KemaAkeの全国城めぐり

名古屋城 なごやじょう
別名 金鯱城、金城、他
形態 平城
築城年 慶長15年(1610年)
築城者 徳川家康
主な城主 尾張徳川氏
所在地旧国名 尾張
所在地 愛知県名古屋市中区本丸1-1
アクセス ●徒歩によるアクセス
名古屋市営地下鉄名城線 市役所駅下車 正門まで徒歩10分
城までの道順は城の地図の青線を参照してください。
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆☆
概要 名古屋城は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、東海道の要所として、また、豊臣氏への押さえとして、慶長15年(1610年)に築城を初め、三年後の慶長17年(1612年)にほぼ完成した。初代城主は家康の九男、義直で、以後明治維新まで尾張徳川家の居城となった。普請に当たっては、加藤清正や福島正則、前田利常などの西国・北国の大名を動員した天下普請で行われ、徳川幕府の威光を示すとともに、豊臣家に近い大名の力を落とすことも目的であった。完成した名古屋城主要部は、豊臣家の大坂城を凌ぐ威容を誇り、豊臣家の危機感を大いに煽り、大阪の陣の遠因になったともいわれる。その縄張りは、江戸時代に入ってから築城された新時代の城らしく、各曲輪は広く取られ、整然としたもので、近世城郭を代表する城のひとつである。天守や本丸御殿などの主要な建物は、江戸時代を通して残ったが、惜しくも太平洋戦争により、天守、本丸御殿などを初めとした、ほとんどの建物が焼失した。なお、織田信長が誕生したとされる那古屋城も、同地にあったが、近世名古屋城が築城されたことによりその遺構は残っていない。
城内案内図など 城内案内図(980x800)
登城日 2009/09/19
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 天下普請で築かれた石垣は見事です。また、天守閣も巨大で迫力があります。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の赤○、青○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示し、青はその写真の撮影場所を示します。

二之丸南側の外堀

市役所駅を降りると、目の前は二之丸南側の外堀です。名古屋城の堀は、本丸を囲む内堀は全て空堀、外堀は南側と東側が空堀、西側と北側が水堀となっています。写真の場所では堀幅は20メートル以上あり、深さも相当なもので、圧倒されます。
二之丸大手二之門
城の地図:赤1

市役所駅から正門に向かって、外堀沿いに歩いていくと、途中に二之丸大手二之門があります。この門は二之丸西側を守る門であり、かつては写真の高麗門の奥に櫓門がありました。これらを合わせて西鉄門と呼ばれ、二之丸の正門となっていました。
枡形の石垣

高麗門内側に形成された枡形の石垣です。切り込み剥ぎ…でよいのでしょうか?
正門
城の地図:赤2

正門です。現在は正門と呼んでいますが、かつては榎多門と呼ばれていました。この門も名古屋城の他の門と同様に、手前に高麗門を置き、奥に写真の櫓門を設け、枡形を形成していました。現在の櫓門は、太平洋戦争で焼失したものを、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで復元したものです。正門を入ると西之丸になります。
内側から見た正門

内側から見た正門です。
正門の鯱

正門の鯱です。
本丸西南隅櫓と天守
城の地図:赤3

西ノ丸から見た本丸西南隅櫓と天守です。西南隅櫓は二重三階の櫓で、堀に面した南面と西面に張り出しを設け、石落としとしています。この櫓は明治24年(1891年)の、濃尾大地震で崩壊しましたが、大正12年(1923年)に宮内省によって修理復旧がされました。そのため、鬼瓦などに菊花紋が施されています。重要文化財です。
西南隅櫓の菊花紋

西南隅櫓の瓦に施された菊花紋。
本丸東南隅櫓
城の地図:赤4

二之丸から見た本丸東南隅櫓です。奥に見えるのは表二之門です。東南隅櫓は二重三階の櫓で、本丸西南隅櫓と同様に、堀に面した南面と東面に張り出しを設け、石落としとしています。この櫓は築城当時のもので、鬼瓦などに葵の紋が施されています。重要文化財です。
東南隅櫓石垣の刻印

東南隅櫓石垣の刻印です。名古屋城は天下普請で築城されたため、石垣のいたるところに多数の刻印が刻まれています。
表二之門
城の地図:赤5

表二之門です。西ノ丸と本丸をつないでいます。かつては南二之門と呼ばれ、本丸追手門枡形の外門に当たる門で、門桂、冠木ともに鉄板張りで、部材も太く堅固に造られています。この門に続く袖塀は、名古屋城の土塀として現存する数少ない遺構です。重要文化財です。
内側から見た表二之門

内側から見た表二之門です。
表二之門の袖塀

表二之門の袖塀です。思いの他ぼろぼろです。表二之門の修復工事をしていたので、こちらも近いうちに修復されることでしょう。
表一之門跡

表二之門をくぐると表一之門跡です。表一之門は、本丸追手枡形の内門に当たる門で、門から続く多門櫓が枡形をぐるっと囲み、表二之門と合わせて、本丸追手をがっちりと固めていました。もっとも、名古屋城の本丸自体がかつては、長大な多門櫓で囲まれていました。人と比べると枡形の規模がお解りいただけると思います。惜しくも太平洋戦争で焼失しました。
東一之門跡

東一之門跡です。この門は本丸の搦手にあたり、構造は表一の門と同様でした。惜しくも太平洋戦争で焼失しました。この門の枡形西側石垣には、清正石と呼ばれる巨石があります。名古屋城の枡形には、石垣の中にひとつだけ巨大な石が混ざっており、防備を誇示していました。
清正石

清正石です。その名のとおり、加藤清正が運んできた石と言われていますが、このあたりの普請は黒田長政によるものであり、伝説のようです。
旧二之丸東二之門
城の地図:赤6

旧二之丸東二之門です。本丸東二之門跡に移築されています。昭和28年(1953年)に二之丸に愛知県体育館を造るに当たり、解体保管されていたものを昭和47年(1972年)に移築したものです。かつては、二之丸の西鉄門に対して東鉄門と呼ばれていました。
小天守と大天守
城の地図:赤7

小天守と大天守です。ともに惜しくも太平洋戦争で焼失し、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで外観復元されました。大天守が焼失する姿は写真に残されていますが、城好きにはショッキングな写真です。赤い炎とともに、銅瓦が燃える緑色の炎を噴き出しながら炎上したそうです。先ほどから他の写真にも少し写っていた、小天守手前にあるクレーンは本丸御殿復元のためのものです。本丸御殿も大天守とともに炎上していますが、内部の障壁画などは、疎開されており現在も残っています。この復元計画は、本丸御殿を全て木造で復元する壮大な計画で、平成21年(2009年)から工事が始まり、三期に分けて復元される予定で、最終的には平成30年(2018年)の完成を予定しています。
小天守

小天守です。焼失前の小天守は二重二階、地下一階の層塔型で、大天守に至るためには必ず小天守を通る必要があり、関門の役割もありました。小天守とはいえ、徳川御三家の城ということもあり、大きなものになっています。私見ですが、丸亀城、宇和島城などの天守よりも規模は大きいのではないでしょうか。
大天守の金鯱

大天守の金鯱のアップです。名古屋城といえばこれですね。かつては、多くの城に金鯱が揚げられていましたが、江戸時代を生き延び、近代まで残った名古屋城が、金鯱の代名詞となったようです。その金鯱も天守とともに焼失し、その残骸から取り出された金で、茶釜が作られました。その茶釜は、大天守に展示されています。現在の金鯱は天守とともに復元されたもので、一対で88キログラムの金が使用されています。
橋台から見上げた大天守

小天守と大天守を結ぶ橋台から大天守を見上げました。至る所に誇らしげに葵の紋が施されています。焼失前の大天守は五重五階、地下一階の層塔型天守で、高さは約36メートル、石垣も含めると実に約56メートルにおよびます。現在の鉄筋コンクリート造りの天守も、江戸時代の図面、焼失前の写真が多く残っていることから、外観の再現度は高いようです。ただ、最上階の窓が展望目的で、大きくなっており、他の階の窓と意匠が異なっています。
千鳥破風の葵の紋

千鳥破風に施された葵の紋のアップです。
北西から見上げた大天守

北西から見上げた大天守です。大小の天守の石垣は加藤清正の手によるもので、実に見事なものです。このことからか、尾張徳川家では加藤清正がとても尊敬されており、幕末の頃には、大天守も加藤清正が建てたものと信じられていたようです。また、天守最上階には謎の櫃があり、最上階に上がるとこの櫃に例をするしきたりがあったそうすが、その中身も加藤清正の肖像画ではないかという噂まであったようです。清正石の伝説もこのような背景から生まれたのかもしれません。
南西から見た大天守

南西から見た大天守です。
大天守の礎石
城の地図:赤8

大天守の礎石です。現在の鉄筋コンクリートの天守は、石垣に重量をかけないように、天守台内部に大きなコンクリートの箱を造り、その上に建てられています。そのため、かつての礎石をどかす必要があり、天守北の現在の場所に移されました。
不明門
城の地図:赤9

不明門です。御深井丸と本丸をつないでいます。埋門形式で、本丸御殿の大奥へ通じており、普段は使われていませんでした。あかずの門とも呼ばれていました。太平洋戦争で焼失しましたが、昭和53年(1978年)に復元されました。写真右側に移っている建物は、大天守一階へのエレベータです。
鵜の首
城の地図:赤10

鵜の首と呼ばれる堀です。西之丸と御深井丸を区切るために、外堀から入り込んだ堀が設けられています。同様の堀は、西之丸と二之丸などの間にも設けられ、本丸を巡って五ヶ所残されています。
清正公石曳きの像
城の地図:赤11

二之丸には清正公石曳きの像があります。加藤清正が徳川家康に願い出て、大小の天守の石垣の普請をしたとき、清正自ら運搬する石の上に載り、気勢を上げたと伝えられており、その様子を像にしたものです。
那古屋城跡の石碑
城の地図:赤12

那古屋城跡の石碑です。二之丸にあります。名古屋城の場所には、織田信長が生まれたとされている那古屋城があり、二之丸の辺りがその城域だったとされています。最も、三之丸からも中世の遺構が発見されているので、城域がもっと広かった可能性もあります。ちなみに、この石碑については名古屋城のパンフレットには載っていません。信長ファンにはたまらない場所だと思うのですが…
御深井丸西北隅櫓
城の地図:赤13

御深井丸西北隅櫓です。三重三階の層塔型の櫓です。堀に面した北面と西面には、他の櫓と同じく、石落としである出窓が設けられています。清洲城の天守を移築したものとも伝えられており、清洲櫓とも呼ばれています。現在は、清洲城の天守をそのまま移築したものではないが、清洲城の古材を利用しているとも考えられています。重要文化財です。
内側から見た西北隅櫓

内側から見た西北隅櫓です。
鵜の首越しに見た天守
城の地図:青1

外堀沿いに歩いて名古屋城をぐるっと回ってみます。一枚目は西ノ丸と御深井丸間の鵜の首越しに天守を撮影しました。夕方になってきたので、少しオレンジ色がかっています。
北側から外堀越しに見た天守
城の地図:青2

北側から外堀越しに天守を撮影しました。堀越しに望む天守は絵になります。
夕日に浮かび上がった天守
城の地図:青3

最後に、夕日をバックに浮かび上がった天守のシルエットです。ただの逆光写真という呼び方もありますが、気に入っている写真です。
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