄小牧線 小牧駅から小牧山麓まで徒歩20分 山頂までさらに20分
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆
概要 小牧城は織田信長が美濃攻略のための拠点として永禄6年(1563年)に、小牧山に築いた城である。小牧山は標高86メートル、濃尾平野に浮かぶ島のような小山で、美濃を伺うのに適した土地であった。信長は清洲城から小牧城に移り、小牧山東麓には家臣団に屋敷を造らせ、南麓には城下町を整備した。このことからもわかるように、信長はただの前線基地としてこの城を築城したのではなく、新たな尾張の首府としてこの城を築いたことが伺える。美濃攻略後、信長は岐阜城に移り、小牧城はわずか4年で廃城となるが、城下町は規模を縮小しながらも存続し続けた。信長が本能寺の変で横死すると、羽柴秀吉と信長の子、信雄が対立し、信雄に援助を頼まれた徳川家康が小牧山に陣を構え、秀吉・家康唯一の直接対決である小牧・長久手の戦いにおける徳川軍の拠点となった。この際、家康は、信長の築いた城跡に新たに堀や土塁を築き、大規模な改修を施している。現在残る遺構はこのときのものである。小牧・長久手の戦い後、再び廃城となるが、江戸時代には尾張藩により徳川家康にまつわる「御勝利御開運の御城跡」として大切に保存され、一般人の立ち入りが禁止された。結果として、遺構が良好な状態で現在まで残されることになった。現在、山頂には小牧市歴史館が建てられ、小牧城や小牧・長久手の戦いに関する資料などが展示されている。
登城日 2009/09/20
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 土塁などが復元され、土塁断面が観察できるようになっています。

登城記
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小牧山

名鉄小牧駅の西口から駅前通をしばらく進むと、正面に小牧山が見えてきます。他に山はなく、頂上に天主風の建物が建っているのですぐにわかります。
帯曲輪地区

小牧山東麓は帯曲輪地区と呼ばれ、山全体を囲む土塁の内側に当たり、広い平地があり多くの軍勢を収容する機能を持っていました。信長築城時は山全体を囲む土塁はなく、帯曲輪地区は複数の小さな曲輪に分かれており、武家屋敷跡と考えられています。このように小さな曲輪が多く設けられるのは、中世城郭の特徴と言われています。現在は芝生の広場になっており、小牧・長久手の戦い時の虎口と土塁が復元されています。
復元された虎口

復元された虎口です。南からの土塁と北からの土塁がそれぞれ、L字形に屈曲し、虎口を形成していたと考えられています。
復元された井戸

帯曲輪地区には信長時代の井戸も復元されています。信長時代はこの辺りは武家屋敷だったので、武家屋敷用の井戸と考えられています。素掘りの井戸で、直径2メートル、深さは3.2メートル以上あり、武家屋敷の廃絶時に埋められたようです。
土塁の断面

小牧城では土塁の断面が観察できるように整備されています。現在残る土塁は、徳川家康が小牧・長久手の戦いのときに築いたもので、幅12メートル、高さ3メートルほどで、外側の堀の堀底からの高さは5メートルあり、敵の侵入を防いでいました。
山頂の小牧市歴史館

帯曲輪地区から山を登ると、20分ほどで山頂に到着します。山頂までの道沿いには、崩れた石垣らしきものを見ることができました。山頂は本丸跡になり、信長時代には、三重の望楼型の建物があったとの記録が残されています。現在は京都飛雲閣をモデルにした小牧市歴史館が建てられており、内部は郷土資料館になっています。
小牧市歴史館から名古屋方面を眺める

小牧市歴史館の最上階は展望台になっており、濃尾平野を一望でき、ここが絶好の立地であることが実感できます。設置してある望遠鏡で、犬山城の天守を確認することができました。
大手口

大手口です。小牧山の南側に位置しており、大手道が山の中腹までまっすぐ続いています。規模こそ違えど、安土城の大手道を彷彿とさせます。大手道の周りには比較的大きな曲輪が築かれていました。現在小牧山に残る遺構は、小牧・長久手の戦い時のもので、信長築城時の縄張りに対して、山麓部分や虎口部分で大きな改修が行われたことがわかっています。信長築城時の縄張りについては資料もなく、十分解明されていません。
小牧城と城下町の模型

帯曲輪地区の南側には、小牧城と城下町の模型があります。写真は南側から見た状態で、手前に城下町、奥が小牧城となります。
帯曲輪地区の復元された堀

最後に帯曲輪地区を仕切っていた堀です。もちろん復元されたものですが、このような小規模な堀でいくつかの曲輪に分けられていたようです。

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