KemaAkeの全国城めぐり

山中城 やまなかじょう
別名 なし
形態 山城
築城年 永禄年間(1560年代)
築城者 北条氏康
主な城主 松田康長
所在地旧国名 駿河
所在地 静岡県三島市中新田
アクセス ●バスによるアクセス
JR東海道本線 三島駅
三島駅南口から沼津登山東海バス元箱根港行きに乗車し山中城跡下車(三島駅南口から山中城跡まで約30分)
アクセスレベル ●バスでのアクセスレベル
☆☆☆
概要 山中城は永禄年間(1560年代)に小田原に本拠を置く北条氏康により武田信玄への備えとして築城された。その後天正17年(1589年)に豊臣秀吉との関係が悪化すると、備えとして大規模な拡張工事が行われ、新たに堀や曲輪が造られた。しかし、拡張工事途中の天正18年(1590年)に小田原の役により、豊臣秀次を総大将とする豊臣軍7万の総攻撃を受けた。対する北条軍は4千。必死の抵抗により、豊臣軍も一柳直末など多くの戦死者を出した。しかし、圧倒的兵力の前に城主松田康長以下ほとんどの城兵は討ち死にし、わずか半日で落城した。戦後廃城となった。
登城日 2008/12/31
撮影カメラ RICOH R10
みどころ 土塁や障子堀など。中世城郭として整備されています。天気が良い日には見事な富士山を望むことができます。

登城記
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山中城案内図

これまでの城の中で初めて最寄り駅から徒歩でたどり着けない城になりました。三島駅から歩いていくのは無理ではないでしょうが、相当大変です。というわけで、素直にバスに乗り山中城跡で下車しました。バスは一時間に一本程度なので注意が必要です。写真は城の案内図です。城の真ん中を国道1号線と箱根旧街道が通っていますが、後から無理やり通したものではありません。むしろ、山中城が箱根旧街道(東海道)を城内に取り込んで築かれた城で、城であると同時に東海道を監視する関所でもあったわけです。
北条橋

北条橋です。現代になって掛けられた橋で、写真の階段の上で箱根旧街道と交わっています。箱根旧街道の前身である山中道はそれ以前からあり、山中城はこの道を取り込んで築かれました。箱根旧街道は慶長9年(1604年)に江戸幕府が整備した東海道のうち小田原宿と三島宿を結び箱根峠を越える役32キロの区間で、ここには通行する人や馬を保護する松や杉の並木が作られ今も残っています。また、大変滑りやすい道なので、延宝8年(1680年)頃に石畳に改修されました。現在の石畳は平成6年(1994年)に三島市によって整備・復元されたものです。
三の丸堀

三の丸堀です。三ノ丸の曲輪の西側を南北方向に出丸まで続いています。他の堀が自然地形を加工して築かれていたのに対して、この堀は自然の谷を利用して築かれています。長さ180メートル、最大幅約30メートル、深さは約8メートルあります。
田尻の池

田尻の池です。次にご紹介する箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯だったようで、築城時に土塁によって区切られ別の池になったようです。このあたりは馬舎と伝えられていることから、馬の飲料水などに使用されていたものと推定されます。
箱井戸跡

箱井戸跡です。箱井戸と田尻の池は土塁によって区切られ、箱井戸のほうが一段高くなっています。これにより、箱井戸から田尻の池へ水が流れ、水の腐敗や鉄分による変色を防いでいたようです。箱井戸の新鮮な水を兵の飲料水として、田尻の池は洗い場や馬の飲料水として使用していたと考えられます。
二の丸虎口

箱井戸から坂を登ると二の丸になります。二の丸は山中城最大の曲輪です。東西に伸びる尾根を切って構築されており、南北方向に傾斜しており、北側は堀、南側は斜面となっており箱井戸の谷に続いています。写真は二の丸虎口で、突き当りが高さ4.5メートルの大土塁になります。ここで右折すると二の丸へ、左折すると橋があり元西櫓に続きます。
大土塁の上から見た橋

大土塁の上から橋を撮影。現在の橋は遺構を保護するため盛土して元の位置より高いところに掛けられています。
元西櫓跡から二の丸虎口を見る

橋を渡って元西櫓跡から二の丸虎口を撮影しました。元西櫓の曲輪は西の丸と二の丸の間にあり、周囲は深い堀で囲まれています。この曲輪は周りの堀を掘った土を盛土し、平らに整地して築かれています。
西の丸

西の丸です。西ノ丸は山中城の西方防衛の拠点で、西端に盛土をして見張り台とし、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁で囲んで築かれています。曲輪は東に向かって傾斜しており、東側にある溜池に雨水等を集める仕組みになっています。
西櫓堀

西櫓堀です。畝堀になっています。畝堀は堀を区切るように小さな土塁を設けた堀のことを言います。これにより堀底での敵の動きを制限することができ、弓矢などでの攻撃を容易にすることができます。同時に溜池の役割も果たし、雨水が山の上部から下部へ一気に流れないように制御することができます。ここでは堀を掘る際に畝の部分を残す形で築かれています。現在は木が生えていますが、400年前は木は全くなく、すべりやすいローム層が露出していたので攻撃側の兵が堀に落ちれば脱出は難しく、守備側の兵の良い的になったでしょう。
西の丸堀

西の丸堀です。障子掘りになっています。障子掘は畝堀と同様に、堀底での敵の動きを制限し、溜池の役割も果たしています。おそらく幅の狭い堀は畝堀、幅の広い堀は障子堀としたのでしょう。畝堀や障子掘は山中城以外の中世城郭でも見られる造りです。
本丸堀

本丸堀です。畝の一部がわずかに残っています。この堀を渡ると天守台と本丸があります。天守台となってはいますが、近世城郭のような立派な天守閣が建っていたわけではなく、簡単な二重櫓のようなものが立っていたのではないでしょうか。
本丸堀と櫓台

本丸堀と櫓台です。櫓台は復元されたもので、標高583メートルの位置にあります。
南側の畝堀

本丸と二の丸の間の本丸西堀は、土橋によって南北に分割されており、南側は畝堀となっており、折れ曲がって箱井戸の堀へと続いています。
岱崎出丸一の堀

国道1号線を渡って岱崎出丸方面に向かいます。岱崎出丸は秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ増築された曲輪です。秀吉の攻撃軍は初めにこの岱崎出丸に殺到しました。写真は岱崎出丸一の堀で、出丸全体を囲うのではなく、東海道側にのみ築かれています。150メートルの間に17ヶ所の畝が設けられ、山中城の中でもっとも見ごたえのある畝堀になっています。
すり鉢曲輪

岱崎出丸の先端にあるすり鉢曲輪です。岱崎出丸の先端を守る重要な曲輪で、国道1号線をはさんだ本丸側の曲輪とは構築方法が全くことなり、中央部をくぼませて低くし、そこからゆるやかな傾斜で土塁までたちあがり、途中で傾斜を強くして土塁の頂上に達します。この形状がすり鉢に似ていることからこの名で呼ばれています。
南側の畝堀

最後に岱崎出丸から富士山を撮影しました。天気もよく、冬(登城日は大晦日)ということもあり空気が澄んでおり見事な富士山を見ることができました。山中城はここ以外でもいたるところから富士山を望むことができます。この富士山の眺めも山中城の魅力のひとつでしょう。

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