アクセス
JR中津川駅はJR名古屋駅から特急が1時間に一本、快速が1時間に二本の頻度で運行されており大都市圏からのアクセスは比較的良好です。
JR中津川駅からはバス利用か徒歩となりますが、天気が良く時間があれば徒歩での登城を強くおすすめします。中津川駅前の観光案内所で苗木城までのハイキングマップを入手できます。
苗木藩主も使用していた大手門・城坂四十八曲がり道入口までの距離は約3キロメートルほどで1時間もあれば歩ける距離です。途中木曽川に架かる玉蔵橋からは木曽川沿いにそびえる苗木城を望むことができます。
行きはのんびりと徒歩で江戸時代と同じルートを、帰りは苗木バス停からバスに乗れば苗木城を満喫できると思います。
感想
岩村城の次に
前回の登城では積雪で真っ白だった苗木城に10年ぶりの再登城ができました。 東美濃の城といえば日本三大山城の一つである岩村城が有名ですが、苗木城は岩村城より面白く絵になる城だと思います。登城日は天気に恵まれ、最近整備されたビュースポットから恵那山が並び立つ姿を写真に収めることができました。その風景はいつまでも見ていたいと思わせる絶景で、日本有数のものだと思います。ここ数年、いや、これまでの城めぐりでも屈指の充実した時間を過ごすことができました。
最初に苗木城の再現CGを見たときの衝撃は今でも覚えています。狭い岩山に赤土壁、切妻造板葺、懸造の建物が所狭しと建ち並ぶ姿はまさに「異形」です。赤土壁と板葺は財政的な理由、懸造は土地の狭さゆえですが、その姿は山岳都市のようでマチュピチュを彷彿とさせます。
実際に苗木城天守建物から周りを見回すと築城に適した土地は他にいくらでもありそうです。それでも遠山昌利がここに館を設けてから、城地を変えなかったのは父祖伝来の地に強いこだわりがあったのでしょうか。ただ再現CGや苗木遠山資料館の模型を見ると趣味でこの土地に城を造っていたと考えるのが妥当な気がしてきます。
建物は城郭建築としては質素ですが対して石垣は立派です。眼を見張るような高石垣こそありませんが、既存の巨岩と築石を巧妙に組み合わせ、一見するとどうやってこんな巨石を積んだのだろう?と思わせる石垣が随所に見られます。積み方も野面積から切込接まで様々な技法を見ることができ、石垣の使用量も多く本当に1万石大名の城なのかと不思議に思うほどです。
なお苗木城とは関係ないのですが、JR中津川駅から苗木城までのハイキングコースは昭和53年(1978)に廃止された北恵那鉄道の廃線跡に沿っています。線路部分はほとんど道路に転用されているようですが、当時の鉄橋を見ることができます。廃線めぐりと城めぐりが楽しめる個人的には一石二鳥の城でした。
登城記
写真をクリックすると画像ファイルが表示できます。
1. 中津川駅 〜 大手門跡
苗木城ハイキングマップにしたがって中津川駅横の地下道で線路を潜り20分ほど歩くと木曽川に架かる玉蔵橋に差し掛かります。玉蔵橋からは左側に苗木城を見ることができ特徴的な山頂の天守建物も確認できます。北恵那鉄道廃線跡の木曽川橋梁も見ることができ、築100年以上のこの橋も立派な歴史遺産と言えます。
玉蔵橋から木曽川水面まではかなりの高さがありますが、中津川駅方面からの道路はほとんど高低差がなく玉蔵橋に続きます。玉蔵橋を渡ると右折して下り坂で玉蔵橋の下を潜りますが、対岸は崖となっており玉蔵橋の高さの理由がわかります。
北恵那鉄道廃線跡のトラス橋から苗木城方面に木曽川沿いを歩くと20分ほどで北恵那鉄道廃線跡の上地橋梁が見えてきます。ここまで来ると大手門跡・城坂四十八曲がり道入口はすぐですが、このあたりから苗木城を象徴する露出した巨岩が現れはじめます。
玉蔵橋から見た苗木城
木曽川に架かる玉蔵橋は苗木城の東側に位置する。トラス橋は北恵那鉄道廃線跡の木曽川橋梁。
旧北恵那鉄道木曽川橋梁
1924年竣工。もともとは東海道線で使用されていたトラス橋とのこと。
苗木城遠景
木曽川沿い、東側から撮影。
苗木城遠景
山頂部をズームして撮影。
旧北恵那鉄道上地橋梁
苗木城の麓、木曽川に注ぎ込む支流に架かる。
大手門付近の巨岩
苗木城のある高森山はいたる所で巨岩が露出している。
2. 大手門跡 〜 竹門跡
城には大手筋から登城するのが私の好みで、今回も中津川駅から歩いて可能な限りかつての大手筋をたどってみます。北恵那鉄道廃線跡の上地橋梁を過ぎるとすぐ大手門跡で、右側が竹門跡に続く城坂四十八曲がり道入口となります。
・大手門跡
苗木城東側の木曽川手前に位置し、木曽川を渡るとやがて中山道に通じます。参勤交代ではこの門を使用していましたは、城下町とは反対側に位置します。古絵図によると門の内側は石垣で囲まれた小さな枡形となっていたようです。後からわかったのですが
中津川市のサイトによると、礎石が残っているようなのですが登城時は気付きませんでした。古絵図と城坂四十八曲がり道の位置を照らし合わせると舗装道のあたりが枡形だったのではないかと思います。
・城坂四十八曲がり道
大手門から本丸までの登城道で距離約600メートル、標高差約150メートルを登る道です。本丸まで48回折れ曲がるためこのように呼ばれています。途中には随所に石垣を見ることができ、中には最近積み直されたと思われる真新しい石垣もあります。当時のものと思われる石橋もあり、山道ながらも参勤交代で使用する大手道として整備されていたことがうかがえます。案内板には急峻とありますがよく整備されておりそこまでキツい道ではないと感じました。
・竹門跡
苗木城に二つある竹門のうちの一つで、扉が竹でつくられていたため竹門と呼ばれていました。古絵図では非常に簡素な造りで描かれており、門番もおらず開け放しでした。参勤交代で藩主はこの門から城に出入りしましたが、一般藩士は門の手前を右に曲がり北門から城に出入りしました。藩主が使用する重要な門のはずですが、簡素な造りなのは苗木藩が小藩ゆえでしょうか。
大手門跡
左側に礎石が残っていると思われる。
城坂四十八曲がり道入口
石垣と巨岩
苗木城らしい巨岩を活用した石垣の一つ。
石垣
旧北恵那鉄道上地橋梁
城坂四十八曲がり道からも見ることができる。
石垣
石材がきれいなため近年積み直されたものと思われる。
石橋
内側にも石垣が積まれており当時のものと思われる。
城坂四十八曲がり道案内板
竹門跡
右側の石垣は垂直でレンガ積みのようになっている。
竹門案内板
3. 北門跡・貯水池
・北門跡
城の外郭にあった土塀付きの平門で城の北側にあることから北門と呼ばれていました。参勤交代で城坂四十八曲がり道を登ってきた一般藩士たちはこの門から城に出入りしていました。門を潜った正面には大矢倉があり門に迫った攻め手を正面から攻撃することを意識していたと思われます。
・貯水池
北門を潜ると右側には雨水を貯めるための貯水池があり馬の飲水として使用されていました。護岸の役割もあるのでしょうが、切込接の石垣で周囲を囲んだ日本有数の豪華な貯水池となっています。苗木遠山資料館の模型を見ると貯水池の北側は城の外郭となっており、土塀を掛けるために切込接の石垣としたのかもしれません。
竹門から北門への通路
参勤交代で一般藩士たちはこの通路を通っていた。
北門跡
貯水池
貯水池
貯水池でありながら周囲を切込接の石垣で固めている。
貯水池から見た本丸方面
貯水池、大矢倉跡、本丸が直線上に並ぶ。
北門案内板
4. 大矢倉跡
北門を潜った正面、風吹門跡の左脇には苗木城最大の石垣の塊がありこれが大矢倉の櫓台となります。打込接、切込接の石垣を見ることができ、穴蔵には礎石が残ります。その複雑な形状も相まって城内で最も貫禄のある石垣となっています。
大矢倉は17世紀中頃に造られた二間×三間の三階建てで、周囲の平櫓と連結した苗木城最大の櫓でした。風吹門と北門を防御しており、北門に対しては正面、風吹門に対しては側面から攻撃(横矢を掛ける)をすることができました。
櫓台は露出した巨岩を利用して石垣を築いており非常に複雑な形となっています。連結する平櫓もこの櫓台に建てられており、一体化した櫓群は複雑な構造となり外側からは二重、内側からは三重に見えました。
別名は「御鳩部屋」ですが、巨大な櫓を造ると幕府から睨まれるため鳩小屋と言い張ったとか。古絵図を見ると窓とは別に沢山の丸い穴が空いておりこれを鳩の出入口ということにしたのでしょう。ですが、実態は櫓なので狭間なのでしょう。他の城にも鷹を飼育するための「御鷹部屋」はありますが、「御鳩部屋」は全国でもこの城だけです。実際ここに鳩が沢山いたとしたらなんとも長閑でそれはそれで風情がありそうです。
大矢倉跡
風吹門跡外側から撮影。
大矢倉跡
風吹門跡内側(三の丸)から撮影。巨岩の上に築かれた石垣の複雑な形状がよくわかる。
大矢倉跡石段
大矢倉跡上部
外側に石塁がめぐり穴蔵のような構造になっていた。
大矢倉跡上部
礎石が残る。
大矢倉案内板
5. 苗木遠山資料館
大矢倉跡からは眼の前に見える本丸方向へと足を進めたいところですが、まずは山を少し下り情報収集と休憩を兼ねて苗木遠山資料館に向かいます。苗木城の復元模型がお目当てです。
遠山苗木資料館では苗木城と遠山家の貴重な資料を展示しています。苗木城で唯一現存する建築物である風吹門の柱と門扉も保管されています。苗木領では明治初期に廃仏毀釈運動が徹底的に行われておりその資料も興味深いです。
苗木城を訪れる際はまずはここで苗木城復元模型を見て平面図ではわからないその異形ぶりを実感してください。他の近世城郭とは全く異なる見たこともないその姿に驚くはずです。ここで配布されている
苗木城跡見取図には城内の建物の詳細な配置と名前が載っており、このページを作る際も参考にさせていただきました。日本100名城スタンプはここにあります。
苗木遠山資料館
塀はかつての苗木城をイメージした赤壁となっている。
苗木城模型(北方向から撮影)
北方向から撮影。麓からの道は城坂四十八曲がり道に続く。建物名を入れた写真は
こちら。
苗木城模型(東方向から撮影)
苗木城で最も巨岩が目立つ方角。建物名を入れた写真は
こちら。
苗木城模型(南方向から撮影)
苗木城模型(西方面から撮影)
風吹門のある方角で現在苗木城を訪れる人の多くはこの方角からとなる。建物名を入れた写真は
こちら。
風吹門の門扉
苗木城唯一の遺構。
6. 風穴と高森神社(苗木城ビュースポット)
遠山苗木資料館で情報収集と休憩を終え、再び風吹門跡方面に舗装道を進みます。途中で右側の登山道に入ると風穴と高森神社に至ります。高森神社付近のビュースポットから見る苗木城と恵那山の眺めはまさに絶景で、苗木城に来たら絶対に立ち寄るべきスポットです。両方回っても20分もかかりませんが、私はビュースポットからの眺めがあまりにも絶景でその場を離れるのが惜しく15分ほどそこで過ごしました。
・風穴
巨岩と巨岩の割れ目に空間があり江戸時代には「風呂(ふうろ)」と呼ばれていました。厳寒にさらして製造した氷餅は毎年6月1日に幕府に献上されましたが、それまではこの風穴で保存をしていました。
・高森神社
苗木城の守護神である竜王権現を祀り、高森山の眼下を流れる木曽川から南方を守護していました。明治初期の神仏分離令で高森神社に改称されました。
高森神社の手前には苗木城随一のビュースポットがあり東に大きく視界が開け、苗木城と恵那山が並び立つ姿を一望できます。東側への眺望で午前中は逆光となるため午後に訪れるのが良さそうです。近年周囲の木々を伐採し眺望を確保したとのことで、苗木城の新たな名所になりそうです。
風穴と高森神社への入口
風呂谷門跡でもあり苗木遠山資料館から苗木城へ続く舗装道の右側に位置する。
風穴の巨岩
写真では分かりづらいが見上げるほどの高さがある。
風穴
幕府に献上する氷餅を貯蔵していた。
苗木城全景
高森神社下のビューポイントから撮影。苗木城と恵那山を一望できる。
苗木城全景ズーム
高森神社
龍王権現が祀られていたが神仏分離令により高森神社となった。
7. 足軽長屋跡 〜 風吹門跡
遠山苗木資料館から舗装道を本丸方面へ進むと足軽長屋跡を経て風吹門跡に至ります。登城道の途中では湾曲した石垣が両側に続く箇所、露出した巨岩の下に築石を挟み込みさも巨大な築石を積んだかのように見せる石垣があり、苗木城の石垣のバラエティー豊かさがわかります。
15年くらい前の苗木城の写真では城全体が木々に覆われ、今のように遠くから石垣が見えませんでした。近年整備事業の一貫で木々を伐採したようで、これにより苗木城の魅力は何倍にもなったと思います。現在は木々に覆われた山城も当時は木々がなかったはずで木々のない状態が本当の山城の姿なのです。
・足軽長屋跡
登城道右側に位置し、表方の足軽が出勤したときに必ず立ち寄る足軽長屋がありました。足軽たちはまずこの長屋に立ち寄り、その後それぞれの係り役所へ出向きました。
現在は苗木城のビュースポットとなっており東側に二の丸、本丸を見ることができます。先に紹介した高森神社下のビュースポットと比べると恵那山と苗木城を一緒に見ることはできません。
・風吹門跡
風吹門は大手門とも呼ばれ実質的な苗木城の大手門でした。城下町から三の丸への出入口で、門の南側には番所が併設され昼夜を問わず人の通行を監視していました。高さ約2.2メートルの潜戸付きの楼門で、二階は飼葉蔵として使われていました。
行く手を遮る壁のように左側から大矢倉、平櫓、風吹門、馬屋と続く建物群は大手門にふさわしい景観だったことでしょう。
足軽長屋跡への通路
湾曲した石垣が両側に続く。
苗木城再現看板と苗木城全景
苗木城全景
足軽長屋跡から撮影。
足軽長屋案内板
巨岩を活用した石垣
風吹門への通路の左側に位置する。
石垣
風吹門跡
風吹門案内板
8. 駈(かかり)門跡・埋門跡
大矢倉を背にして本丸方面を向くと、城坂四十八曲がり道から竹門を経る大手筋を守る駈門跡があります。
・駈門跡
駈門はなんとも説明しにくい造りとなっており一応は渡櫓門になるのでしょうか。苗木藩士の記録には「掛り役所床下をかたどりて建し門也。城主参勤在着此門を出入りするなり。」とあり、掛り役所の建物の一階(地階というべきか)を門として使用していたことがうかがえます。通路は直角に折れ曲がりその上に掛り役所をかぶせたような形状で、小規模ながら
熊本城の闇り通路を彷彿とさせます。掛り役所では役人(かかり)が他所からの客の応接、犯罪者の吟味などをしていました。
駈門跡の石垣は大きな築石を使用しており、特に外側から見て左側の石垣は非常に丁寧に合石が詰められており目を引きます。ここまで丁寧な合石はあまりお目にかかれません。藩主が参勤交代で使用する門であったため丁寧な仕上げにしたものと思われます。
駈門の内側は三の丸となりますが、正式には駈曲輪(かけりくるわ)と呼ばれていました。掛り役所があったから駈曲輪と呼ぶようになったのか、駈曲輪にあったから駈門と呼ぶようになったのか、それ以外の理由だったのか、駈門の由来は不明です。
・埋門跡
駈門の外側で左側を見ると埋門らしき遺構を見ることができます。1メートル四方の空間上部を一枚石で塞いでおり、長い年月を経て土石が堆積し空間が狭くなっているようにも見えます。
姫路城るの門のような石垣に穴を開けた埋門のように見えまが、案内板もなく本当にこれが門なのかは不明です。ただ、この遺構の内側には牢屋跡があります。このことから死人や罪人など不浄なものを運び出すための不明門だったのではないかと想像します。江戸城や熊本城などの大城郭には不明門に相当する門がありましたが、苗木城もこれらに倣ったのかもしれません。
と、ここまで自説を書いてみましたが苗木城にはちゃんと不明門と呼ばれる門があります。ですが、この不明門に続く道が古絵図には描かれておらず、痕跡も確認されていないためこの埋門こそが本当の不明門では、とも思っています。
駈門跡
内側から撮影。
駈門跡
外側から撮影。
駈門跡石垣
築石の隙間には非常に丁寧に合石が詰められている。
埋門跡
外側、駈門跡の手前から撮影。
埋門跡
内側から撮影。
埋門跡から大矢倉方面を見る
埋門跡、駈門跡、大矢倉跡が直線上に並ぶ。
9. 大門(おおもん)跡 〜 坂下門跡
駈門から本丸方面へ進むと大門、綿蔵門、坂下門と道なりに門が続きます。
苗木城の特徴として城の規模に対して城門が多い点が挙げられますが、風吹門や綿蔵門のように二階を武具以外の倉庫として使用しているケースが多いです。他の城郭ではこれらの倉庫機能は独立した櫓が担うことがほとんどですが、敷地が狭い苗木城では使える建物はなんでも使うといった傾向がうかがえます。
・大門跡
大門は苗木城最大の楼門で、この門の内側が二の丸となります。門の幅は約5メートルで二階は物置に使用されていました。藩主の参勤交代などの大きな行事以外では開かれず普段は潜戸を通行していました。
・牢屋跡
苗木城唯一の牢屋は大門外側を左に進んだ崖下に位置しています。大門より外側なので三の丸となりますが、曲輪のどん詰まりに位置しており日当たりが悪い薄暗い場所です。建物は二間×四間の平屋で巨岩の上に建てられていました。明治初年頃に起きた苗木藩の政争では、上級武士がこの牢屋に収監され処断されています。
・御朱印蔵跡
大門を潜るとすぐ左側には御朱印蔵がありました。将軍家から代々与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が収められていました。これらの収蔵品の虫干しは年に一度必ず行われました。苗木城でも屈指の精緻な切込接の石垣上に建てられ、石段がないため梯子を使用して出入りしていました。
・綿蔵門跡
本丸へ至る道を遮る形で建っていた綿蔵門は楼門形式で、夕方以降は扉が閉められ本丸に入ることはできませんでした。年貢として収められた真綿が二階に保管されていたことからこの名前で呼ばれています。綿蔵門外側手前、右側の坂道を下ると二の丸御殿が建っていた広い曲輪に至ります。
・坂下門跡
坂下門は平門で、礎石と手前の石段が現在でも状態良く残されています。坂道の下にあったので坂下門と呼ばれています。別名は久世門といい、三代藩主遠山友貞正室の実家、徳川家普代の名家である久世家から来ていると伝えられています。
大門跡
門の奥は御朱印蔵跡。
大門案内板
牢屋跡
大門外側の左、埋門の内側に位置する。
牢屋案内板
御朱印蔵跡
御朱印蔵案内板
綿蔵門跡
綿蔵門案内板
坂下門跡
坂下門案内板
10. 二の丸御殿跡
綿蔵門跡の外側手前右側の下り坂の先には表方、中奥、奥向で構成される二の丸御殿がありました。二の丸御殿には苗木藩政庁と城主居住空間が置かれこれらは廊下で接続されていました。
表方は玄関、広間、書院などがあり年中行事や接待、政務などが行われる一般的な城の表御殿に当たります。中奥と奥向きは城主の私的な空間であり一般的な城の奥御殿に当たります。中奥では城主が日常の政務を執り行い、隣接する的場では武芸の稽古を行いました。中奥の建物の礎石はよく残っています。
奥向には城主の私室や側室の住居がありました。中奥と奥向の境界は厳重で、錠口詰所をつくって管理していました。一般に奥御殿は表御殿より広い敷地になることが多いですが、苗木城では土地が狭いため御殿としては異例の二階建てとなっていました。そのため奥向は「お二階」とも呼ばれていました。文久3年(1863)には参勤交代の緩和によってそれまで江戸屋敷にいた正室も苗木に住むことになり、さらに二階部分を増築しています。
二の丸周辺の石垣は切込接の布積み、はつり仕上げで化粧をしており苗木城内でもっとも見栄えを重視した石垣となっています。はつり仕上げは石垣の表面を少しずつ鉄のノミで削る非常に手間のかかるもので、二の丸の重要さがうかがいしれます。
三の丸の大矢倉から帯曲輪の不明門まで、苗木城西面は櫓や懸造の御殿が途切れることなく続き、多くの建物が折り重なるように建つその姿は苗木城の異形ぶりを最もよくわかる光景だったことでしょう。
二の丸
二の丸周辺の石垣
切込接布積の城内随一の石垣。はつり仕上げで化粧をしている。
二の丸御殿(中奥)礎石
二の丸的場と石垣。石垣上に中奥の御殿が建てられていた。
二の丸的場
二の丸御殿の下に位置する。苗木城に二つある的場のうちの一つ。
二の丸的場案内板
11. 帯曲輪
二の丸御殿奥向からに南に進むと苗木城山頂部を一周する帯曲輪に続きます。ここからは反時計回りに帯曲輪を一周します。苗木城は三の丸、二の丸、本丸に区分されますがその境界がいまいち判然としません。ここでは帯曲輪としていますが私が便宜上こう呼んでいるだけです。ご了承ください。
・不明門(あかずのもん)跡
二の丸御殿奥向の南、苗木城全体の南西隅に位置する不明門は渡櫓門で、苗木城模型を見ると二重櫓の一部を利用しています。二階部分は苗木城の他の門と同様に物置として使用されていました。普段は締め切られ忍びの門であるといわれていましたが、これまで城外へつながる通路は確認されていません。
通常であれば不明門は死人や罪人を城外に出すための門です。この門は忍びの門というにはあまりに目立ちすぎで、城外へつながる通路もないことからこの門の用途はよくわかりません。
・清水門跡
清水門は帯曲輪を東西に仕切る門で、苗木城見取図によると簡素な平門だったようです。北側にある大岩の下からは清水が湧き出ておりどんなときも枯れることがなく現在でも水をたたえています。古絵図には桶が描かれ、清水を用水として利用していたことがわかります。巨岩の間には明治以後に移された八大龍王社の祠があります。
・物見矢倉跡
物見矢倉は帯曲輪の南東隅に位置する櫓で、木曽川に面した崖の上に建つ懸造となっていました。一部二階建ての四間六間ほどの建物で、徒士(かち)具足蔵と物置の二部屋がありました。段々状の石垣が残っており苗木城の他の矢倉と同様に複雑な構造であったことが想像できます。
・仕切門跡
仕切門は二の丸と本丸を仕切る門で、ここから先が本丸とされていました。二間×四間半ほどの平屋建物で、苗木城模型では長屋門(といっても長細くはないのですが)のように見えます。門の一部は物置として使用されていました。
・本丸的場
苗木城に二つある的場のうちの一つです。二の丸奥向に面した的場は藩主専用でこちらは一般藩士用のものだったのかもしれません。
巨岩を活用した石垣
不明門跡
不明門案内板
清水門跡
八大竜王社
清水門案内板
物見矢倉跡
物見矢倉案内板
仕切門跡
仕切門案内板
本丸的場
巨岩を活用した石垣
12. 本丸口門跡 〜 笠置矢倉跡
帯曲輪を一周すると本丸口門跡前に至ります。
・千石井戸
本丸口門跡そばに位置する千石井戸は苗木城内で最も高い場所にある井戸です。高所にも関わらずどんな日照りでも水が枯れず、千人の用を達するということから千石井戸と呼ばれていました。背後には天守曲輪の鎬積み(鈍角)石垣を見ることができます。
・本丸口門跡
本丸口門は二の丸と本丸を区切る門で総欅で建てられていたことから欅門とも呼ばれていました。古絵図や苗木城模型では平門となっています。
・武器蔵跡
本丸口門を潜ると右崖の崖沿いに具足蔵と武器庫がありました。八間×三間の土蔵で、その長さから八間蔵とも呼ばれていました。遠山家が所持していた鉄砲や弓などの武器類が収められ、現在でも礎石や縁石が往時のまま残っています。
武器蔵と並んで二間三尺×三間の小ぶりな具足蔵もあり、こちらには領主の具足や旗が保管され旗蔵とも呼ばれていました。
・笠置矢倉跡
笠置矢倉は本丸の西へ突き出した巨岩の上に懸造で建てられた三階建ての櫓で、通常はなにも置かれていませんでした。眺望が良く笠置山が正面に見えることからこの名前で呼ばれていました。登城後に調べたところ、床下には抜け穴があり木曽川へ逃れ出る事ができたと伝えられており、抜け穴らしき遺構も残っているようです。ここからは天守建物と馬洗岩を一緒に見ることができます。
苗木城見取図を見ると、天守や大矢倉に匹敵する床面積で再現CGでは二重の懸造となっています。天守のすぐ下に位置することから小天守のような趣があります。
千石井戸
本丸口門跡
本丸口門跡から見た三の丸
千石井戸・本丸口門案内板
武器蔵跡
武器蔵・具足蔵内板
笠置矢倉跡から見た馬洗岩
笠置矢倉案内板
13. 笠置矢倉跡 〜 天守跡
笠置矢倉跡に背を向け坂道を登ると天守のあった苗木城本丸頂上に至ります。
・玄関口門跡
玄関口門は名前が示す通りの本丸頂上の玄関となる門で、この門を抜けていくルートが天守への正式な経路でした。門の先には土廊下の建物が続いていました。通常は鍵がかけられており、ここから中に入ることは禁じられ、鍵は目付役が管理していました。
・本丸玄関跡
本丸には天守や本丸御殿が狭小な山頂部に懸造を駆使して建てられていましたが、本丸御殿の玄関がここになります。本丸玄関は天守台より一段低い位置にあり、玄関を入ると本丸御殿の千畳敷を通り回り込むようにして南東側から天守へ入りました。古絵図では玄関に玉石が敷かれていますが、発掘調査でも多くの玉石が確認されています。
苗木城見取図を見ると、山頂部には天守、千畳敷、居間、次ノ間、台所といった建物があったようですが実際に訪れるとその狭さに驚かされます。ここにいくつもの建物、ましてや御殿を建てるのであれば岩の上、崖の縁を利用するしかないのも納得できます。
・天守建物
苗木城天守は二つの巨岩にまたがる形で造られた地上三階建ての懸造で、一階は天守縁下とよばれ二間×二間半、二階は玉蔵と呼ばれ三間四方、二階は巨岩の上に位置する四間半×五間半でした。地上三階建てとしましたが一階部分はほぼ巨岩に埋もれており地階、あるいは穴蔵と呼んでも良いかもしれません。
通常天守は「望楼型、◯重◯階、地下◯階」というような説明がされますが、苗木城天守はあまりにも特殊で説明が難しいです。強いて言うなら「懸造、一重三階」あるいは「懸造、一重二階、地下一階」でしょうか。壁は赤土壁、屋根は切妻造板葺、鯱も上げておらずとても天守には見えません。享保年間に幕府に提出した古絵図では入母屋造となっており、一時期は多少立派だったようですが少なくとも幕末には切妻造だったようです。とはいえ山頂の巨岩上に建つ姿は遠くからも目立ち、唯一無二の不思議な天守として充分な存在感があったことでしょう。
現在の柱と梁組みは天守建物と呼ばれ、天守三階部分の床面を復元した展望台となっています。天守台となる巨岩には当時の柱穴が残っておりこれを利用して建てられています。展望台からは眼下に木曽川と中津川市街、遠くに恵那山を望むことができ、山城ならではの絶景となっています。
玄関口門跡
玄関口門案内板
本丸玄関跡
本丸玄関案内板
天守建物
天守建物
柱は当時の柱穴を利用して建てられている。
巨岩を活用した天守台
天守建物からの眺め
眼下に木曽川と中津川市街、遠くに恵那山を望む。
天守建物案内板
千畳敷跡
14. 馬洗岩
天守台背後の石段を下ると巨岩がいくつも露出した本丸南側の小曲輪に至ります。馬洗岩はそうした巨岩の一つ、で古絵図には「この石廻り二十三間弐尺」とある周囲約42メートルの巨岩です。
敵に攻められ水の手を断たれた時、この岩の上で米を使って馬を洗い、あたかも水があるように見せかけたという伝承から「馬洗岩」と呼ばれています。
似た伝承は全国の城にいくつもありますがそれらでは、鳥がやってきて米をついばんだことから計略は破綻、ついには落城したと続きます。しかし苗木城ではこの部分がなく、これは森長可に攻められた際、遠山友政は城を退去して徳川家康を頼ったため落城はしていないという理由によるものだと考えられています。
写真ではわかりにくいですが本当に大きな岩で、高さも4〜5メートルほどあるのではないかと思います。馬洗岩の周囲からは本丸南側、天守台に相当する石垣を見ることができます。築石はかなり高度に加工されたほぼ切込接、布積みとなっており城の中心ということで見栄えを重視した積み方となっています。
馬洗岩
本丸石垣
馬洗岩の横からは巨岩に貼り付けたような本丸の石垣を見ることができる。
本丸石垣
馬洗岩案内板
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