KemaAkeの全国城めぐり

萩城 はぎじょう
別名 指月城
形態 平城、山城
築城年 慶長9年(1604)
築城者 毛利輝元
主な城主 毛利氏
所在地旧国名 長門
所在地 山口県萩市大字堀内字城内1-1
アクセス ●バスによるアクセス(北の惣門に立ち寄る場合)
JR山陰本線 東萩駅から弘方寺前バス停まで徒歩約5分
弘方寺前バス停で萩循環まぁーるバス西回りに乗車。約10分で北の惣門入り口バス停に到着
北の惣門入り口バス停から東門跡まで徒歩約15分

バス時刻表などは以下リンクの“萩循環まぁーるバス”の部分をご覧ください。
萩市観光ポータル

各バス停の位置を載せましたので城の地図をご確認ください。
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆☆
概要 萩城は関ヶ原の戦いの敗戦により、中国八ヶ国から周防・長門の二ヶ国に減封された毛利輝元が新たな居城として築いた城である。
輝元は築城地の候補として防府・山口・萩を幕府に提出したが、幕府の裁決により、山陰の寒村であった萩が築城地となった。幕府が萩を築城地とした理由は、外様の雄である毛利家を辺鄙な土地に追いやるためであったとも言われる。確かに萩は不便ではあるが、北に日本海、他の三方は山に囲まれ、かつ阿武川河口デルタがあり防御には適していた。
築城は慶長9年(1604)から慶長13年(1608)にかけて行われ、阿武川河口デルタ地帯海沿いにある標高約143メートルの指月山とその山麓を縄張りとし、指月山頂に詰の丸、山麓に本丸・二の丸・三の丸を設けた。なお、もともと指月山の周りは干潟であり、満潮時に指月山は島になっていたが、築城の際に干潟を埋め立て、完全な陸続きの山としている。
築城後、約260年にわたり萩藩の藩庁となっていたが、幕末期の文久3年(1863)に毛利敬親が激動する情勢に備えて、藩庁を山口に移動した。これにより藩庁としての萩城の役割は終わった。その後、明治維新を経て明治7年(1874)の廃城令により、城内の建物はことごとく破却された。
現在、本丸跡は指月公園として整備され、指月山は国の天然記念物に指定されている。
遺構 普請:石垣、堀、土塁、貯水池など
作事:なし
城内案内図など 城内案内図(1300x1400)
登城日 2010/08/10
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 本丸の石垣や山頂に残された貯水池。海に面した埋門跡は萩城ならではの光景です。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の赤○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示します。

外堀
城の地図:赤1

外堀です。萩城の外堀は三の丸と城下町を分ける堀で、かつては日本海から南に約750メートル、そこから西に約600メートル続き、橋本川に合流していました。また、北の惣門、中の惣門、平安古(ひやこ)の惣門の三つの門が設けられ、堀の三の丸側には高さ6メートルの土塁が巡らされていました。現在では幅は小さくなっていますが、その跡を地図で追うことができます。
北の惣門1
城の地図:赤2

北の惣門です。北の惣門は萩城唯一の復元建物で、大きな高麗門です。背後に見える山は萩城の詰の丸があった指月山です。
北の惣門2

同じく北の惣門です。かつては番所があり、明けの六つ時(日の出)から暮れの六つ時(日の入り)まで開かれ、夜間は手形を持つものに限り通行が許されました。
三の丸

三の丸です。三の丸は家臣の屋敷地で、現在は堀内地区と呼ばれています。現在でも石垣や土塀が続く風情ある町並みが残されています。現在の地図と江戸時代の絵図を比べると、道路がぴたりと重なり、昔の面影が良く残されていることがわかります。
旧周布(すう)家長屋門
城の地図:赤3

旧周布(すう)家長屋門です。堀内地区は藩の上級武士が住んでいたところで、特に北の惣門から城内に至る通りの両側には、長屋門や長屋が集中していました。旧周布家長屋門もその中のひとつで、門内部が一般に公開されています。いかにも武家屋敷といった感じの建物ですが、周布家の家格に対しては小さすぎることから、かつてはさらに大きな正門があり、この門は通用門であったのではないかと考えられています。
二の丸東門跡
城の地図:赤4

二の丸東門跡です。高麗門の外門と渡櫓門の内門からなる典型的な桝形門でしたが、渡櫓門の続き櫓に三重櫓、桝形の反対側に二重櫓を設けた壮大な門でした。写真のように石垣の修理中で、堀に潜って作業をしている方もいました。
内堀越しに見た天守台と指月山

内堀越しに見た天守台と指月山です。右端の石垣が天守台、背後の山が指月山です。中央の橋は極楽橋で、かつては木造の橋でした。極楽橋の向こうは本丸内門になります。
内堀越しに南西から見た天守台
城の地図:赤5

内堀越しに南西から見た天守台です。天守台は本丸の南西に位置し、東西約18メートル、南北約14.5メートルの大きさです。この上に天守台から張り出した一層目を持つ高さ約14メートルの五層の望楼型天守が建てられていました。壁は白漆喰の総塗籠で、窓や廻縁は銅版張りとなっていました。明和5年(1768)の修理の際には屋根瓦を赤瓦に改めており、白い壁、緑青の窓枠や廻縁と合わせて、大変鮮やかな天守だったことが想像されます。
天守から続く石垣の雁木

天守から続く石垣の雁木です。天守の東側には本丸内門まで土塀が続いていました。写真はその塀の石垣に登るための雁木です。
東から見た天守台

東から見た天守台です。雁木の上に上って撮影しました。
天守台階段

天守台階段です。この階段は天守取り壊し後に造られたものです。かつては天守台に階段はなく、天守の北側に建てられた二層の続き櫓の中を通って、天守に登っていました。これは岡山城天守や広島城天守と同じで、古式な形式と言われています。
天守礎石

天守礎石です。天守台に上ってみると、五層の天守を建てるには、狭いような印象を受けました。
天守台から見た内堀

天守台から見た内堀です。写真中央の辺りが本丸内門跡で、かつては渡櫓門が建てられていました。
指月山入り口
城の地図:赤6

指月山入り口です。本丸北西隅にあります。ここから徒歩20分ほど登山道を登ると、標高143メートルの指月山頂にある詰の丸跡に到着します。指月山は天然記念物に指定されているためか、この登山道も最低限しか整備されておらず、歩く際には注意が必要です。また、夏は虫の数が半端じゃありません。実は私、虫が大嫌いで、途中で引き返そうと思ったほどです。早速、二匹のアブに絡まれ、必死の思いで山頂までたどり着きました。アブは山頂までずっと私の周りをブンブンと飛んでいました。
詰の丸入口

詰の丸入口です。指月山頂にある詰の丸は、一段高い本丸と低い二の丸に分かれており、合計6つの櫓が建てられていました。周囲は高さ約2メートルの石垣で囲まれ、これは現在もほぼ全て残っています。写真の左側の塀は昭和40年に復元されたものです。
詰の丸入口から見た石垣

詰の丸入口から見た石垣です。石垣上の復元された石垣は、築45年を経て、劣化が進んでいるようです。
要害門跡
城の地図:赤7

要害門跡です。要害門は詰の丸の二の丸南側に位置する詰の丸の正門でした。かつては写真右側の石垣の上に渡櫓門が建てられていました。
内側から見た要害門跡

内側から見た要害門跡です。
詰の丸

詰の丸です。手前が詰の丸の二の丸、奥に見える石垣の上が詰の丸の本丸になります。詰の丸は指月山頂に位置しますが展望台はありません。また、夏ということもあるのでしょうが、周りには木が鬱蒼と茂っており景色はよくありません。登山道の途中にも「山頂に展望台なし」の旨が案内されており、山頂からの景色を期待している方はご注意を。ただ、普通の人は山下の部分だけ見て帰ってしまうようで、山の中で他の人の姿は全く見かけませんでした。
矢穴の空けられた石

矢穴の空けられた石です。詰の丸にはところどころに写真のような矢穴の空けられた石が転がっています。詰の丸の石垣は、詰の丸を築く際に山頂から削られた石で築かれました。これらの矢穴の空けられた石はその名残です。
詰の丸の貯水池

詰の丸の貯水池です。詰の丸の本丸中央にはひときわ目をひく、矢穴の空けられた巨石があります。この巨石の周りのくぼんだ部分が貯水池です。詰の丸には井戸がないため、雨水を樋で集めてこの貯水池に蓄えていたようです。今回の萩登城で最も楽しみにしていたのがこの貯水池でした。この巨石は城好きの方必見です。
詰の丸埋門跡

詰の丸埋門跡です。詰の丸埋門は詰の丸の本丸東側に位置しています。搦手といったところでしょうか。
東園跡

東園(とうえん)跡です。東園は萩城二の丸内にある回遊式の庭園で、六代藩主毛利宗広(1717〜1751)が、この地に古くからあった池を浚渫してつくりました。七代藩主毛利重就(1725〜1789)が家督を継ぐと、庭内の各所に六景二十勝の名称をつけ、その景観を装飾しました。東園として整備される以前から、この地には御花畠と称した庭園があり、御茶屋がありました。
井上櫓跡
城の地図:赤8

井上櫓跡です。井上櫓は本丸の北東角にあり、写真の石垣右側には井上門がありました。この井上門の向かいに東園が位置しています。
二の丸土塀と潮入門跡
城の地図:赤9

二の丸土塀と潮入門跡です。二の丸土塀は昭和40年に一部が復元されたものです。中央の石垣の途切れている部分が潮入門跡で、かつては渡櫓門が建っていました。
二の丸側から見た潮入門跡

二の丸側から見た潮入門跡です。その名の通り潮入門の目の前は日本海になっており、菊ヶ浜を一望できます。かつては砂浜も今ほど広くなく、目の前に海が迫っていたようです。
土塀

土塀です。潮入門跡から二の丸埋門跡に向う途中にあります。白漆喰がはがれてしまったのでしょうか?案内板がなかったためはっきりしませんが、この朽ちかたと、城の復元図でもこの辺りに土塀があることから、往時のものではないかと勝手に解釈しています。
二の丸埋門跡
城の地図:赤10

二の丸埋門跡です。二の丸埋門は二の丸最北端の門で、目の前にはごつごつした石の海岸が広がっています。石垣の狭間から海が見える光景は、萩城ならではです。現地案内図では「埋門」ではなく「北矢倉跡」となっているため注意が必要です。
海岸に続く石垣

海岸に続く石垣です。埋門前から撮影しました。海岸にそそり立つ石垣はなかなか見ることができない光景です。本当はもっと向こうまで行きたかったのですが、海岸にはフナムシがいっぱい…虫嫌いの私には無理でした。
二の丸南門跡
城の地図:赤11

二の丸南門跡です。二の丸南門は萩城の大手門です。長方形の桝形の中央に石垣を設け、コの字形の桝形を形成する変わった造りになっています。
毛利輝元の銅像

毛利輝元の銅像です。二の丸南門跡にあります。あまり大きなものではありません。
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
城の地図:赤12

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋です。二の丸南門跡の前にはかつて厚狭毛利家萩屋敷があり、その名残として写真の長屋が残っています。厚狭毛利家は毛利元就の五男元秋を始祖とし、毛利一門六家のひとつに数えられていました。安政3年(1856)に建てられたもので、長さ約50メートル、幅約5メートルの長大な長屋で、萩に残る武家屋敷の建物としては最大のものです。
萩城模型

萩城模型です。旧厚狭毛利家萩屋敷長屋に展示されています。縮尺はデフォルメされていますが、往時の萩城の雰囲気を知ることが出来ます。
旧萩藩御船倉1
城の地図:赤13

旧萩藩御船倉です。萩市街地の中、萩城からはだいぶ離れたところにあります。これは藩主の御座船を格納した倉庫で、慶長13年(1608)ごろに建てられました。両側と奥に玄武岩で壁を築き、瓦屋根を葺き、前面には木製の扉を設けています。石壁の厚さは6メートルもあります。屋根を葺いた旧藩時代の船倉としては全国唯一の遺構で、大変貴重なものです。
旧萩藩御船倉2

別アングルから見た旧萩藩御船倉です。現在は写真のように周りに民家が迫っていますが、かつては目の前に松本川が流れており、船が自由に出入りできるようになっていました。
萩城天守の模型
城の地図:赤14

萩城天守の模型です。JR東萩駅のロータリーにあります。後ろのトラックと比較してわかるように、結構な大きさがあります。鉄製のようで、ところどころサビていますが、萩城天守の雰囲気が伝わってきます。もう少しきれいにメンテナンスされているとなお良いですね。
指月山と松本川

指月山と松本川です。宿泊したホテルから撮影しました。写真左端のおむすび形の山が指月山で、中央の川が松本川です。奥には日本海も見えます。指月山全景を撮影する絶好のスポットとして、菊ヶ浜があるのですが時間がなく立ち寄ることが出来ませんでした。ですので、この写真で代用します…
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