アクセスについては中津川駅からバスが1時間に一本ほど出ているため、時間にさえ気を付ければ問題ないレベルです。
中津川駅からのハイキングコースも設定されており、その気になれば中津川駅からオール徒歩での登城も可能なようです。
このあたりの城といえば日本三大山城のひとつ、岩村城が有名です。ですが、この苗木城も見応があり面白い城です。
とある本でこの城の再現CGを見たときの衝撃は相当なものでした。
決して広くはない岩山に懸造りの建物がこれでもかと立ち並ぶ姿はまさに「異形のもの」。もう少し築城に適した土地がありそうなものを、
城地を変えずにここまでしているのはもはや趣味でやっているとしか私には思えません。
1万石という江戸時代の城持ち大名で最も少ない石高であることから、外壁は土壁のままで「赤壁城」とも呼ばれ、
屋根は費用のかかる瓦葺きではなく板葺きでした。これらのこともその異形ぶりに拍車をかけています。近世の城というよりは、中世の砦といったほうがしっくりきます。
しかし、随所に見られる石垣では野面積みから切込接ぎまで、様々な技法を見ることが出来ます。
この城の異形ぶりは平面縄張り図を見てもなかなかわかりづらいです。苗木城の麓にある苗木遠山資料館で全体模型を是非ともご覧になってください。
遠山氏のこの城にかける一種の執念を感じることが出来ます。
なお、今回の登城記はほとんど真っ白です。早々に登城したいと思っていましたが、山城ということで冬を待っての登城となりました。
しかし、運悪く登城の2日ほど前、関東地方では記録的な大雪となり、この辺りでもかなりの雪が降ったようで、数十センチの積雪の中での登城となりました。
そのため、地面の遺構や礎石はほとんど確認できませんでした。代わりに人はほとんどおらず、城を独り占めすることができたのが不幸中の幸いといったところでしょうか。
今度は地面がちゃんと確認できるときに登城したいものです。
各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は
城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 足軽長屋跡
足軽長屋跡は、石垣によって造成された約30メートル四方の曲輪です。足軽の宿泊施設の他、小頭部屋(ことうへや)、稽古場などが数棟立ち並んでいました。
足軽は城への出仕時に最初にこの長屋に立ち寄ることになっていました。
2. 吹上門跡への通路
足軽長屋跡から吹上門へと続く通路を進むと、通路脇の巨石と打込ハギの石垣に目を引かれます。よく見ると打込ハギの石垣の上にさらに谷積みの石垣があることに気づきます。
1メートル四方のくぼみ状の井戸のような遺構もありました。
3. 吹上門跡
吹上門は三の丸の南に位置する門で、絵図によると二階建ての楼門だったようです。三の丸大手門に当たり、二階は飼葉蔵として使われていました。
門の右側には番所があり、昼夜を問わず人の通行を監視していました。
城主在城時は開門し、参勤交代により城主不在のときは締め切られ、潜戸が利用されていました。
門の左側には石垣が続き、干草蔵、縄蔵、そして大矢倉が続いていました。
4. 大矢倉跡
大矢倉は別名「御鳩部屋」とも呼ばれ、苗木城最大の櫓でした。
吹上門と北門を防御するための櫓で、北門に対しては正面から、吹門前に対しては横矢を掛けることが出来るようになっていました。
外側に面した三方からは二重に見えますが、内側に面した一方は三重で一階は穴蔵となっていました。
大矢倉、縄蔵、干草蔵にかけての一連の櫓群の石垣は保存状態も良好で、城内で最も貫禄のある石垣を見ることが出来ます。穴蔵には礎石も残され、石垣の積み方も打込ハギと切込ハギを見ることが出来ます。
5. 大門跡跡
大門(だいもん)は苗木城の中で一番大きな門で二の丸の北側、本丸へと続くつづら折れの道の正面に位置しています。二階建ての楼門で、門の幅は4.5メートルほどありました。
二階は物置として利用されていました。藩主の江戸参勤出立時などの大きな行事のとき以外は閉じられており、普段は潜戸を通行していました。
6. 御朱印蔵跡
御朱印蔵は大門の内側、ひときわ目立つ巨岩の隣、斜面に食い込むように建てられていた平櫓です。
完成度の高い切込ハギの石垣の上に建てられていますが、階段はなく梯子で昇降していたことが絵図で確認できます。
将軍家から代々与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が収められていました。こられ収蔵品は、虫干しが年に一回必ず行われていました。
7. 綿蔵門跡・二の丸御殿跡
綿蔵門は二の丸から本丸へと続く通路をさえぎる形で建てられていました。夕方以降は扉が閉められ本丸内へ入ることはできませんでした。
ニ階建の楼門で、二階には年貢として納められた真綿が保管されていました。
綿蔵門の辺りからは眼下に二の丸御殿跡を見ることができ、多くの礎石が残されているのがわかります。
苗木城は石垣端に柵等が整備されていないため、これでけの雪が積もっていると石垣端によるのはかなり慎重になります。
本来ならば近くまで行くところですが、雪がかなり積もっているため今回は断念しました。
8. 坂下門跡
坂下門の次、通路の"折れ"の部分に位置しているのが坂下門です。絵図を見ると二脚の棟門、あるいは薬医門だったようです。門の礎石と手前の石段がよく残されています。
坂道の下にあったので坂下門と呼ばれていましたが、久世門とも呼ばれていました。
これは、三代目藩主友貞の妻の実家が、徳川家譜代の久世家であり、苗木城改修の際に力添えをしたことから来ていると伝えられています。
9. 千石井戸・本丸口門
本丸口門は本丸と二の丸の境に位置する門で、薬医門だったようです。総欅で建てられていたことから欅門とも呼ばれていました。
本丸口門の左側には、苗木城内の井戸で一番高い場所に位置する千石井戸があります。
高所にもかかわらずどんな日照りでも水が枯れずに、千人の用を達したと伝えられており、このことから千石井戸と名付けられました。
千石井戸の東側には懸造りの渋紙蔵、山方蔵、群方蔵などがありました。
この辺りの石垣は下は反りがあり、上はほぼ垂直となる見事な勾配となっています。
10. 武器蔵跡
本丸口門を抜けると、右側の崖上に武器蔵がありました。
武器蔵は長さ約16メートル、奥行約6メートルの平櫓で、その長さから八間蔵とも呼ばれていました。その名の通り鉄砲や弓矢の武器類が納められていました。
現在は一部建物土台が崩壊していますが、礎石や縁石がよく残されています。
11. 天守跡周辺
苗木城の天守は二つの巨岩を内部に取り込み、一部が懸造りとなっており大きな蔵のような外観でした。
一階部分の名称は「天守縁下」と呼ばれ、板縁を入れてニ間×ニ間半(約3.6メートル×約4.5メートル)の広さで、岩の南西側隅にありました。
二階は「玉蔵」と呼ばれ、二つの巨岩が敷地の半分以上をを占めていました。
床面自体の大きさは三間四方(約5.4メートル×約5.4メートル)で、入り口は二階に設けられ、一階と二階への階段がありました。
三階は巨岩の上にあり四間半×五間半(約8.1メートル×約9.9メートル)の大きさで、天守で唯一四方の壁が外部と接していました。
三階の屋根は入り母屋造りではなく板葺きの切妻造りでした。
このように他の城には見られない非常に特殊な造りの天守で、我々が思い浮かべるような天守ではありませんでした。そのため天守について説明をする際の何重何階という表現ができない、説明に苦労する城となっています。
現在の柱と梁組みは、苗木城天守の三階部分の床面を復元したもので、展望台となっています。柱穴は当時のものを利用しています。
12. 天守跡からの眺め
天守展望台からは木曽川や恵那山、中津川市街を一望することが出来ます。
13. 苗木遠山史料館
苗木城の麓には苗木領に関する資料を展示した遠山苗木史料館があります。
なかでも苗木城の全体模型は必見です。平面縄張り図ではわからないその異形ぶりをじっくり確認することが出来ます。
二階には十数枚の苗木城の復元CGもあり、合わせて見ることでより苗木城を堪能できるでしょう。写真撮影禁止なのが残念です。
代わりに案内板のCGを撮影しました。
また、苗木領では明治初期に廃仏毀釈運が徹底的に行われたため、その資料も収蔵されており興味深いです。
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