備中松山城
びっちゅうまつやまじょう
| 別名 |
高梁城 |
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| 形態 |
山城 |
| 築城年と築城者 |
延応2年(1240)秋葉重信 慶長10年(1605)ころ 小堀遠州 天和元年(1681)水谷勝宗 |
| 主な城主 |
秋庭氏、高橋氏、上野氏、庄氏、三村氏、毛利氏、小堀氏、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏 |
| 所在地(旧国名) |
岡山県高梁市内山下1(備中) |
| 交通 |
・徒歩の場合
JR伯備線 備中高梁駅
↓徒歩(約25分)
登山道入口
↓徒歩(約25分)
鞴(ふいご)峠駐車場
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・タクシーの場合
JR伯備線 備中高梁駅
↓タクシー(約15分)
鞴峠駐車場
※土休日などの混雑時はふいご峠駐車場までの一般車乗り入れはできず。麓の城見橋公園からふいご峠までシャトルバス運行
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| 概要 |
現在備中松山城天守がある小松山と尾根続きの大松山に城を築いたのは、鎌倉時代の地頭であった秋庭重信といわれる。南北朝時代初期に秋葉氏を従属させた高橋氏が小松山まで城域を拡張した。築城から廃城まで城主が目まぐるしく交代した備中松山城であるが、現在残る石垣や建物が整備されたのは関ヶ原の戦い以降で、徳川幕府代官の小堀氏や、その後に五万石で入城した水谷氏による。
近世城郭としては異例の険しい山城だが、普段の藩政は山麓の御根小屋で行われており山上の本丸などはほとんど使用されなかった。水谷勝宗が築いた天守は現存12天守の一つで、その規模は層塔型二重二階と小ぶりだが、標高430メートルに位置しており存在感がある。
-----------年表------------
仁治元年(1240)秋葉重信が大松山に築城
14世紀~16世紀前半 高橋氏が小松山まで城域を拡張
室町~安土桃山時代 戦乱により三村氏、宇喜多氏、毛利氏など城主が転々とする
慶長10年(1605)小堀政一(遠州)が城を改修する
天和元年(1681)水谷勝宗が城の大改修を行い現在残る天守が完成する
明治6年(1873)廃城令により御根小屋は取り壊され山上の建物は放置される
昭和31年(1956)国史跡に指定される
平成6~9年(1994~1997)本丸南御門、五の平櫓、六の平櫓などが復元される
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| 現存遺構 |
普請:曲輪、堀、石垣
作事:本丸二重櫓、三の平櫓東土塀
天守:層塔型二重二階天守が現存
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| 案内図など |
現地案内図(2500x2500)
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| 登城日 |
2025年3月21日 |
| 過去の登城記 |
2010年12月23日 |
アクセス
最寄り駅である備中高梁駅は岡山駅から特急やくもがおおむね1時間に1本運行されており、最寄り駅までのアクセスは良好です。
山城らしさを味わうのであれば備中高梁駅からは徒歩となりますが、車道とは異なる登山道で鞴峠駐車場まで1時間ほどかかるかと思います。
公共交通機関利用の場合、土休日や長期連休期間であれば、麓の城見橋公園から鞴峠駐車場までシャトルバスが15分間隔で運行されています。シャトルバス運行日は鞴峠駐車場まで一般車の乗り入れはできません。シャトルバスについては
高梁市観光ガイドを御覧ください。
シャトルバス運行日以外であれば備中高梁駅からタクシーで鞴峠駐車場まで約15分、料金1800円ほどで行くことができます。駅前にタクシーがいない場合でも駅前にタクシー会社があるので安心です。
感想
備中松山城といえば現存天守が有名です。二重二階と小規模ですが、折れ曲がり出窓や唐破風付き出窓などの意匠を凝らすことで、実際よりも大きく、豪華に見えるよう工夫されています。
岩盤上に築かれた石垣や糸巻型、隅巻といった珍しい技法の石垣も見どころです。一般的に近世になるとこのような本格的な山城は廃れてしまいますが、関ヶ原の戦い以降の世の中にあって、どのような意図を持って急峻な山上に石垣や天守を築いたのか興味深いです。
今回は15年ぶり2回目の登城です。前回は時間がたっぷりあり初登城ということで山城らしさを堪能するため備中高梁駅から徒歩で登城しました。
しかし今回は中国地方100名城行脚ということで、4日で8つの城をめぐる予定のためタクシーで登城しました。とはいえ、せっかくなので前回とは違うところも見てみようということで、天守のさらに奥、天神丸や大池まで足を伸ばしました。大池まで足を伸ばすと気分がのってきて同じ道を引き返すのもつまらないと思いgoogleマップとにらめっこ。大松山つり橋経由で雲海展望台まで歩いてしまいました。思ったより長距離の徒歩となりましたが、前回と今回で山上部の見どころはおさえることができました。
さすがに帰りは備中高梁駅までは歩く元気は残っていなかったのでタクシーに迎えにきてもらいました。
登城記
写真をクリックすると画像ファイルが表示できます。
1. 鞴峠駐車場~中太鼓丸
鞴峠駐車場から未舗装の登山道を5分程歩くと、正面に中太鼓丸の石垣が見えてきます。中太鼓丸は本丸のある小松山から南に伸びる緩やかな尾根上に位置し、中太鼓櫓が建てられていました。防衛上の拠点であると同時に下太鼓丸と同様に太鼓の音を中継するための通信所の役割も果たしていました。
櫓台の上には当時のものと思われる瓦片が多く散らばっていす。山城に行くと瓦片がよく落ちており、以前は当時のものではないだろうと思っていました。しかし、石垣山一夜城での加藤理文先生のお話によると、大体の瓦片は当時のものとのことです。金箔瓦など重要なものはしっかりと保管されているが、その他はそのまま残されているとのことで、おそらく備中松山城も同様かと思います。
鞴峠駐車場
バスや一般車が来ることができるのはここまで。トイレと自販機がある。
鞴峠駐車場付近の石垣
鞴峠駐車場と中太鼓丸の間にある。
中太鼓丸石垣
打込接ぎ乱積か。上部には平屋の中太鼓櫓が建てられていた。
中太鼓丸石垣
隅角部は算木積を志向しているが完成度は並。
中太鼓丸石垣
中太鼓丸の瓦片
平瓦だけでなく丸瓦の破片もある。
中太鼓丸から見た高梁市街
本丸や天守からの眺めは良くないため備中松山城で最も眺めが良い場所となる。
中太鼓丸石垣
2. 大手門周辺
中太鼓丸から5分ほど山道を登ると眼前に巨大な岩肌とその周りに広がる石垣群が現れ大手門跡に至ります。大手門は妻二間、平十間の渡櫓門で城内最大の門でした。門を潜ると通路は左に折れ、右を足軽番所、後ろを上番所、前を二の平櫓で囲んだ通路として横矢を掛ける厳重な造りとなっています。
最も目を引くのは自然の岩塊の上に築かれた石垣で、背の高い岩塊の上に築かれた石垣と土塀は備中松山城ならではの絶景です。
案内板等はありませんが、通路左側に続く土塀は天和3年(1683)に築かれたもので、山城に残る土塀として貴重で、重要文化財に指定されています。土を練って造った塊を積み重ね、外側に漆喰を塗り仕上げたものでかなりの厚みがあります。かつては損傷が激しく内部がむき出しになっていましたが修復され、失われていた部分も復元されました。
大手門跡と背後の石垣群
大手門背後は石垣を重層的に築き防御を固めている。
岩塊上に築かれた石垣
備中松山城を代表する景色。
大手門跡
左右の石垣にかけて渡櫓門が築かれていた。
大手門礎石
三の丸石垣
大手門を潜った正面に位置し上には足軽番所があった。
三の丸と厩曲輪の石垣
大手門を潜り本丸方面を見上げると各曲輪の石垣が一二三段となっている。
三の丸と厩曲輪の石垣
ここでも岩盤を利用した石垣が築かれている。
足軽番所跡から見た大手門跡
大手門を潜ると通路は左に折れ、頭上と二の平櫓から横矢を掛けることができた。
厩曲輪から見下ろした大手門跡
一段下の広い曲輪は三の丸。
三の平櫓東土塀と登城道
案内板はないが三の平櫓東土塀も現存建物の一つ。
三の平櫓東土塀
三の平櫓東土塀
3. 鉄門周辺
大手門跡を過ぎ段々に築かれた三の丸、厩曲輪を右手に見ながら登城道を進むと、四の平櫓跡があります。その隣は小さな御膳棚曲輪となります。
現在御膳棚曲輪にはトイレの建物がありますが、その裏手の二の丸南面の石垣は大型石材で築かれた隅角部から小型の築石が連なった隅巻という手法で積まれています。おそらく大型石材の石垣が裏に続いており、石垣の崩壊を防ぐための押さえ石垣の一種かと思われます。下部ではさらに全面に低い押さえ石垣が築かれており、万全の補強がされています。
鉄門跡の東側に続く二の丸南面石垣は、幾度もの改修により毛利期、小堀期、水谷期に築かれた石垣が混在しています。最下段に最古の毛利期石垣がわずかに残り、その上に小堀期、水谷期、そして最上部は幕末期の石垣となります。
四の平櫓跡
黒門跡礎石
黒門は四の平櫓に接続して建てられた平門だった。
二の丸南面の隅巻石垣
二の丸南面石垣
よく観察すると改修時期による積み方の違いがわかる。毛利期の石垣は城内最古。
黒門跡脇の隅角部
中段の大きな築石は露出した岩をそのまま利用している。
黒門礎石
4. 二の丸周辺
二の丸は本丸の一段下、南側に位置し、本丸に匹敵する広さの曲輪です。本丸には天守などの建物が数多くあるため、ほとんど建物のなかった二の丸が実質的に城内最大の曲輪となります。二の丸からは本丸を正面から一望でき、備中松山城の定番撮影スポットとなっています。
ベンチの上には現城主のさんじゅーろ様の石像があります。この日は本物のさんじゅーろー様にもお出ましいただきましたが、まさか石造りのさんじゅーろー様がいるとは思いませんでした。
二の丸の東側は本丸裏まで続き帯曲輪状になっています。この帯曲輪から見た土塀と天守の風景はNHK大河ドラマ真田丸で使用されており、オープニングの光景を見ることができます。
二の丸から見た本丸
右から天守、五の平櫓、六の平櫓。平櫓の間は本丸大手門である南御門。天守の他は復元された建物。
さんじゅーろー様(石)
さんじゅーろー様(本物)
本丸西面石垣と天守
真田丸では色合い調整がされていたが風景はそのまま。
5. 天守
天守は小堀氏時代に創建され、水谷勝宗による改修により天和元年(1681)ごろに現在の姿になったと考えられています。明治6年の廃城令により備中松山城の建物の多くが取り壊されましたが、山上部の建物は費用がかかるため放置され荒れるがままになり、一時は倒壊寸前の状態でした。昭和に入って解体修理が行われ旧国宝(現在は重要文化財)に指定されました。
二重二階の層塔型で高さ約11メートル、一階平面は14×10メートルと小規模です。しかし、東面と北面に巨大な突出部が付属し、西面にもかつて八の平櫓に続いた廊下が付属しており実際より大きな印象を受けます。また、正面中央には巨大な唐破付出窓、正面のほぼ全面を覆うように小屋根付きの折れ曲がり出窓を設け、小さいながらも意匠に富んだ風格ある外観となっています。懸魚や兎毛通を漆黒としており細部への美的配慮もうかがえ、天守として他の建物と差別化しています。
天守正面(南面)
天然の岩盤上に石垣を築いている。
天守正面(南面)
懸魚と唐破風出窓の兎毛通は漆黒で、下見板張の黒とともに天守全体を引き締めている。
唐破付出窓
出窓には石落としを設けるのが普通だが、この出窓にはなく意匠としてのものである。
廊下
廊下の側面にも小屋根付き出窓を設け、賑やかな造りとなっている。
天守東面
囲炉裏のある突出部。
天守北東隅
右側は装束の間の突出部で、石垣が天守本体よりも高くなっている。
天守北面
装束の間の入母屋破風がアクセントとなり、正面にも劣らない賑やかさとなっている。
装束の間の石垣隅角部
野面積みに近い打込接ぎか。隅角部は算木積みではない。
6. 天守内部
天守には西面に付属する廊下から入りますが、一階に上がるとその明るさに驚かされます。他の現存天守はどれも薄暗いのですが、この天守は南面が全面格子窓となっているためでしょう。天守一階の東面突出部には天守としては珍しい囲炉裏があり、籠城時の城主の食事、暖房に使用するためのものと伝えられています。北面の突出部は装束の間と呼ばれる一段高い部屋となっており、落城時の城主最期の場所と伝えられています。
二階北面は水谷勝宗が設けた祭壇となっており窓もありません。天照大御神、水谷氏の守護神である羽黒大権現などが祀られており、事あるごとに盛大な祭典を行っていました。天守に祭壇を設けることはよくありますが、このように一面全体を使用した祭壇は他に例がありません。
廊下内部
北面には一つだけ鉄砲狭間がある。
天守一階内部
奥が南面で全面が格子窓となっており非常に明るい。
東面突出部内部
中央には囲炉裏があり囲炉裏の間と呼ばれる。
唐破付出窓内部
格子で造られる光と影の帯が美しい。
天守二階内部
奥が北面で全体が祭壇となっている。
天守二階南東隅内部
折れ曲がり出窓で城郭建築の隅部に窓があるのは珍しい。
7. 二重櫓
二重櫓は本丸北側の張り出し部先端にに位置する城内唯一の重層櫓で重要文化財に指定されています。戦国期以来の曲輪がある大松山方面を守り、切り立った岩盤上に築かれた石垣上に建つ備中松山城らしさにあふれる櫓です。
二つの入口があり、一つは後曲輪に、もうひとつは天守裏に続いており、門の役割もあったようです。廃城後は山小屋として使用されていましたが、天守同様次第に荒れ果て崩壊寸前となりましたが、天守よりも早い昭和3年(1928)に修復工事が行われました。
二重櫓
南面、天守裏から撮影。
二重櫓
南東、搦手門曲輪から撮影。
二重櫓
北東、水の手門脇曲輪から撮影。
二重櫓
北面、後曲輪から撮影。
二重櫓と天守
二重櫓と天守の西面。
天守と二重櫓
後曲輪から撮影。
8. 東御門・腕木御門
東御門は本丸東側に取り付く石段を登った位置にある平門です。平成6年(1994)に行われた本丸の復元整備の際に、本丸南御門や腕木御門などとあわせて復元されました。最大の特徴は城門としては他に例のない門扉を左右にすべらせて開閉する引戸構造になっていることで、本丸内を無人にした後、外側から施錠をしたとされています。
腕木御門は天守裏から水の手門脇曲輪をつなぐ平門で、こちらは引戸ではなく通常の観音開きとなっています。
東御門
正面、帯曲輪から撮影。
東御門
背面、本丸から撮影。引戸になっていることがわかる。
腕木御門
正面、水の手門脇曲輪から撮影。
腕木御門
背面、天守裏から撮影。
9. 搦手門跡・後曲輪
搦手門は本丸東側の帯曲輪に設けられた小さな門で、急斜面に張り付く通路に続きますが、この通路は現在通行できません。石垣の隅角部は通常の算木積みではなく、矩形の板石を長短交互に積んだ意匠石垣となっています。
後曲輪は本丸の北側に位置し、九の平櫓が建っていました。備中松山城の北端でもあり、背後の水の手御門からは天神丸、大池に通路が続いています。水の手御門付近では角を作らず緩やかな曲線とする糸巻型石垣を見ることができます。
搦手門跡
搦手門跡
正面から撮影。左側石垣が意匠石垣となっている。
後曲輪
水の手御門付近の糸巻型石垣
右に進むと天神丸、大池に至る。
10. 大松山城
本丸から北に300メートルほど離れた尾根続きの標高470メートルの大松山は中世に大松山城があったあたりで、ここから徐々に城域が拡張され近世になると現在の本丸が城の中心となりました。
水の手御門から登山道を北に進むとほどなく堀切がありますが、これは近世になって整備されたもので両岸は石垣となっています。堀切の少し先、大松山城の南側にあたる斜面にも石垣が残っていますがいつごろのものかは不明です。
さらに北に進むと戦国期の曲輪や堀切がよく残っており、天神の丸と呼ばれる大松山最高所に至ります。天神の丸には近世に天神社がまつられ、天神社跡の石段などが残っています。
堀切と木橋
堀切と木橋
大松山城南側斜面の石垣
天神社跡
天神社跡案内板
天神の丸下の堀切
11. 大池
天神の丸北側にある大池は巨大な石垣造りの貯水池です。規模は23メートル×10メートルで全国の城郭貯水池では最大です。江戸時代の記録によると屋根がかけられ、塵や芥を取るための小舟があったと記録されています。近年の発掘調査で排水用の木樋や、石垣を何度も修理された形跡が確認され、江戸時代を通じて修理を行いながら池の保全をしていたことがわかりました。これだけの高所にこの規模の貯水池を維持するためにはかなりのコストがかかったと思われますが、大池の用途が判然としないため理由は不明です。
本丸からはそれなりに距離がありますが、他の城には見られない非常に特徴的な遺構のためぜひとも訪れてほしい場所です。
大池
南面と東面には池底への石段がある。
大池
南側から撮影。突き当り(北面)中央の水面下に木樋がある。
大池
大池
北面外側。谷を堤状に遮ることで水を溜めているように見える。
12. 大池~雲海展望台
大池から先は城外となりますが、大松山つり橋を渡って徒歩20分ほどで雲海展望台に行くことができます。"雲海に浮かぶ天空の城"として有名な備中松山城の写真が撮影できるスポットです。雲海をねらうためには季節と時間を考える必要がありますが、雲海がなくても城下町と山上の建物群を一枚の写真に収めることができ、行く価値は充分にあります。
大松山つり橋
雲海展望台
雲海展望台からの眺め
雲海展望台で本丸を望遠
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