KemaAkeの全国城めぐり

清洲城 きよすじょう
別名 なし
形態 平城
築城年 文明10年?(1478年)
築城者 織田敏定?
主な城主 織田氏、福島正則、徳川義直
所在地旧国名 尾張
所在地 愛知県清洲市朝日城屋敷1-1
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR東海道本線 清洲駅から徒歩15分
城までの道順は城の地図の青線を参照してください。
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆☆
概要 清洲城の歴史は室町時代の初め、斯波義重が尾張守護となり、守護所の別郭をこの地に築いたことに始まる。応仁・文明の乱のとき、織田家が守護代となるが、織田家も東軍側に敏定、西軍側に敏広に分かれ争った。文明11年(1479年)に敏定が尾張六郡のうち二郡、敏広が四郡を支配することで決着した。清洲城はこのころに敏定が築城したとされている。その後、織田家で内紛が始まると、弘治元年(1555年)に信長が那古野城から移り、永禄元年(1558年)には謀反を起こした弟、信行を清洲城で自刃させ、尾張一国を統一した。本能寺の変後は、織田信雄や福島正則などが城主となった。この頃には城も拡張され、三重の堀と層構えを持つ大城郭となっていた。しかし、慶長15年(1610年)に徳川家康の命により清洲城は徹底的に破壊され、その石材や建物は、新たに築かれる名古屋城に使用された。当時の臼引歌はそのありさまを「思いがけない名古屋が出来て、花の清洲は野となろう」と唄い、その通りに、尾張の中心は清洲から名古屋に移り、「東海の巨鎮」と呼ばれた清洲城とその城下は姿を消した。
登城日 2009/09/19
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 綺麗な模擬天守が建てられています。織田信長の銅像もあります。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の赤○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示します。

大手橋と天守

五条川に架かる大手橋と天守です。
織田木瓜

織田信長ゆかりの城ということで、いたるところに織田氏の家紋である織田木瓜が施されています。
大手門と信長塀

大手門と信長塀です。天守とその周辺は、平成元年(1989年)に清洲町の町制100周年記念事業で公園として整備されたもので、大手門と信長塀もそのとき建てられてものです。信長塀は、永禄三年(1560年)に織田信長が熱田神宮で戦勝祈願を行い、見事勝利したのでその御礼として熱田神宮に奉納された塀をモデルにしたものです。このときの戦いがかの有名な桶狭間の戦いです。
天守西面
城の地図:赤1

天守です。正面となる西面から撮影しました。前は日本庭園となっています。資料が残っていないため、想像で復元された天守であり、模擬天守ということになります。現在の天守がある場所は、かつて天守があった場所とは異なっており、五条川の向こう側にある本来の本丸の当たりは、清洲古城跡公園および清洲公園となっています。
北西から見上げた天守

北西から見上げた天守です。木々の緑、壁の黒、高欄の赤、空の青のコントラストが良い感じです。
南西から見上げた天守

南西から見上げた天守です。こちら側は広場となっており、周辺の方たちの憩いの場になっているようで、親子連れがボール遊びをしていました。
天守の鯱

天主の鯱のアップのつもりです。清洲城の鯱は、岐阜市の崇福寺に清洲城の鯱として伝えられているものをモデルとしており、青銅製の鯱に金箔を押した金の鯱です。
天守二階内部

天守二階に展示されている、織田信長の桶狭間出陣の様子を再現したコーナーです。「人間五十年…」で有名な敦盛を舞っているところでしょうか?永禄三年(1560年)、織田信長は清洲城から出陣し、今川義元の大軍に大勝しました。
天守二層大屋根の鯱

天守二層大屋根の鯱です。鯱にも仁王像と同じように阿吽があり、この写真の鯱はたぶん吽行だと思います。
天守高覧から見た日本庭園と大手橋

天守高欄から日本庭園と大手橋を撮影しました。写真でご覧の通り、清洲城のすぐ横には東海道線と新幹線が通っています。ひっきりなしに電車が通っています。五条川の向こう側が、かつての清洲城があった場所で、東海道線と新幹線で分断されている状態です。
濃姫の銅像
城の地図:赤2

天守南側の広場にある濃姫の銅像です。濃姫は美濃の戦国大名、斉藤道三の娘で、信長に正妻として嫁ぎました。信長美濃攻略後の濃姫に関する記録は残されていませんが、信長が清洲城に居城していたころは一緒に過ごしていたはず。
復元された石垣
城の地図:赤3

五条川を挟んだ、清洲古城跡公園内に復元された野面積みの石垣です。このあたりはかつての本丸で、石垣は平成8年(1996年)に、五条川の河川事業にともない行われた発掘で発見されたものを復元したもので、本丸南面の石垣と考えられています。
信長を祀る祠

清洲古城跡公園内には織田信長を祀る祠があり、横には「右大臣織田信長公古城跡」と刻まれた石碑があります。
信長の銅像
城の地図:赤4

最後に織田信長の銅像です。清洲城古城跡公園から東海道線、新幹線をはさんだ、清洲公園内に建っています。先ほどご紹介した清洲古城跡公園と清洲公園の敷地は、江戸時代、尾張藩が清洲城址として保存していた場所で、明治以来は宮内省が管理していました。大正6年(1917年)の織田信長への正一位贈位を記念して、公園として整備されました。この銅像は昭和11年に建てられてもので、信長が桶狭間へ出陣する様子を模しており、桶狭間の方向を凛々しく見据えています。
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