アクセス
岩国城は中国地方有数の観光地である錦帯橋の背後に位置しています。JR岩国駅から錦帯橋まではバスが頻繁に運行されているため、アクセスに困ることはありません。
山城のため、山上までの移動手段を考える必要がありますが、有名観光地ということもあり、山麓から山上までロープウェイが整備されており、ストレスなく移動できます。時間があれば山麓から山上まで歩くつもりでしたが、今回は時間がなかったため、行き帰りともにロープウェイを利用しました。
感想
錦帯橋と背後の天守という風景は非常に有名ですが、実際に訪れるとその絵になる景観に納得がいきます。山麓からの眺めを考慮し本来の場所より手前に天守を復興したというのも頷けます(城ファンとしては複雑な心境ですが)。
天守は二つの南蛮造(唐造)を持つ極めて珍しいものです。近年、昭和に復興された鉄筋コンクリート造の天守は内部改装で綺麗になっているところが増えてきました。しかし、岩国城では改装が行われていないようで、老朽化は否めませんが、その「昭和の復興天守」といった趣がかえって新鮮に感じられました。これも一種の昭和レトロといえるかもしれません。
山上部を回ってみると、岩国城が石垣を備えた近世山城であることがよくわかります。石垣の半分ほどは徹底的に破壊されていますがその痕跡も大きな見どころです。破却を免れた石垣も保存状態が良く見応えがあります。
その他に印象的だったのは、パンフレットがA4サイズ11ページもある非常に丁寧なつくりで、まるで小冊子のようだったことです。内容は簡単な説明に留まらず、縄張り図(案内図ではない!)も掲載されており、かなり力が入っていることがうかがえました。
登城記
写真をクリックすると画像ファイルが表示できます。
1. 錦帯橋
岩国城は、横山の山頂に石垣造りの要害部、山麓に居館部を置き、錦川を天然の外堀として対岸に中下級武士や町民の居住区がある城下町を築きました。錦川の川幅は200メートルもあり、城と城下町を行き来するために城下町造営時から何らかの橋が架けられていたようですが、洪水のたびに流されていました。
そこで、三代目藩主の吉川広嘉は洪水に強い橋を研究し、延宝元年(1673)に五連アーチ橋の初代錦帯橋を完成させました。完成の翌年には洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまいましたが、すぐに改良を加えて再建されました。その後は定期的に架け替え工事を行い、昭和25年(1950)にキジア台風で流出するまで250年以上その姿をとどめていました。昭和28年(1953)には再建が行われ、現在の橋は平成16年(2004)に架け替えられたものとなります。
橋を渡るためには料金がかかりますが、木造でこれほど大きな橋は珍しいです。人が近くを通るとほんの少し橋が揺れるのも、木造ならではの感覚ではないでしょうか。錦帯橋と岩国城天守のツーショットは、中国地方にとどまらず日本を代表する風景の一つだと思います。
錦帯橋と天守
錦帯橋
真下から撮影。
錦帯橋から見た天守
錦川と天守
2. 山麓部
・香川家長屋門
岩国藩五家老家の一つである香川家の表門で、元禄6年(1693年)に建造されたと伝えられています。当時このあたりは岩国藩の上級武士の居住区であったことがわかります。現在は山口県の指定文化財となっています。
・吉川広家公像
吉川広家は岩国の初代領主で、毛利元就の孫、毛利輝元のいとこにあたる人物です。関ヶ原の戦いでは東軍に通じ、戦後はその功績により結果的に毛利本家を改易から救いました。槍の名手として有名で、豊臣秀吉から「日本槍柱七本」の一人として称賛されたともいわれ、この銅像はその姿をイメージしたもののようです。
・御土居跡(吉香公園)
岩国城山麓部には、山側を除いた三方を水堀で囲んだ「御土居」と呼ばれる居館部がありました。堀の幅は15メートルから20メートルで、犬走りと高さ約1.8メートルの石垣が築かれました。門は10か所設けられ、隅角には御三階櫓、畳櫓、南西面には御二階櫓と物見櫓がありました。御土居の主要な建物は、政庁である表御殿、領主の居所である納戸、領主の家族の居所である裏御殿に分かれていました。これらの御殿構成は、毛利氏の本城である萩城との共通点が見られます。
一国一城令により山上部が破却された後も、御土居は引き続き政庁として使用され、明治維新まで存続しました。現在、御三階櫓跡には、吉香神社の絵馬堂として錦雲閣が建てられています。さながら大型の二重櫓のようなその姿は大変美しく、吉香公園のシンボルとなっており、2000年には国の登録有形文化財に指定されました。
また、居館跡には、吉川氏の歴代の祖霊を祀る吉香神社があります。もともとは別の場所にあった享保13年(1728年)に造営された社殿を、明治18年(1885年)に移築したもので、現在は国の重要文化財に指定されています。
・旧目加田家住宅
江戸時代中期の侍屋敷で、中級武家の住宅としては全国でも数少ない現存例の一つで、国の重要文化財に指定されています。入母屋造りの桟瓦葺きで、三方に庇をめぐらしています。瓦葺きに用いられている特殊な形の桟瓦は「両袖瓦」と呼ばれ、西岩国地区に集中して見られる珍しいものです。
香川家長屋門
桜と天守
吉川広家公像と天守
御土居跡に建つ錦雲閣と天守
吉香神社
旧目加田家住宅(正面)
旧目加田家住宅(背面)
旧目加田家住宅の両袖瓦
3. 二ノ丸および本丸周辺の石垣
岩国城ロープウェイ山頂駅から本丸方面へ数分ほど歩くと、二の丸南西隅の腰巻石垣が姿を見せます。二の丸は本丸南側の一段下に位置するほぼ長方形の曲輪で、南西隅は地盤が悪かったため補強用の腰巻石垣が築かれています。二の丸の南側の一部は外側に張り出しており出丸と呼ばれています。出丸はその規模や形状から大手門の外枡形を兼ねていたと考えられています。
大手門右側の石垣は北の丸石垣と接するまで直線上に続く高石垣で、岩国城で最も高く長い石垣と思われ見ごたえがあります。
二ノ丸南西隅の腰巻石垣
隅角部は算木積みとはならず広島城天守台と同様の古式を残している。
出丸東隅石垣と本丸下石垣
本丸下石垣
大手門の左側に続く本丸下の石垣。城内最高、最長と思われる。
大手門石垣
こちらも隅角部は算木積みとはならない古式となっている。
4. 天守
岩国城の天守は慶長13年(1608年)に完成しましたが、元和元年(1615年)の一国一城令により、わずか7年で取り壊されてしまった幻の天守です。その姿は「伝岩国城断面図」によって現代に伝えられています。三重目の大入母屋の上に望楼が乗る、四重六階の構造でした。
この天守の最大の特徴は南蛮造(唐造)と呼ばれる、上層が下層より大きく張り出した構造を二か所に用いていたことです。一般的に南蛮造は高松城や小倉城のように最上重のみで用いられますが、岩国城では三重目と最上重の両方にこの構造が用いられていました。二つもの南蛮造が使われた天守は全国的にも岩国城だけで非常に珍しい存在です。また、標高200メートルを超える山上に築かれた天守としては大型であることも特徴の一つです
現在の岩国城天守は昭和37年(1962年)に鉄筋コンクリートで再建された復興天守です。オリジナルの天守台とは異なる位置に錦帯橋からの景観を考慮して建てられました。外観は「伝岩国城断面図」に沿っていますが、窓の配置や細部の意匠は推測による部分が多く、オリジナルとは異なっているようです。特に、外壁はすべて下見板張りであったと推測されていますが、復興天守では三重目を白漆喰としています。その結果、二つの南蛮造、下見板張の黒、白漆喰の白の組み合わせが変化をもたらし、特異ではありますが非常に美しい姿となっています。その姿は「凍れる音楽」と称される薬師寺の東塔を彷彿とさせます。吉川広家もこれを意識していたのでは、と思ってしまいます。
近年、多くの昭和復興天守が内部をリニューアルする中、岩国城ではほとんど改修が行われていないため、2025年時点でエアコンもありませんでした。そのためか昔ながらの昭和復興天守の趣が残っており、かえって新鮮で貴重なものに思えました。
天守
南西、妻側から撮影。
天守
南東、平側から撮影。
天守
北東、妻側から撮影。
天守
北、天守入口側から撮影。
天守最上階からの眺め
海側、岩国中心市街地方面を撮影。
天守最上階から見た御土居跡
コの字状の堀に囲まれている様子がよくわかる。
6. 旧天守台
元和元年(1615)の一国一城令では山上部の建物のみが破壊されました。しかし、島原・天草一揆の翌年である寛永15年(1638)には、天守台を含めた山上部西側の石垣も破壊され、石材が散乱し雑多な雑木が生い茂った常態となっていました。
平成6年(1994)には天守台跡の発掘調査が行われました。上部は徹底的に破壊されていましたが、基部は原型を留めており、礎石も6個確認されました。規模は一変が約20メートル、高さは東が約7メートル、西が約10メートルでした。粗割石による野面乱積みで、隅角部は方形に加工された隅石を用いて算木積みを志向していますが、完成域には達していません。石材は横山の尾根筋に存在する石丁場からか切り出された石灰岩が主で、下部は発掘調査で見つかったものを使用、上部は新材を使用して復元されました。
旧天守台
東から撮影。
旧天守台
北から撮影。
7. 山上部その他
・空堀
岩国城の周辺には多くの空堀がありますが、中でも本丸と北の丸の間にある空堀は、山上部で最大級のものです。幅は約20メートル、長さは約60メートルの規模で、南西側が土橋となっています。石垣は徹底的に崩され、堀の底には石材が散乱しており、破却の様子をうかがい知ることができます。
・北の丸石垣
北の丸は本丸の北東に位置しており、東櫓、北櫓が建てられていました。北の丸の石垣は、北西側は一国一城令で徹底的に破壊されました。しかし、東側から南東側にかけての石垣は、山麓の御土居保護のためか破壊されず、現在も折れを多用した見事な姿を確認できます。これらの石垣を見るためには北の丸周辺散歩道を通る必要がありますが、枯れ葉などに覆われ足場も良くないため注意が必要です。
・大釣井
大釣井は、本丸西下に位置する山上部の水源となる大きな井戸です。図面にもその名が記され、抜け道伝説も伝わるなど、重要視されていたことがうかがえます。ここから北東にかけては、本丸北西を守るように大きな曲輪となっており、水の手曲輪と呼ばれていました。水の手曲輪の北には、山上部の搦手となる内枡形虎口がありました。
・登り石垣
山上部の北側のほぼ中央には、竪堀に沿って登り石垣が積まれていました。しかし、一国一城令による破壊のため、現在では残石がその名残をとどめるのみとなっています。同様の石垣は、吉川広家が岩国移封となる前に築いた米子城でも見ることができます。
空堀
本丸と北の丸の間の空堀。破却により石垣が崩されている。
北の丸虎口の石垣残石
北の丸南東の石垣
北の丸南東には見事な石垣が残る。
北の丸東の石垣隅角部
算木積みを志向しているように見える。
北の丸南東の石垣
大釣井
大釣井の周辺は水ノ手郭と呼ばれ山上部の水場となっていた。
矢穴の残る残石
登り石垣
山上部北の竪堀に沿って築かれていた。